2.墓場行きの恋心
さて、時は遡る事三ヶ月前。この神聖カラブリア帝国に新皇帝が即位した。名はサフィール。歳は25。若き皇帝は父である前皇帝が殺された事によりその座に着いた。
前皇帝の弟、彼にとっての叔父が皇位簒奪を企み、父を殺したのだ。前年に亡くなった母である皇后の墓所で胸を刃で貫かれた父。その日は母の月命日であった。
その後、叔父は自分こそ皇帝に相応しいと皇位を主張したが、賢帝であった前皇帝の配下達により鎮圧され、処刑された。前皇帝殺害の7日目の事である。
皇帝を殺害されるという悲劇的な事件ではあったが、新皇帝即位の儀は盛大に執り行われた。暗かった雰囲気を吹き飛ばす様な豪華さに国民皆歓喜した。それには新皇帝であるサフィールの見目の事もあるのかも知れない。
サフィールは目が覚める様な美形だ。切長の瞳にそれを彩る長い睫毛。形の良い高い鼻は彫像の様だった。瞬きをするだけで老若男女を魅了し、声を発すれば貴婦人、令嬢の黄色い悲鳴が響き渡る。微笑めば顔を真っ赤にした令嬢達がパタンパタンと倒れもした。魔性とも言える姿は国宝と言っても過言では無いだろう。
またその身体も素晴らしく、騎士団に席を置いていたからだろう。鍛え上げられた肉体は礼服を着ていても分かる程だった。高身長に長い足、動作一つ一つに気品が溢れ、国民の羨望の的であった。
そんな麗人の即位。それは即ち、フィティルオーナの写身の出現、彼の伴侶が決まる事を意味する。即位から1年以内に現れるとされる皇帝の伴侶の存在に国中の未婚女性は浮き足だった。自分かも知れない、そんな淡い期待を胸に抱き、今か今かと自分の変化を待つ。
ティアンナもそうだったかと言えば、答えはNOだ。寧ろそんな気持ちを微塵にも持たず、仕事をしていた。何故なら2ヶ月ほど前に宮廷薬師の副室長に任命されたからだ。即位はめでたい。だが、それよりも中間管理職という立場に早く慣れなくてはならないと日々仕事に精を出していた。
前皇帝が殺害されたのにも係わらず、お祭り騒ぎの様な新皇帝の即位に違和感を感じていたのも無関心でいられた原因の一つかもしれない。だが一番の原因はティアンナの心の問題だった。
サフィールはティアンナの初恋の相手なのだ。
即位式の際に遠くで見えた新皇帝サフィール。ティアンナは彼の元の黒髪が好きだった。だが儀式の際に黒髪が太陽の様に明るい金髪へ変容した際に、ティアンナの中で一つの感情が死んだ。
魔法の様に毛先から変わる髪、閉じていた瞼が開かれると真っ赤な瞳が国民を見ていた。元は綺麗な青い青い瞳だった。どこまでも澄んだ空の様な、海の様なこの国の象徴の様な瞳だった。それが真っ赤に変わったのだ。全てを見透かすと言われる瞳に。
新たな皇帝、クインツィアートの写身かの出現に国民は沸いた。広場に歓声が響く。まるで地震かの様な地響きを起こす程の歓声の中、ティアンナは一人光を無くした瞳で彼を見ていた。
終わった、何もかも。ティアンナはそう一つの恋心をそっと心の奥に埋葬したのだ。
学生時代から8年分の想い。ここ数年は話さえもしていない。なのによく持ったものだ。何度捨てても蘇る想いはきっと執念にも似ていた。何も行動を起こしていなかったのに、執着だけは一丁前にあったようだ。だから捨てた、殺した、気持ちを。彼の伴侶が見つかる前に消さないと醜い気持ちが暴れ出すから。
ティアンナは即位式を最後まで見る事なく、その場を去った。輝かしい新たな皇帝陛下。敬うべき主。殺した恋心を完全に屠るには姿を見ない事が一番だったから。
そう、もうこれで終わった。終わった筈だった、なのに人生とは何と儘ならぬものだろう。
「え、えええ!え!」
即位から一ヶ月程経ったある日の風呂上がり。ティアンナは脱衣所の鏡にしがみついた。
「なななななんで!」
動揺と驚きから鏡の縁を力強く持つ。壁に掛けられているだけの鏡はグラングランと揺れたが、ティアンナの握力により直ぐに固定される。普段は下がり気味の眉が見たこともない程吊り上がり、大きな垂れ目は丸く見開かれていた。
どもりながらも何度も鏡を覗き、時には視線を逸らした後、また勢いよく鏡を見る。だが鏡の中の自分に変化は無く、驚きの声は次第に涙声へと変わった。
「どぉしてぇ……」
鏡を見たまま、ティアンナは後ずさる。まあるい瞳からはどの感情からとも言えぬ涙が溢れた。すんすんと手に持っていたバスタオルで顔を覆う。湿り気が既にあるバスタオルだったが、涙を拭くには十分だった。
「うそでしょぉ……」
バスタオルから顔を上げ、再び鏡の中を見る。見覚えのない自分の姿に吐き気を催す程の激しい感情が湧き上がる。
「本当に銀髪だぁ……それに目も紫……」
ティアンナは顔にかかる髪を一房掴み、目の前に持ってくる。くるんくるんと角度を変えて見ても色は変わらず銀色だ。光に当てても前の髪色には戻らない。湿り気のある髪から雫が垂れた。その冷たさに自分が思うより長い時間、そうしていた事が分かる。そしてこれは現実なのだと漸く理解した。
「どうしよう……」
顔をバスタオルに押し付け、ティアンナは三角座りをした。まだ寝巻きを着込んでいない下着姿の為、若干湯冷めをしている。だが混乱しているティアンナには寒さなど気にしている余裕が無かった。濡れて冷たいバスタオルを握りしめ、何度も何度も『どうしよう』と繰り返す。
いつまでそうしていたのか、ティアンナは一度盛大なクシャミをした後、そろりと立ち上がると漸く寝巻きに袖を通した。既に冷え切った身体ではあったが、寝巻きを着込み、ベッドに潜り込めば段々と体温が戻っていく。
ベッドの中でティアンナはこれからの事を考えていた。
月祝印が現れた自分を見た途端、思ったのは何故?という思いだった。やっとの思いで断ち切った感情だったのにどうして今なのだろうと。いや、何故自分なのだろうと思った。気持ちを既に仕事へシフトしていたティアンナにとってこれは複雑なものだった。
宮廷薬師になって6年。副室長になって3ヶ月。やっと慣れてきた新しい業務にやり甲斐を感じ始めたのにこれだ。全くもってどうしたら良いのかわからない。
名乗り出なければならないのは知っている。何たって皇后。居なくてはならない存在だ。だが、ティアンナはそれを躊躇している。
「やっと無くなったと思ったのに……」
布団の中でそう呟く。整理できないもやもやを吐き出す様に言葉にした。毛布の中で丸まったまま、髪の毛を見る。隠しようもない銀髪、こんな髪と目で職場に行けば一発でフィティルオーナの写身だと連行されるに違いない。
「仕事どうしよう……」
ティアンナは鬱々とした気持ちのまま、瞼を閉じる。こんな混乱した感情では眠れないかと思ったが、体は疲れていたのだろう。すー…っと意識が沈んでいく。ティアンナはその心地良さに身を任せ、すやすやと眠りに落ちていった。