18.爪の中の地獄
アンジェロ・フォン・オルトラーニは何故自分がこんな事になっているのか分からなかった。
監獄など自分とは縁遠いものだと認識していたし、入る事などない人生だろうと思っていた。だがどうやらそれはただの理想で、現実はそれを嘲笑う様にそれを否定した。
冷たい石造りの監獄。雨が降れば床や壁が湿気を帯び、手足が触れると凍えそうになる。不快な湿度で維持された不衛生な牢は入った時から虫や鼠が動き回っていた。昼夜問わず、周りの囚人達の汚い声や啜り泣く声が響き、アンジェロは三日で発狂しそうになった。実際に発狂はしていないが、それをしなかった自分を褒めて欲しいくらい酷い環境だったのは理解して貰いたい。
アンジェロがこの孤島の監獄に収容された罪状は皇帝弑逆による反逆罪である。だが実際にはアンジェロは何もしていない。アンジェロの父、前皇帝の弟の単独的な犯行である。それであるのにアンジェロはこの国で最も厳しい監獄へと送り込まれた。皇帝弑逆は大罪だ、それはアンジェロも理解している。だが、連座、これは理解出来ない。
国もあれが父の単独だと判決した。なのにも関わらず何も知らない自分達を何故罪に連ねるのか。罪は父にだけにある。自分達は品行方正に生活してきた。寧ろ父が生きていた時も彼の被害者であった。なのにも関わらず、何故……
アンジェロは暗い、蝋燭一つの灯りの中、湿り気のある平たい布団の上に居た。濡れた足を拭きたくとも布は無い。かつて身綺麗にしていた爪は伸び、爪の間には黒いゴミだか垢が詰まっている。それを取ろうと反対の手で爪の間に爪を入れるがどちらも汚く、吐き気がした。爪の中に地獄が詰まっている。今までの人生を否定する様な真っ黒な地獄が。
そう思ったら爪を剥ぎ取りたくなった。だがそれを行える程の度胸もない。アンジェロは真っ黒な爪を見つめ、過去の自分に思いを馳せた。
(こんな筈じゃなかった)
父を止めれば良かったのか?何も知らなかった自分が?皇帝の事をよく思っていないのは知っていた。だが自分が皇帝に成り代わろうだなんて思っているとは思わなかった。
既婚者は皇帝の資格を失する。それを知らなかった訳ではないだろう。
アンジェロは父が自分達家族に良い感情を抱いていない事はわかっていた。大公の位を賜り、母を娶った後も、自分が生まれた後も自分達を居ないものの様に扱っていた。別にそれが辛かった訳ではない。生まれた時からそれが普通だったからだ。あちらがいないものとするならばこちらもそう接するしかない。それだけだ。
だから連座と言われた時、尚更何故と思った。あれを父だと思った事もないのに、何故アレの罪で自分達まで堕ちなければならないのかと。だが自分の声は誰にも届かず、この監獄へ入れられた。
(何故……)
何故。自分の罪は何なのだろう。監獄は罪を償う施設だ。だが自分は?連座の自分は何を悔い改れば良い?父を止められなかった事?父と向き合わなかった事?父を父と思わなかった事?
アンジェロは分からなかった。何も。
自分の罪が何なのか分からなかった。
そうして鬱々と湿った部屋の中、日々を暮らしていたアンジェロはある夜ふと目が覚めた。何とも言えない違和感を覚え、布団から身を起こして全身の神経を集中させる。ぞわぞわと虫が肌を這うような気持ちの悪い感覚に瞬きもせず、布団の上にいるとある事に気が付いた。
音がしないのである。
いつもは聞こえる囚人達の耳障りな声が一切しない。それどころか風の音も、波の音も、虫の声さえも聞こえなかった。
(なんだ……?)
完全なる無音。得も言われぬ恐怖が身を襲い、呼吸が浅くなる。だがその音さえも聞こえない。もしやこれは自身の夢なのでは?そう思ったが、底から冷える布団がこれが現実なのだと突きつけた。
どのくらいそうしていただろうか。息苦しささえも感じる恐怖の中、息を潜めていると突然音が鳴った。
―――コツン、コツン、コツン
それは靴音だった。靴底の固い、恐らく革靴の音。
アンジェロは一体何が歩いているのか恐怖で体が震え始めた。
(何故、何故こんな事に!)
頭をよぎるのは父の事、皇帝の事、従兄弟の事。そして妻と子供の事。
父があんな事を起こさなければ愛しい妻と息子と暮らす事が出来た。こんなところにも入る事がなかっただろう。それにこんな腹の底から恐怖を覚えるような事も。
「う、ううぅぁ」
アンジェロは呻き声をあげた。それが恐怖からだったのか、諦めからだったのかはわからない。心の奥から漏れる澱みが知らず知らずに口から零れた。
「ああ、いたいた」
響いた声は朗らかでこの監獄に入ってからは聞いた事がない声色だった。平たい布団に顔を押しつけて呻いていたアンジェロはその声がすぐ近くから聞こえた事で頭を上げた。見えたのは自分の牢の前に居る、ローブを着た男だった。艶のある薄桃の髪を三つ編みにし、中身の無さそうな顔でアンジェロに手を振っていた。
「キミィ〜、さがしたよー」
見た事の無い男だった。だが、この男の目当ては自分であるらしい。アンジェロは恐怖から狭まっていた視界を開かせ、一つ瞬いた。
お前は、と聞きたかったが声が出ない。その変わり何故か涙が溢れた。
「さあ、出よう。君は無罪だもんね」
男が笑った瞬間、アンジェロの牢の鉄格子が砂粒の様に消え失せた。何の音もなく、サラサラと空気の滞留する監獄で宙に浮く。あまりの出来事にアンジェロは腰を抜かしてしまった。
「ああ!この国は神がまだ守護しているからね、魔法はあまり使われないんだっけ?でもそんな驚く事ないんじゃない?」
そう言って男は指をパチンと弾くとアンジェロの体を浮かした。突然、自分の体が浮いた事に驚いたアンジェロはハクハクと口を動かし、視線を男へ向ける。男は女の様な繊細な顔立ちをしており、こんな汚い監獄に居るのにも関わらず、彼の周りの空気は澄んでいるようだった。
一体何が起きているのか。
絶望の淵にいたアンジェロはこの男の考えが全く分からなかった。だが、ひとつだけ分かった。どうやら彼は自分をこの監獄から出してくれるらしい。それに素直に喜んで良いのかは分からないが、この悪環境から抜け出せるのであれば何でも良いと思ってしまった。
「よし、行こう!ボクに着いてきて!って言ってもボクが浮かせてるからボクについて来ざる得ないんだけどね」
男は牢からアンジェロを出すと鉄格子を粒子から元に戻した。まるで何事も無かった様に元の姿な戻った牢屋。ただ違うのはその中に罪人がいないだけ。
「よし!よーし!」
指をくるりと一回転させ、男は汚い監獄の中を優雅に闊歩する。いつも騒がしい囚人達はどうやら深い眠りに落ちていたらしい。通り過ぎる牢の住人は皆、瞼をピクリとも動かさず床に倒れていた。
(死んでる訳じゃないよな)
アンジェロがそう思った時、それを察した様に男が笑った。
「死んで無いよー!よぉく寝て貰ってるだけ☆」
その言葉にホッとしたのも束の間、男はケラケラと笑いながら言葉を続けた。
「でもね、これから一人は殺すよ。だって脱獄だよ?看守の一人でも殺さないと箔がつかないじゃない?」
笑い続ける男にアンジェロはゾッとした。そうだ、この男は孤島の監獄に侵入した。周りに海しかない監獄にだ。普通の人間では無いに決まっている。親切心から自分を脱獄させた訳ではないだろう。
もしかして、自分は更に不幸を重ねるのだろうか。
青褪めた顔で男を見下ろせば、男は楽しそうに口元に弧を描いた。
「さて、あの看守を殺そう。ナイフがいいね。キミがやったって真実味が出るだろう?」
男は椅子で眠らされている看守の胸に躊躇いもなくナイフを突き立てるとそのナイフについた血をハンカチで拭った。胸を刺された看守は刺された一瞬意識が覚醒したのか大きく瞳を見開いたが、直ぐに力なく椅子からズルリと落ちていった。赤黒い血液がドクドクと胸に広がり、布の吸収率を超えた血液が床に溜まる。血液が逆流したのか口からも血が溢れ始めた。
初めて見た死体に血の気が引いていく。別に人を殺してまで脱獄したくは無かった。それにこれは必要無い死であったのではないか?見逃す事が出来た命な筈だ。
呆然と目の前の出来事を処理できない頭で見ていると目の前に血が付いたハンカチがプカプカと浮いてきた。
「ボクじゃないよ?キミが殺したんだ。キミが殺した人の血だよ」
ナイフをローブの中に戻しながら男はそう言うと監獄の重厚な扉をいとも簡単に開く。久しぶりに外の空気に触れたが感動など全くしない。頬を撫でる潮風を感じたが潮の香りを感じる事が出来ない。匂うのは鉄臭い血の臭いだった。
「どう?久しぶりの外は?気持ちいいよねえ。あそこ汚かったもん」
先程人を殺したというのに全く罪悪感を感じさせない男は楽しそうにアンジェロを見上げた。怯えた顔のアンジェロを見て、にんまりと笑うと男は漸く自分の名を名乗ったのだ。
「ボクの名前はリンウッド・フォローズ。大陸の魔術師さ」
男、リンウッドが指笛を吹くと何処からか鳥の声が聞こえてきた。白みかけた空に大きな影が掛かり、見上げると大鷲が降下してくる。
「この子はボクの友達。さぁ、本土へ戻ろう。キミにはやってほしい事があるんだ」
リンウッドは大鷲をひと撫でするとその背に飛び乗った。強制的に連れてかれるアンジェロに拒否権など無い。冷たい空中でアンジェロはこれから起こる更なる不幸にただ怯えるばかりだった。




