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32.我が君


 ゲルトとティモは床に倒れ込んだティアンナに駆け寄るとその身を起こした。


「ブロアーテ!ブロアーテ大丈夫か!」


 血色の悪い顔が揺らされた事で僅かに動く。うぅ、と声を上げティアンナはゆっくりと目を開け、くしゃりと顔を歪ませた。


「すみません、」


 何の事を謝っているのか。体を支えている事なのか、今の事なのか、それとも。

 ゲルトは頭の中で構築される思考に『でも、まさか、いや』と何度も否定していた。ゲルトの目の前の部下は就職してきた時と変わらぬ色をしている。だから違う筈なのだ。だが、色々とおかしい。否定出来るだけの情報はあるのに、頭が処理しようとしない。


 これは、もしかしたらそうなのでは……


 そう感じさせる出来事にゲルトは頭を振った。


「頭は打ってないか?」

「大丈夫です……」


 ふらふらと支えられている腕からティアンナは抜け出すと、人だかりが出来ている玉座を見た。


「ベック卿、陛下は」


 ティモは玉座を見ずにティアンナを見る。前にいるティアンナの顔はティモからは見えない。だが、全身が絶望を表している。

 長いローブを床に擦らせながらティモはティアンナの横へと移動した。真っ白な顔は瞬きもせず人だかりを見ていた。


「呪具を使って呪われたようじゃ。左胸に痣が出来ておる。それが濃くなるにつれ、心音が弱くなって」

「わたしのせいだ」


 ティアンナはティモにしか聞こえない声で呟いた。ほろりと涙を一筋流して。


「私が、私がもっと早く言っていればこんな事起こらなかったかもしれない」

「ティアンナちゃん」

「二柱が揃わないといけないなんて子供だって知ってるのに」

「ティアンナちゃん」

「わたしが、わたしが」


 顔を覆う事なく涙を流すティアンナをティモは否定もせず、見続けた。恐らくティアンナにティモの声は聞こえていない。ぽつりぽつりと溢れる声は心から漏れているだけなのだろう。


 ティモはティアンナの肩に手を置き、体を揺すった。一点を見つめていた虚ろな緑の瞳がティモを見る。瞳が合った事を確認するとティモはティアンナの名を呼んだ。


「このままでは陛下は持たない」


 その言葉にティアンナはくしゃりと顔を悲しみで歪ませた。


 サフィールの姿は多くの人に囲まれていて見えない。だが悲壮な声で名を呼ばれているのがずっと聞こえてきていた。陛下、陛下と必死な声は恐らくエミリオだろう。それ以外にも様々な人がサフィールを呼んでいる。その中に自身の上司を見つけ、自分の立場を思い出した。


 何故呼ばれたのか、それはティアンナが薬師だからだ。サフィールの処置を、容体を見る為に呼ばれた。なのに自分は今の今まで現実を受け止めきれず泣いていただけ。嘆くのなら誰でも出来る。立ち止まる事だって。


「分かるじゃろう?」


 何もかもが中途半端な自分にティアンナは吐き気がした。やらなければならない事をを先延ばしにして仕事をしていた癖に、本当に必要な時にこんな愚かな行いをするなど。


 ティアンナは薬師だ。だが、フィティルオーナの器でもある。ならばこの場を救えるのは自分しか居ないのだ。


 ティアンナは胸に手を当て、瞼を閉じた。そして大きく息を吸う。

 フィティルオーナは豊穣と治癒の女神。今やらないでいつこの力を使う?


 ティアンナは力強く瞼を開けた。


「ベック卿、教えて下さい。私が何をすれば良いのかを」


 後悔は後でしよう。懺悔も後で。今すべきは自身の半身を救う事だけだ。

 ティアンナは揺るぐ事の無い強い決意を孕んだ緑色の瞳でティモを見た。ティモはそれを見て深く頷くとただひと言ティアンナに伝える。


「祈りなさい」


 はっきりとした声が絶望の空間に響く。二人にしか分からない会話だったが、何の偶然かその時音が止まり、沢山の視線がティアンナとティモに注がれた。


 サフィールに縋る様に横にいるエミリオも色を無くした顔でその声を聞いていた。聞こえた声は間違えようが無いサフィールの想い人の声。


 何を話している、そう口に出したくとも体が主人が倒れた恐怖から上手く動かない。辛うじて働く思考でティアンナを探すが人が犇く玉座では見つける事が出来なかった。




 ティアンナはティモの言葉に祈る、と呟いた後、左手の人差し指を右手で握りながら玉座である壇上を見た。

 この印が出てから8ヶ月。癖になった左手の人差し指を握る癖。もしかしたらこれからも出てしまうかも知れない。この日からもう指輪はしないというのに。


 ティアンナは髪を纏めていた紐を解き、サフィールが倒れる玉座へ足を進めた。サフィールの周りにいた人々がティアンナの近寄りがたい空気に道を開ける。開かれたその先にサフィールが倒れていた。


 血の気のない顔に、動かぬ瞼。血を吐いたのだろうか、口の周りが淡く赤くなっている。はだけた胸元には蔦薔薇の様な赤黒い痣があった。鼓動のように脈打つ痣はまるでポンプの様に血を吸っている様にも見える。


(泣くな、泣くな、まだ違う。大丈夫だから)


 ティアンナは目元に力を入れた。泣くのはやる事をやってからだ。


「陛下」


 ティアンナは開けられた道を行き、サフィールを呼ぶ。その声は震えていた。


 エミリオから見えるティアンナはいつもより強い眼光だった。怒りでは無い、まるで覚悟を決めた顔に国境の戦士を思い出す。殉死という言葉が頭を掠る。だが、その言葉に主人であるサフィールの死も含まれている事に気付き、下唇を噛んだ。


 ティアンナは指輪を触り、サフィールの横にいるエミリオを見る。


「ティ……ティアンナ嬢」


 この短時間でエミリオの喉は張り付いてしまったのか、最初の一音が掠れていた。真っ白な顔で困惑の声を出したエミリオはティアンナを警戒する様に少し腰を浮かす。だがティアンナの決意に満ちた小さな頷きでそれ以上動く事は無かった。


「コストナー小公爵、最初に謝ります。申し訳ございませんでした」


 眉を下げて頭を下げる姿はいつもと同じに見える。だが、強い眼力が彼女を彼女では無い様に錯覚させた。

 ティアンナはサフィールの胸の痣を前に呆然としている魔術師や呪術師をごめんなさい、と脇にずれさせると痣にそっと触れた。下がった体温とベタリとした赤黒い血液がティアンナの白い手についた。


(わたしが愚かであったばかりに)


 ティアンナは涙が溢れない様に上を向いた。いつも明るいシャンデリアが何故か今日は暗く見える。サフィールが此処で倒れているからだろうか。


 ティアンナはきつく瞼を閉じた。そして深く深呼吸をする。


「陛下、我が君、我が心……」


 その言葉にエミリオがハッとティアンナを見る。血に濡れた手でティアンナは左手にある指輪に触れた。シルバーの指輪が赤く汚れ、ティアンナはそれを見て少し動きを止めた。悔しそうに一瞬顔を歪めた後、瞳を閉じ、その指輪を一気に引き抜いた。


「え、」


 その光景は二度と忘れる事は無いだろう。エミリオは女神の降臨を見た。


 ティアンナが指輪を外した瞬間、ティアンナの栗色の髪が毛先の方から光が上がる様に変化していく。キラキラと月光の粒が彼女の髪を撫でる。するとそれは波の様に静かに広がり、彼女の髪を染め上げた。その色はこの国に、世界に二人といない色。見事な銀髪であった。


「あああ」


 その声は誰の声だったか、歓喜とも驚愕とも取れる呻き声が聞こえた。だがその声も開け放たれた扉から入ってきた一陣の風により吹き飛ばされる。

 ティアンナの髪を下から巻き上げる様に吹いた風。シャンデリアの光を浴びて優しく煌めく月光色の髪に誰もが息を飲んだ。


 そしてティアンナが強い風に伏せていた瞼を上げる。誰もがスローモーションでその動きを見た。ゆっくりと開かれる瞳は紫。あの指輪の石と同じアメジストの瞳だった。


「陛下」


 皆が動きを止める中、動いたのはティアンナのみだった。あのティモも動けずにいる。分かっていた筈だった。だがそれでもあの変化には頭がついていかない。


 ティアンナは横たわるサフィールの手を両手で握ると祈る様に額につけた。大きな手にかさつく手の平。休みなく働いていた代償とも言える手に堪えきれない思いが込み上げていた。


「へいか、へいか」


 きっとサフィールは前皇帝が斃れた時から死に物狂いで生きていた。父が叔父に殺され、皇帝になったサフィール。今なら分かる。彼は虚無感を埋める様に仕事をしていたのだ。


(本当ならわたしが、皇后が分かち合わなければならなかったのに)


 それを癒すのが恐らく自分であったのに。


(わたしが彼をひとりぼっちにしたんだ)


 苦しく怖い暗闇に置き去りにした。自分の事しか考えずに、様々な言い訳をして。


 番だから側にいて欲しいではなく、ティアンナだから側にいて欲しいと思って欲しかった。なんと愚かな事を考えていたのだろう。なんて贅沢な事を。


 ティアンナは両手に力を込める。泣くな泣くなと思っていたが、涙がとめどなく流れていく。広い部屋にティアンナの啜り泣く声と『へいか、へいか』という声だけが響いた。


「へいか、どうか起きてください」


 額を寄せていた手に唇を落とす。涙がサフィールの手を伝い、赤い絨毯に染み込まれる。


 そしてティアンナはその痣に唇を寄せた。そっと優しく触れ、何度も唇を落とす。

 痣に触れる度、体に何が吸い込まれる感覚に陥る。これは呪いを自身に移しているのだろうかとティアンナは思ったが、サフィールがこれ以上苦しまないのであればそれで良いと甘んじて受け入れた。

 口付けする度に腹に溜まる澱みと比例して、サフィールの痣が段々と薄くなっていく。


 握っている手にも体温が戻ってきた。それに気付き、ティアンナは握る手に力を込める。

 するとピクリと握っていた手が動き、ティアンナの手の甲を撫でた。ティアンナは胸から唇を離し、サフィールを見た。


「へい、か」


 薄く開けられた瞳が、ティアンナを見た。赤い瞳がティアンナの紫の瞳を捉える。


「ああ、きみだ」


 掠れた、柔らかい声にティアンナは滂沱の涙と嗚咽が止まらなくなった。


「きみだ」


 サフィールの目尻から涙が溢れる。


「ティアンナ」


 そう言ってサフィールはティアンナの頭に手を回して自身の胸に沈めた。


「きみだった」


 ティアンナの涙がサフィールの胸を濡らす。僅かに残っていた痣はもう何処にも見えない。それはサフィールが死の淵から帰ってきた事を意味する。

 目の前の出来事に理解が追い付かないエミリオだったが、主人の涙を見て、自分も泣いている事に気付いた。


 サフィールは胸元に埋められたティアンナの銀髪に口付けを落とす。涙で濡れた唇で何度も何度もその証に口付けを落とし、ティアンナの名を呼ぶ。顔を上げたティアンナの紫の瞳に自分が映っているのを見て、サフィールはまた涙を零した。




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