16.突然の来訪
サフィールの診察をした直ぐ後、ユナの処分が決まった。
元々、ユナの態度が問題視されていた事もあり懲戒免職の話も出たらしいが、ユナの父親であるゴルダン伯爵の嘆願により6ヶ月の減給と2週間の自宅謹慎が言い渡された。しかも減給は3割である。中々の減給に医務室は一時騒ついた。だがユナは腐っても伯爵令嬢。給料で仕事をしている訳でもないので、きっと痛くも痒くもないに違いない。しかしこれでユナは出世の道もこの皇城での配偶者探しの道も閉ざされただろう。何故ならこの処分は公示される。そして文書となり各部署へ配布されるのだ。問題のある人物というレッテルが貼られてはこの皇城で働く有能な者からの求婚は無いだろう。これはきっとユナにとって減給よりも厳しい処分に違いない。ユナはこの職場に結婚相手を探しに来ていたと言っても過言ではないのだから。
「もしかして室長はそれが解ってて」
ティアンナはハッとして口を抑えた。思わず声に出してしまったが、これは心に秘めていた方が良さそうだ。ティアンナはうんうんと頷き、止めていた仕事の手を再開させた。
それにしてもユナ一人いないだけで随分快適な職場となった。嫌がらせで書類を捨てられる事も無ければ、物品を壊される事もない。人の婚約者に色目を使ったと令嬢が訴えてくる事も今週、来週はきっとないだろう。
ティアンナは穏やかな気持ちで書類にペンを走らせる。こんなに気持ちのいい仕事は久しぶりだ。
デスクのコップの中身を啜り、ハアと幸せの声を出す。ずっと続いてほしい平穏な生活にティアンナは目元を緩ませた。
「副室長ー!」
だがそれも束の間、突然激しく扉が開けられる。大きな音が苦手なティアンナがその音に肩を大きく揺らせば激しく扉を開けた子が、あ!と目を見開いた後申し訳なさそうに眉を下げた。
「あ、すみません。大変な事が起きたもので」
こめかみを掻きながらそう言い、様子を伺う様にティアンナを見る。驚きはしたが、別に怒ってはいないので安心させる様にへにゃりと微笑めば部下が明らかにホッとした顔をした。平時よりそんな怒る事は無いのだからそんな顔しなくても良いのでは?と少し思ったが、それよりも『大変な事』の方が気になったティアンナは持っていたコップをコトリと置いた。
「気にしないで。大変な事が起きたの?」
このユナ不在の医務室で大変な事とは何が起きたのだろう。全く想像が出来ない。
ティアンナはあれか?これか?と想像しながら問えば、元気な顔に戻った部下がにっこりと笑った。
「陛下が来ました!」
へいかがきました。
へいかがきました。
へいかがきました?
「ん?陛下がきたの?」
頭の中に部下の声がこだまし、ティアンナは理解できぬまま、疑問を口にする。
「そうです!今この部屋の外で待って貰ってます!」
部下は元気にそう言うと、自分が入ってきた扉を指差した。木製の扉の為、外に誰が居るなんて全くわからない作り。だが彼が言うにこの扉の向こうに陛下がいるらしい。
「え、この部屋の外で待って頂いてるの?」
「はい!」
そうだ、この元気な子は今年入った新人だ。陛下を立ったまま待たせてはいけないなんて事教えてはいない。いや、教える事なのか?褒めて欲しそうにまん丸なキラキラな目でティアンナを見ているが、そんな彼の顔とは対照的にティアンナは顔を青褪めた。
「そ、そうなの。じゃ、じゃあ室長室に案内して?ここでは汚すぎるから」
「室長室も汚いのでは?」
「あそこには応接セットがあるの。案内してくれる?」
「わかりました!」
若干しどろもどろになりながら指示をすると新人の子はバタン!と元気に部屋を出ていった。扉の外で声がする。自分の息さえも殺し、耳をすませば確かにサフィールの声が聞こえた。だがはっきり聞き取れるのは新人の子の声だけ。サフィールが何と答えているのかは不明瞭で分からなかった。
一体他の同僚は何をしているのだろう。もしかして自分と同じくただ青褪めている訳ではあるまいな。急いで席から立ち、机を大雑把に片付けるとティアンナは動悸が治らないまま部屋を出た。出ると一斉に同僚達の視線を感じ、その視線のほぼ全てに謝罪が含まれている事に気付き苦笑いをした。今は診察中の人もいる為、何か言うなら後にしよう。眉を下げ、口を開ける。音を発さず『あとでね』と伝えるとティアンナはパタパタと室長室へ急いだ。
ティアンナが室長室の前へ着くのと同時にその扉が目の前で開かれる。出てきたのは先程の新人の子だ。
わっ、と小さく驚きの声をあげるとその子は大きな声で『すみません!』と言い、開いている扉を押さえる様に体を扉に押し付けた。
開ける前に気持ちを整えたかったのだが、半強制的に入室を勧められる。此処で『いや、ちょっと……』など言える筈もない。ティアンナは満面の笑みの新人の子を見て何の文句も言えなくなり、気持ちトボトボとした足取りで部屋へ入った。途端、背後でバタンと扉が閉まる。
「…………」
二人っきりにされた空間で緊張感だけが勝手に高まる。ティアンナはソファーに座る眉目秀麗な神の化身に生唾を飲み込んだ。
サフィールは入り口にいるティアンナを不思議そうな面持ちで見つめている。いつまでも入り口から動かない事が疑問なのだろう。
「ティアンナ嬢?」
どうしたんだ?と言いたげな声を掛けられ、ティアンナはハッとし挨拶をした。
「皇帝陛下にご挨拶申し」
「いい、いい。形式ばったものは」
少し面倒臭そうに手を振られ、ティアンナは固まる。
「それより座らないか。少し話がしたい」
そう笑顔で促され、ティアンナはソファーにストンと座った。真正面に整った顔を見て、また心臓が高鳴る。そして言われるがまま座ってしまった事に気付き、勢いよくその場に立った。
突然何を、とサフィールは目を丸くしたが、何かを言われる前にティアンナが慌てながら先に口を開いた。
「おおおお茶用意しますね!」
「あ、ああ。お願いする」
ティアンナの勢いに珍しくサフィールも吃った。やらかしたとティアンナは感じたが挽回を出来るだけの頭も話術も無い。真っ赤な顔のままお茶の為のお湯を沸かす為、コンロにやかんをセットした。沸かしている間に茶っ葉を用意し、戸棚からティーセットを取り出す。焦りからか手が震え、ポットの蓋がカタカタと鳴った。心を落ち着かせようとバレない様に深呼吸を何度かするが一向に気持ちは落ち着かない。
(どうしたんだろう。一体何しに……)
もしかして薬が合わなくなったとか?
何を言われるか分からない恐怖に心臓は一層激しく打ち始める。ドンドンと体に響く音に視界が狭窄していく感じさえもした。
一見すると普通にお茶を用意している様にしか見えないティアンナをサフィールはただじっと見つめていた。
学生時代と変わらぬ栗色の髪が一つに結われ、動く度にふわりと揺れる。まるで意思があるような可愛らしい動きに自然と口角が上がっていった。微笑ましい、そんな言葉がしっくりくる。
「やりながら聞いてくれないか」
沸騰し始めたお湯のフツフツとした音を聞きながらサフィールはそう言った。
その声があまりに優しく、ティアンナは用意する手を止める。不意に思い出した、学生時代の青い思い出がバッと脳裏に鮮やかに蘇った。
―――あの時は何て言ってたっけ?
図書室から見える銀杏の木の下で寝ていたティアンナを起こしたサフィール。寝ぼけ眼で見たサフィールの端麗な顔に一気に眠気が飛んだのを覚えている。
風が吹き、結いていない髪が風に煽られ視界の邪魔をして、それで……
(ああ、そうだ)
『触れてもいいか』
そう彼は言ったのだ。美しい黒髪を靡かせて、青い綺麗なガラス玉の瞳で真っ直ぐに自分を見て……
手に持っていたティースプーンが力無く床に落ち、軽い音を響かせる。その音にティアンナは現実に戻され、サフィールを見た。
「はい、陛下が宜しいのであれば」
過去から抜けきれない顔で答えるとサフィールが柔らかく目元を緩める。胸がこれでもかと高鳴った。動揺を見せない様にサフィールに背を向け、落ちたスプーンを拾う。拾う手が震えていたのは気付かれなかっただろうか。拾ったスプーンを脇に寄せ、ティアンナはブクブクと湧いたお湯の火を止めた。
「ティアンナ嬢」
「はい、陛下」
不敬だが背中を向けたまま返事をする。コポコポとポットにお湯を注ぐと茶っ葉の匂いが漂ってきた。今日はオレンジとベルガモットの紅茶だ。柑橘系の爽やかな香りが鼻腔を擽る。その香りに段々と緊張も解れてきてティアンナは空気を鼻から大きく吸い込んだ。
「私の妃はどんな人物だと思う?」
その質問は予想外だった。
ティアンナは凪いできた心を再び荒げさせると、持っていたやかんを落とさない様にコンロの上に戻した。
「きさき、さま……ですか」
「そうだ」
冷や汗が噴き出るのを感じ、それが背中をツー…とつたう。きっと額にも汗をかいているに違いない。
ティアンナは少し前まで、なんて平穏な時間なのだろうと幸せ気分で仕事をしていた。書類を処理する手が止まらない程だった。頭もいつもより回転し、書類の処理をしながら別の仕事の事を考えたりもしていた。
それなのに、この突然のサフィール。
自分の中の女神が何かをしたのでは?と疑いたくなる出来事だ。何となく舌を出しウィンクをしている女神の顔が浮かび、憎らしく思う。
サフィールの問いの意図は何だろうか。ティアンナは気持ちを落ち着かせ、蒸していたポットの中身をカップに注ぎ込んだ。途端立ち上る柑橘の香りに一瞬うっとりする。香りがサフィールの方まで香ったのか、彼の息を飲む声が聞こえ、ティアンナはちらりと振り返った。
「これは、オレンジか?」
「そうです、オレンジとベルガモットの紅茶です」
「……そうか、覚えててくれたんだな」
ふわりと笑んだサフィールの顔には喜びが浮かんでいた。ティアンナ的にはサフィールが自分に話した事を覚えていた事に少し感動したのだが、きっと彼は頭が良い。些細な事も覚えてくれているのだろう。
学生時代、サフィールが柑橘系のフレーバーティーが好きだと話してくれた事があったのだ。好きなのだが、恥ずかしくてあまり言えていないという事も。
小さな思い出だが、大切に仕舞っていた思い出。役に立って良かったとティアンナは微笑んだ。
お茶をテーブルに出し、サフィールの正面に腰掛ける。
意外に甘いもの好きな彼の為に砂糖の瓶もポットの横に置いた。
「砂糖入れますか?」
「ああ、お願いしたい」
「では」
角砂糖をぽとりと一つ沈める。それを満足気に見ているサフィールを愛おしく感じた。
サフィールがカップに口をつけ、一口飲むのを眺めていると、当然のように目が合った。サフィールはソーサーにカップを戻すと先程と同じ質問をする。
「で、どんな妃だと思う?」
忘れ掛けていた質問に狼狽える事しか出来ない。眉を下げ、うううと唸り、ティアンナは自身の前にあるカップを覗き込んだ。
(わたしです、と言った方が良いのかな)
どんな妃だと思う?どんな妃も何も自分がそうなのだ。自分の事を何と言ったら良いのだろう。変に貶すのもおかしいし、良い風に言うのも後々穴に入りたくなるだろう。全く正解の解らぬ問いにぎゅっと目を閉じた。
(言うしかない?私だと。今言えばいいのかな?)
バクバクと心臓が耳元で聞こえる。いつもはこんなに聞こえないのに、何故こんな大爆音で聞こえるのか。もしかしたらサフィールにも聞こえているのでは?とそんな不安も襲ってくる。
閉じていた瞼をそろりと開け、サフィールを見る。彼はじっとティアンナを見続けていた。
「あ、えと」
「うん」
「そうですね、きっと」
必死に言葉を捻り出そうとするが言葉が出てこない。冷や汗がダラダラと垂れてくる。顔の汗を手の甲で拭えば結構な量の汗がついた。
「えっと」
「ああ」
「あの、そうですね。……そう、きっと!前皇后様の様な人じゃないでしょうか?」
絞り出した答えは無難と言えば無難。だが自分に置き換えて考えると身悶える回答だった。苦し紛れに人差し指をピンと立てて言いはしたが、とても恥ずかしい。
いずれ訪れる穴に入りたくなる事態にティアンナは気が遠くなっていくのを感じた。




