3.女神様の言うことにゃ
気絶する様に眠りに落ちたティアンナは真っ白な部屋にいた。ふわふわな地面に果てのない白い世界、一瞬にしてこれが夢だとティアンナは理解した。現実にはあり得ない空間を夢だと解りながらも見回す。目が痛くなる程の白さに口がポカンと開いていった。
何も無い空間で何の面白味もない。強いて言うならふわふわな地面が新鮮だ。ティアンナは地面に目をやり、一歩足を踏み出す。平衡感覚が狂う様な不思議な感覚に身体が揺らいだ。思わず漏れた笑い声に現実の悩みが薄れていく。
ずっと此処にいれたら、そんな思いがふと浮かぶ。だがその思いは一瞬で消えた。
「駄目よぅ、此処は私の家だもの!」
突如聞こえた軽快な声、誰もいないと思っていた空間に自分以外の声が聞こえ、ティアンナは驚きのあまり少し飛び跳ねる。
「ひゃっ!」
情けない声が空間に響く。夢の筈なのに驚きで鳥肌が立つのを感じた。現実とあまり大差の無い夢にティアンナは怯えながら声のした方を見る。
自分の後方、ギギギと油切れの音が鳴りそうな程ぎこちない動きで首を動かせば、直ぐに真後ろに銀髪、紫眼の見た事も無い程美しい女性が立っていた。
女性は楽しそうに口元に弧を描きながら、首をこてんと傾げる。
「私の事わかるぅ?」
地面につく程長い髪が重力など無い様にふよふよと浮いていた。女性の動きに合わせてふわりふわりと意識を持つ様に髪が揺れる。その美しさにティアンナは目を奪われた。
見事なまでの銀髪。心が奪われる紫眼。そしてこの人外の美しさ。この国の生まれであれば一度は見た事がある教会の女神像に似ている。
ティアンナは美しさに奪われていた意識をはっと戻し、恐る恐る口を開く。
「フィティルオーナ様ですか?」
「あったりーー!!!」
いつ間にやら浮いていた女神、フィティルオーナはティアンナの眼前で陽気にタンバリンを鳴らした。何処からかラッパの音も聞こえ、混乱の極みである。
何とも処理が追い付かない事態にティアンナはポカンとはしゃぐ美人を見ていた。どうして女神が夢に?それに文献に載っているものとは大分性格が違いそうだ。なんだなんだ?と考えていると目の前で浮いているフィティルオーナがくるりと一回転をした。その顔の無邪気さは悪戯が上手くいった子供の様である。
「どうして夢に出てくるのって?」
ちょうど鼻のあたりで人差し指をクルクルさせ、フィティルオーナは美しい顔を花の様に綻ばせた。その言葉にティアンナは目を丸くする。
「なんで分かるんですか!?」
「だって神様だもーん。わかるわよぅ」
ふふふ、と笑うフィティルオーナとは反対に青褪めるティアンナ。それはそうだ。考えている事が全て読まれている等、裸を見られるより恥ずかしい事。どうすれば読まれないのか、ティアンナがあわあわとしているとフィティルオーナがその白魚の様な白い手をティアンナの頬に添わせた。夢なのに何故か温かさを感じ、びくりと体が跳ねる。
「え、嫌なの?いいじゃない、別に。他の人はもっと凄い事考えてるのよー!ティアンナの考えなんて可愛いもんよぉ!文献と違う?そりゃそうよ、書き直させたんだから!」
あっけらかんと言うフィティルオーナにティアンナは呆気に取られた。勢いが凄い。まるで食堂のおぼちゃんの様な勢いだ。
『気にしない、気にしなーい!』とティアンナの周りを飛ぶフィティルオーナを見ていたら何だか恥ずかしい事なんて無い気がしてきた。だって他の人も見られているのだろう?自分だけじゃないのなら全然良い気がする。
丸め込まれたと言われればそれまでだが、テンションの高い女神を前に困り眉のティアンナに何が言えようか。想像と全然違う女神の性格にティアンナは戸惑いながら口を開いた。
「もう大丈夫です」
諦めたティアンナは距離の近いフィティルオーナより一歩離れ、両手を前に出した。あまりに美人だと見ているだけで心に悪い。緊張してしまう。そんなティアンナのやんわりとした拒否の姿勢にフィティルオーナは目を丸くした。そして直ぐに目を細め、不服そうに頬を膨らます。
「ま!なぁに!その態度!私女神様よ!我女神!崇め讃えよ!」
「違うんです!フィティルオーナ様の距離が近くて緊張するんです!」
「本当にぃ〜?……あら、本当そうね」
「嘘はつきません。つけません……」
「ふふ、そうだったわ。本当馬鹿正直な子」
楽しげな声に悪口が聞こえ、ティアンナは首を傾げる。何故今、貶められたのかよく分からない。
「それでね、夢に出てきた理由なんだけど」
悪口を言った意識等無いのだろう、フィティルオーナは軽い口調で話を続けた。もやもやが収まらないティアンナは心の中で悪口?悪口言われた?と繰り返す。様子を伺う様にフィティルオーナを見ても無反応である。きっと聞こえている癖に。
「ティアンナ!あなた凄く悩んでるわね!」
見事にスルーな女神はドヤ顔でティアンナを指差してきた。
悩み事、そう言われ思い当たるのは三つ。先程の悪口と、
「しつこいわね……」
「ん?」
「なんでもないわぁ!」
そう、悪口と埋めた恋心、それに仕事の事。
漸く諦めがついたのに今更皇后だなんて心が追いつかない。諦めたものが手に入る事を喜ぶ気持ちよりも困惑の方が大きい。好きな人の隣に立てる、でもそれは……
(フィティルオーナの写身だから好きになるって事で)
月祝印が出る前から好きだったティアンナからしてみれば、それが操作された感情の様な気がして何だか嫌だったのだ。贅沢な悩みと言われればそうに違いない。だが伊達に8年も片思いをしていない。既に拗らせ済だった恋心は素直にその感情を受け入れる事が難しい段階に来てしまっている。
仕事にしてもそうだ。漸く副室長まで昇り詰めた。別に上昇志向等無かったが、役職は無いよりあった方が何かと良い。面倒な事や責任を負わされる事も今後あるだろう。だが、薬を作る事や研究する事は好きな為、辞めるという選択肢は無い。
皇后になったらきっとこの仕事は続けられないだろう。
だからと言って皇后に絶対なりたくない訳でもない。隣に彼が居る。共に歩める未来を選ぶ事が出来るのだ。長年片思いをしていた自分にとって望んでいた未来に違いない。でも、やはり躊躇してしまう。
これで良いのか、と。
ティアンナは纏まらない頭のまま、フィティルオーナの問いに頷いた。
「はい……」
「よっしゃー!皇后だ!とかって素直に喜べば良いのに変に悩んでグチャグチャでしょ?」
暗い声のティアンナとは対照的にフィティルオーナはとても元気だ。身振り手振りで話す姿は正直とても女神とは思えない。だが見ていると元気は出てくる。まあ、今のティアンナの心情ではほんの少ししか元気は貰えないのだが。
しょんぼりとした顔のまま、ティアンナは口を開いた。
「おっしゃる通りです……」
そんなティアンナの様子を見て、フィティルオーナはしてもいない眼鏡を上げる動作をした。口端を上げ、一段と高く浮くとティアンナを見下ろす様に空中に立つ。
「そんな私の分身に朗報です!」
ひらりひらりと薄手のドレスの裾が揺れる。中が見えそうになり、ティアンナは真っ赤な顔して数歩下がった。同性と言えどドレスの中を見るのには抵抗がある。それに何も履いていない可能性だってあるのだ、その場合はどう反応したら良いのか解らない。
「フィティルオーナ様!降りて!もう少し降りて下さい!」
ティアンナの声など何処吹く風。フィティルオーナは勢いを殺さず、声を張り上げた。
「ジャジャーン!!」
またしてもラッパの音。それと共にフィティルオーナがパチンと指を鳴らした。その瞬間、ティアンナの左手の人差し指に指輪が嵌まった。
華奢なシルバーの土台に紫色の石が嵌め込まれた指輪。華奢な作りだからか百合を思わせる細工がとても美しい。この紫色の石はアメジストだろうか。宝石はよく知らないが、きっとそうだろう。
ティアンナは突然指に嵌まった指輪を一通り観察すると、当然のように疑問を口にした。
「何ですか?これ」
「隠し身の指輪よ!」
「隠し身の指輪?」
フィティルオーナの回答を反芻する。言われてもよく解らない言葉に首を傾げた。
「そう!これをつけてると変化した姿が元の姿になるの。たまにいるのよね、少し待ってって子。だからそういう子用に作ったのよ、便利でしょ」
ドヤドヤっと胸を張り、フィティルオーナはそう説明した。一瞬理解出来ずポカンとしたが、段々と理解してきたティアンナは徐ろに自分の髪を見た。目に入ったのは心落ち着く栗色の髪。
「本当だ!髪色戻ってる!」
ほわぁ!と喜びが滲み出させながらわしゃわしゃと自分の髪を何度も見ているとドヤ顔のフィティルオーナが手鏡を渡してきた。それに遠慮もせず覗き込めば、いつもと同じな父親譲りの緑色の瞳も見えた。
「目も緑!」
その場で踊り出せそうな程、喜んでいると少し複雑そうな顔をしたフィティルオーナがティアンナの名を呼んだ。
「ティアンナ、一応旦那様にもこの事は伝えとくけど、旦那様堪え性が無いからあんまり待たせないであげてね」
旦那様とはクインツィアートの事で良いのだろうか。ティアンナが目で問えば、フィティルオーナが大きく頷く。
目線を上にし、暫し考えたティアンナは何かを決意した様に小さく頷くと目の前でふよふよと浮くとフィティルオーナを見つめた。
「……気持ちと仕事が一段落ついたら申し出ます」
「わあ!時期曖昧!」
「へへ」
考える猶予が貰えた事が嬉しいティアンナは漏れる喜びを隠しもせず笑った。フィティルオーナは自分の分身の不可解な笑いに首を捻るとティアンナを見下ろす角度へ移動する。
「何が楽しいのかしら。まぁ良いわ!また来るわね!おやすみ!」
長い髪を靡かせて、更に空中へ浮かんだフィティルオーナは紫眼を柔らかく細めて手を振った。ティアンナも振り返そうと右手を上げたところでブツンと何かが切れる。
なに?と思った瞬間、けたたましい目覚ましが鳴り響いた。習慣でパチリと目を開けたティアンナは寝た心地がしない気持ちのまま、目覚ましを止める。
(夢、だったよね。にしては現実味がある……)
そう思い、何の気無しに左手に触れる。するとコツンと硬い物に指先があたった。
(まさか!)
ゆっくりと布団から左手を出せば人差し指にアメジストの指輪が嵌っている。
「夢、じゃない……?」
ティアンナは驚きのまま、上体を起こすと指輪を朝陽に透かした。
「本物だ……」
何度角度を変えても存在する指輪。ティアンナは胸から込み上げる形容し難い感情を押し留める様に人差し指をぎゅっと右手で握りしめた。
「ありがとう、ございます」
その後、ティアンナはベッドから這い出ると鏡の前に立った。いつもと変わらぬ容貌に軽く笑みを作る。そして出勤前の支度をいつも以上に丁寧にし始めたのであった。