4.宮廷薬師
皇城の廊下に座り込んでいたティアンナは左手に光る指輪をチラリと見てから、口を真一文字に結んで立ち上がった。
真っ白な白衣に汚れが付いていないか裾を持って後ろも確かめる。見た感じ何も付いてなさそうだが、念の為叩くと何事もなかった様に廊下を歩き出した。如何にも今来ましたよ、という態度で角を一歩で曲がればそれまで姿勢を崩していた騎士達がおかしなくらいピシッと姿勢を正す。
そのおもちゃの様な変わり様がおかしく、笑いが込み上げてきたティアンナはボロが出ぬ様、速度を速める。だがその場を完全に抜ける前に口元が意識とは関係無くモニョモニョと動き始めてしまった。これはいけないと持っていた書類で口元を隠す。すると騎士の一人が不思議そうにティアンナを見てきた。
「?」
強い視線を感じたが、見たら吹き出してしまうと思ったティアンナは気付かぬフリをして通り過ぎる。多少の挙動不審くらい別になんて事ない筈だ。
角を曲がり、騎士からの視線も途切れたところでティアンナは口元を緩めた。
「ふふ」
騎士達がフィティルオーナの話をしていたのには緊張したが、彼らがティアンナに印が出た事を知るわけが無い。指輪をしている限りばれはしないのだから。これが皆を困らせている事だとは理解しているが、この変化で歩んできた人生がガラリと変わってしまう方の身にもなって欲しい。
(陛下は何をしてるかな……)
だけど考えてしまう殺した筈の初恋。頭をブンブンと振り、ティアンナは雑念を振り払った。
皇城の一階の隅にある医務室、それが宮廷薬師であるティアンナの職場だ。ティアンナはノックもせず医務室の扉を開けると薬棚の在庫表を見ていた室長 ゲルト・アンデに声を掛けた。
「室長、総務部から申請書類貰ってきました」
そう言って、持っていた書類をゲルトに見える様にひらひらと掲げる。50を過ぎたゲルトは愛用している老眼鏡を鼻にかけたまま、ティアンナの姿を一瞥すると自身の部屋を指差した。
「ありがとう、机に置いておいてくれ」
「わかりました」
少しぶっきらぼうに見えるが、情に厚い人だという事をティアンナは知っている。ティアンナは笑みを浮かべながら答えると、奥にある室長室に書類を置いた。
「ふう」
総務部へのおつかいを済ませたティアンナは作業室にある自身のデスクに座ると、未処理ラックにある書類の束をペラペラと捲った。副室長になって5ヶ月。業務の半分は事務作業と言っても過言では無い。やってみて気付いたが自分は事務作業が別に嫌いでは無いらしい。だが、処理しても処理しても溜まる書類に段々と嫌気が差してきた。
(この書類、2ヶ月前の書類だな)
何故か後出しで出てくる書類。業務を始めた当初は大騒ぎをしたが、前副室長に苦笑いで『普通よ』と言われてからは全てを受け入れる心で処理をしている。基本、ティアンナが処理する書類は経理部や総務部等の他の部に提出する書類だ。何かあれば差し戻されるのでその時考える事にしたのだ。
ティアンナがいつもと変わらぬ困り眉で書類の分類をしていると急に甲高い声が鼓膜に響いた。びくりと肩を震わせ、声のした方を見れば鋭い視線と目が合う。
「何偉そうに書類見てんのよ。事務処理なんて馬鹿でも出来るんだからね」
ユナ・ゴルダン。ティアンナの同期である。薬師であるのに長い髪を縛らず、香水を付けている。薬草を調合する仕事だ。勿論長い髪は縛った方が良いが、香水は別に禁止はしていない。だが彼女は付け方に問題があるのか滞在していた場所が数分経っても分かる程、強烈な匂いを発している。上司であるゲルトが何度注意しても改善が見られない。それどころか容姿と仕事の腕に自信があるらしく、出来る自分の事は全て容認すべきと主張をしている強者だ。
そんな自尊心の高いユナ。自分より下と思っているティアンナが順当に出世するのをよく思っていないらしく、とても当たりが強い。
「紙見てるだけでお金貰えるなんて凄いわねぇ」
ピシリとティアンナの顔が固まる。
書類の不備が一番多いのがユナだ。ヒステリーを起こすので決して本人には言えないが、そんな事を言うなら完璧な書類の一つや二つあげて欲しい。
役職的にはティアンナの方が上だが、爵位はユナの方が上な為、ティアンナは中々強く出れない。ティアンナの生まれは子爵家である。そしてユナは伯爵家。階級としては一つだけだが、その差はとても大きい。それこそ入職当初はユナの小間使いの様に扱われていた。面倒臭い仕事は全て押し付けられ、顔の良い男の患者は率先して診る。それ以外は全部ティアンナの仕事だ。ユナは爵位の高い先輩が居る前では猫を被っていたが、それが段々と露見してきた頃ティアンナに小さな役職がついた。
辞令が出た時、ユナはそれはそれは荒れた。ゲルトに当然直談判もした。だが仕事をしていないユナが辞令を覆す事など出来る筈も無い。ゲルトはただ一言、仕事をしろと言っただけだった。
悪意のある視線を受けたまま、ティアンナは自己防衛の様にへらりと笑うと手元にあった指サックを嵌めた。
「見てるだけでは無いですよ」
ティアンナにしてみれば事実を言っただけだったのだが、青いアイシャドウで彩られたユナの目が怖い程吊り上がる。それを見て、ティアンナはこれから襲う大声の高音に備え、耳を押さえた。
「うるさい!何でアンタみたいのが副室長なのよ!おかしいでしょうが!」
癇癪を起こしたユナが丁度手元にあった調合用のすり鉢をティアンナに投げ付ける。
(それ壊れちゃ駄目なやつ!)
慣れたくは無いが、日常茶飯事の飛来物を壊さぬ様にキャッチすると今度はすりこぎ棒が飛んできた。流石に両手にすり鉢を持ったまま棒を避ける事も出来ず、眉間にゴッと当たる。
「っつ!!!」
ティアンナがすり鉢を持ちながら痛みに耐えているとユナが最後に何かを叫んで部屋から出て行った。勢いよく扉がバタンと締まり、入り口付近にあった額縁が落ちる。
「そんな事言われても……」
落ちた額縁を見て、ティアンナはすり鉢を机に置いた。眉間を摩り、額縁を拾おうとしゃがむ。すると呆れた顔をしたゲルトが入室してきた。
その呆れ顔を見るに、この中でのやり取りは外に漏れていた様だ。情けないやら何やらで眉を下げたまま笑えば、ゲルトがティアンナの名を呼んだ。
「ブロアーテ」
「はい、室長」
ティアンナは眉間を摩る手を止め、ゲルトを見た。ゲルトはしっかりとティアンナを見て力強い声を出す。
「君は彼女よりも有能だから自信を持ちなさい」
右肩をポンと叩かれた。それはきっとゲルトの激励なのだろう。
別にティアンナはユナの言葉に傷付きはしていない。あの態度をされてもう6年目だ。慣れてしまった。それにこうして上司であるゲルトがティアンナの仕事ぶりを見てくれている。何も怖くは無い。
「私だったら大丈夫です。気にしてないです」
本心である。だがゲルトは生まれながらの困り眉であるティアンナが悲しんでいると思っているのだろう。解っているとばかりに言葉を続けた。
「彼女は口だけで何も出来やしない。君や皆が普通にやっている事をさも自分だけしか出来ない様に言う。解っているから」
ユナに対しての上司の評価が思ったよりも辛辣で苦笑いが思わず出てしまった。
「はい」
ティアンナは返答に少し困りながらもそう答えるとまだ痛みがある眉間に手をやる。その動作を見て、ゲルトが手持ちの塗り薬をくれた。まだ鏡を見ていないがもしかしたら目に見えて何かがあるのかもしれない。
ひやひやな気持ちをどうにか収めて、ティアンナはすり鉢とすり棒を定位置に戻した。
そうしているとゲルトが徐ろに話し始めた。
「さっき連絡があったんだが、コストナー小公爵が薬を貰いに来るらしい。対応して貰えるか」
本題はユナではなく、どうやらこちらの方だったらしい。
コストナー小公爵、エミリオ・コストナーは皇帝であるサフィールの側近である。そして現宰相であるコストナー公爵の後継だ。
ティアンナはサフィールといつも共にあるエミリオを思い浮かべ、難しい顔をしている彼であれば胃が悪いのかも知れないと勝手に想像した。そして先にある程度薬を用意しておこうと、机にあるペンを持った。
「何処が調子が悪いとか仰ってましたか?」
胃かな?胃だろうなと思いつつもゲルトに問えば、返ってきたのは予想だにしていなかった言葉だった。
「ああ、彼ではなく陛下が不眠気味らしくてな。陛下の薬を代わりに貰いに来るようだ」
陛下、という言葉にティアンナの胸が跳ねる。そして視線が無意識に左手の薬指へと向かった。
月祝印が出て約2ヶ月。彼の事を考えない日は無い。今日こそは、と思う日が実はあった。でも何も言えず、誰にも言えずに今に至っている。
あれはいつだったか、遠くにいるサフィールを見かけた時、光源も無いのにキラキラと輝く金髪を見て、何故か泣き叫びたい気持ちになった。私は此処だと、そう主張したくなった。
(あれは私の気持ちだったのかな、それとも私がフィティルオーナの写身だから?)
半身を求めて渇望したのだろうか。いつの間にやら女神の心と自分の心がごちゃ混ぜになったのだろうか。もう何も分からなかった。
「陛下のなんですね。お忙しいのに不眠だなんて疲れが溜まっちゃいますね」
どう言えば普通と思われるのか。それさえも分からず、ティアンナは眉を下げ笑った。
「倒れる前に三日間くらい寝る強力な睡眠薬を貰いたいらしい」
ゲルトの冗談なのか、違うのか分からない言葉にティアンナは困惑をする。
「程々のを処方します」
困った末、答えた言葉にゲルトは宜しくと言うと静かに部屋を出て行った。掛け直した筈の額縁がカタリと傾いた。