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31.転落


 懐かしい夢を見た。学生時代の夢だ。


 夢の中のティアンナは裏庭の木の前に座り込んでいた。夏の日差しを遮る程の大木。見上げると葉の隙間から青空が見えた。

 手元にある本に視線を戻し、それを読む。ぺらりぺらりとページを捲り、自身に影がかかった事に気付いたティアンナは視線を上げた。


 自分を微笑みながら見下ろす黒髪の男、瞳は空のように青い。


『あ、』


 気付いたティアンナは立ち上がろうとしたが、男に制止される。小さく笑った男はティアンナの唇に触れた。夢なので感覚は無い。だが覚えのある動作にティアンナは夢の中でいつの事だったかと記憶を探る。だが夢の中だからなのかふわふわした頭は何も思い出せなかった。


 男は唇に這わした手をそのまま頬へ指を滑らせると、汗が流れる首筋に触れた。夢なので感覚は無い筈だが何故かくすぐったさを感じ、身を縮こませると息を飲む声が聞こえる。


『あ、殿下……?』


 男はそう、サフィールだった。ぼやけていた顔が名を出した事ではっきりとしてくる。

 困った様に笑ったサフィールはティアンナから手を離すと『すまん』と一歩下がった。その腕を掴もうと手を伸ばしたが、透明になったサフィールに触れる事は出来ない。


 じわりじわりと夏の空に溶けるサフィール。

 夢なのに胸が抉れる様に痛んだ。



「でんか……」


 自分の声で目が覚めたティアンナはチュンチュンという小鳥の声を聴きながらゆっくりと体勢を起こす。無意識に目元を触れば泣いたような痕があった。


「なんて夢見ちゃったんだ……」


 乱暴に瞼を擦り、夢の残影に頭を振る。くしゃくしゃな髪が視界に入り、見慣れ始めた銀髪を手に取った。


 鳴り始めた目覚まし時計を止め、ティアンナは洗面所に向かうと顔を洗う。

 懐かしい夢のせいなのか、何処となく心が落ち着かない。何度も何度も顔を洗い、ずぶ濡れの顔を鏡で見て、そして紫の瞳を覗き込む。騒つく心が表れているのか瞳が揺れている様にも見えた。


 基礎化粧をした後、洗面台に置いてある指輪を嵌めれば何故かズキリと指が痛んだ。痛みは一瞬だった為、気のせいだとは思ったが念の為外し、指輪と指を見る。何度も角度を変え指輪を見るが痛みが走った原因は結局分からず、首を捻りながらティアンナは改めて指輪をした。今度は何も起こらない。


(指でも攣ったのかな?でもそれならあんな一瞬じゃないよね)


 さして気にせず、準備を終えたティアンナはいつもと変わらぬ格好で職場へと向かった。


 だが着いた職場でもティアンナの心の騒つきはおさまらなかった。寧ろ時間を置く毎に激しくなる。動悸なのかと疑うくらい心が騒ついた。


 だからだろう。いつもはあまりしないミスもしたし、インクの瓶も机から落とした。当然蓋を開けたものが、である。絨毯に盛大なシミをつけてしまい、先程まで泣きそうになりながら染み抜きをしていた。

 同僚はそんな事清掃の人にして貰えば、と言っていたが時間が経つ前に処理をしないと落ちなそうなのでせっせと染み抜きをしていたのだ。


「副室長も貴族令嬢なんだから床に座るのはどうかと」


 今年2年目の子に言われ、ティアンナは苦笑した。


「自分が貴族令嬢ていうの忘れてたよ」

「忘れます?それ?」

「実家帰ってないからかな?」

「タウンハウスにもですか?」

「あ、そうだね。年末に帰りそびれて」


 引き篭もりだった年末年始を思い出し、芋蔓式にその原因も思い出す。暗い表情を浮かべたティアンナを見て後輩は失言だったと慌て始めた。


「いや!でも副室長は凄いですよね!普通貴族なら出来ない染み抜きも出来るし!」

「はは、貧乏子爵家だから出来るだけだよ」


 ティアンナはシミのあった場所を眺めながら席に着く。後輩はティアンナの言葉に戸惑ったようで適当な褒め言葉を吐いてそそくさと部屋から出て行った。


 どうしてこんなに落ち着かないのだろう。ティアンナは自身の胸に手を当てた。何もしても落ち着かない。心が落ち着くお茶を飲んでもだ。


 手元の書類を見ても内容が頭に入ってこない。体調が良くないのかもしれない、そう結論付けようとした時、慌てた様子のゲルトが部屋に入ってきた。

 息を上がらせ、真っ白な顔でティアンナ目掛け向かってくる。


 何事かと驚きで動きを止めているとゲルトがその荒々しさとは正反対な震える声を出した。


「陛下が襲われた。意識不明だ」


 持っていた書類が足下に落ちる。僅かに開いた口が、何故と呟いた。




 サフィールの主治医という事もありティアンナとゲルトは事が起こった現場へと直ぐに向かった。


 何が起きているのだろう。

 長い廊下を早歩きでゲルトと共に朝議の間へ向かう。止まらぬ冷や汗と動悸に胸が嫌な音を立てる。目的の部屋近くになると同じく呼ばれたであろう魔術総長が真っ白な顔で向かいから走ってきた。長いローブをはためかせ、緊急事態からなのか開け放たれた扉へ駆け込んでいく。それに続く様にティアンナとゲルトも部屋へ入れば、その異様な雰囲気に足が止まった。


 いつも荘厳な雰囲気である部屋は騒然としていた。朝議に参加していた役人達は一様に青褪めており、中には力なく座り込んでいる人もいる。


「何が」


 困惑のまま、そう声を出せば医務室の二人に気付いたティモが険しい顔で近寄ってきた。


「陛下が呪いを受けた」

「呪い、ですか」


 返事をしたのはゲルトだった。ティアンナは呪いという言葉に体の芯から自身が崩れていく錯覚に陥る。それと同時にこの騒然としている場の中心である玉座を見た。

 人が多くてよくわからないが、恐らくそこにサフィールが居るのだろう。よろよろと足を一歩出したが、膝から崩れてしまった。


「ブロアーテ!」


 床に倒れるすんでのところでゲルトが腕を掴む。よろりと揺れる体は力が入らない。


―――行かなければ、あそこへ。


 そう思うのに体に力が入らない。自身が浅く短い呼吸をしている事に気付き、ティアンナは僅かに残った理性で大きく息を吸った。


「一体、誰が」


 ゲルトがティアンナを支えながらティモに訊ねる。ティモはゲルトではなく、ティアンナを見てその名を告げる。


「アンジェロ・フォン・オルトラーニ」


 それは脱獄した前皇弟の嫡男の名だった。玉座から視線を僅かに下へ向ければ騎士に拘束されている人物が確かにいた。後手を縛られ、背中に片足を乗せられており、首元は2本の剣で挟む様に抑えられていた。だがよく見るとその横にもう一人拘束されている人がいる。

ぼやけた頭で見ていると隣のゲルトが驚いた声を出した。


「ユナ・ゴルダン!」

「え」


 確かによく見てみるとそれは女だった。しっかり存在を認識してみれば声も聞こえて来る。


「放しなさいよ!私が皇后よ!」

「何言っている!お前の髪は水色じゃないか!」

「違う!銀色よ!瞳だって見て!紫じゃない!」

「お前は水色の髪で茶色の目の普通の女だよ!」

「違う違う違う!」


 聞くに堪えない言葉にティアンナはぎゅっと目元に力を入れる。何故彼女があんな事になっているのかは知らないが、きっとやってはいけない事をしたのだろう。


「ゴルダンが何を」


 ゲルトは冷めた目でユナを見つめたままそう訊ねるとティモは力無く首を振り、固い声を出す。


「彼女がアンジェロを手引きしたのじゃ。何故そんな事をしたのかはまだ分からんが」

「愚かな事を」


 ユナがアンジェロを、その事実に感じた事の無い程の怒りが身に押し寄せてきた。怒りで目の前が狭窄していく感じさえもする。耳の奥に血潮の音と耳鳴りを感じ、ティアンナはゲルトの支えを自ら外した。


「ユナ・ゴルダン」


 ティアンナは先程まで震えていた事など無かった様にしっかりとした足取りでユナに近付く。その背中をゲルトは戸惑いながら見ていると、横にいたティモが悲し気に首を横に振る。


 一体何が、そう口にしたくとも感じた事の無い畏怖感に体が動きを止める。周りの人間も同じなのだろう、一部を除いて呆然とティアンナを見ていた。


 ユナは近付いてくるティアンナに気付くと何を勘違いしたのか、傲慢な態度そのままに醜い口を開く。


「あんた!良いところに来たわね!この騎士達に言ってよ!私が皇后だって!だから離せって!」


 ユナが皇后で無い事はティアンナが一番知っている。なのにそれを言えと?おかしい事を言う。

 ティアンナは鼻で笑い飛ばすと愉快そうに笑った。


「ねぇ、あなたはやってはいけない事をしたわ。私を怒らせたもの」


 初めて見るティアンナの様子にユナは顔を固まらせた。ユナの知るティアンナはいつもおどおどとした使い易い人間。仕事を押し付けるのに最適な人間だった筈だ。それなのに目の前の女は不敵に、妖艶に笑う。

 ユナは知らなかった。ティアンナがこんなにも恐ろしいなど。全身から汗が噴き出て止まらない。


 笑みを浮かべたままのティアンナは両手をパチンと合わせた。天井に響く音、ぐあんぐあんと反響し音が終わるとユナが呻き声を上げ始めた。


「痛い!痛い!痛い!」


 ユナを押さえつけている騎士達をも動かす程の力で暴れ出したユナはしきりに顔に手を伸ばそうとしていた。


「顔が痛い!痛いの!」


 痛みで発狂せんばかり元部下の声にゲルトは耳を塞ぎたくなった。そして見えたユナの顔にゲルトは息を飲む。

 ユナの顔半分に蛇を模した様な黒い痣が浮かんでいたのだ。痛みにのたうち回る度にそれは意志を持つ様に動き、ユナの顔を蹂躙する。


 あまりの恐ろしさに呼吸を止めた。


 ティモはこれを分かっていたのかも知れない。だからあんなにも悲しげに首を振っていたのだ。


 ゲルトはユナの前にいるティアンナに視線を戻した。

 ティアンナは纏った空気を更に尖らせ、何故か天井を見上げる。


「ん、いつぞやの人」


 そう言ったかと思ったら天井から人が落ちてくる。大理石の床に叩きつけられた桃色の髪の人間はピクリとも動かない。この部屋の天井は高い。あの高さから落ちればひとたまりも無いだろう。


 ティアンナは床に落ちた桃色髪の男、リンウッドに近付くとうつ伏せになっていた体を仰向けにする。そして流血する額に触れた。すると傷が治り、リンウッドが呻き声を上げながら瞼を開けた。


「捕縛をお願い」


 リンウッドが意識を戻した事を確認したティアンナは近くの騎士に声を掛ける。様々な複合的な出来事に声を失っていた騎士はティアンナの声に弾かれた様に動き出す。三人がかりで捕縛されたリンウッドは信じられないものを見る目でティアンナを見た。


「これが神に喧嘩を売った代償だっていうの?」


 ティアンナは頷き、微笑んだ。


「相手が神だと知っていながら何故喧嘩を売ったの?ねえ、元魔術師さん」


 リンウッドは苦々しく顔を歪めると抵抗する事もなく、体から力を抜いた。


 その姿を確認したティアンナ、いやフィティルオーナは体をティアンナへと返す。ふっと意識を引っ込ませれば、床にティアンナが倒れ込んだ。




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