13.ただあなたを愛したいだけなのに
それをサフィールが聞いたのは2週間前だった。
薬を貰いに行ったエミリオが不機嫌さを隠しもせず、執務室へ戻ってきたと思ったら『次からは医務室へは行きません。こちらに来てもらいます』と言い出した。一体何を、とサフィールは呆けたがそんな主人の様子など気にもせずエミリオは怒りを声に孕ませながら事情を説明し出す。
「あまり皇城には似つかわしく無い薬師が居るのです。盗み聞きをするような」
エミリオが怒るのは至極真っ当な理由だった。この国家機密を扱う場所でスパイ行為を疑われる様な行動はすべきでは無い。しかも聞き耳を立てられていたのは医務室である。通常よりも機密を守らなければならない場所での愚かな行為にサフィールは眉を顰めた。
「それは、駄目だろうな。その者の処分は?」
「副室長であるティアンナ・ブロアーテが上司に報告し、然るべき処分を求めると言っておりました。おそらくそれ相応の処分がなされるでしょう」
ティアンナの名前にサフィールはピクリと反応したが、直ぐに何事も無さそうにそうか、と頷いた。
そうして訪れた約束の日、エミリオの声と扉へのノックに短く返事をするとゆっくりと扉が開き始めた。鼓動がドンドンと速くなり、視界がチカチカと輝き出す。エミリオが先を促す様に開けた扉の奥に彼女は居た。
学生時代と変わらぬ柔らかそうな栗色の髪を学生時代にはしなかった一つ結びにし、白く細い首と下がり気味の眉が一瞬にして想いを蘇らせる。
あの夏、学生時代最後の夏。ゆっくりと触れた頬と首筋、止められない劣情を殴りつけ、必死に耐えたあの日。真っ赤に染まった彼女の顔を見て、これが愛でなければ何が愛だと言うのだと、発狂してしそうになった。
この年になっても棄てる事が出来ない初恋は今もなお鮮やかに魅せる。
入口で固まるティアンナに駆け寄りたい気持ちを隠して、サフィールは執務室の豪奢な机から腰を上げると皇帝の仮面を付け朗らかに微笑んだ。
「久しぶりだな、ティアンナ嬢」
一瞬ティアンナの顔の刻が止まる。緑色の瞳が大きく見開かれ、眉が下がった。
「お久しぶりです、陛下」
だがそれも一瞬で、変わらぬ困り顔で少し首を傾げたティアンナはぎこちなく微笑んだ。戸惑いが見えるのに何故こんなにも心が騒めくのか。サフィールは激しい感情を必死に抑え、ティアンナを笑顔のまま見つめる。
エミリオに『さあ』と誘われ、部屋へ入ったティアンナ。サフィールは執務室の横にある応接室の扉を開けるとその中の一つのソファーに腰を下ろした。
「座ってくれ」
自身の反対側にティアンナを座らせるとエミリオがサフィールの背後に立つ。そこが彼の定位置だった。
大きな緑色の瞳を瞬かせ、ティアンナは勧められるがままそこへ座るとスーッと息を吸った。それが彼女の仕事の合図だったのだろう。強い、隙のない表情になったティアンナは持ってきた荷物から薬を出すとそれをローテーブルの上にコトリと置いた。薬の瓶が三つ並べられ、次に診察を記す紙が広げられる。既に置かれていたペンにインクを付け、斜めに倒れる丸文字で日付を記した。
「始めましょうか」
見た事の無い、ティアンナの仕事の表情に思わず見惚れた。すると背後から咳払いが聞こえ、振り向けばジト目をしたエミリオが顎で何かを促している。
返事をしろと言う事か、と何テンポも遅れ『ああ』と答えるとティアンナが作り物の笑顔で微笑んだ。普通の人と同じ笑い方、場を持たす為だけの笑み。張りぼての笑みにサフィールの胸に苦しさが襲った。
「最近の調子はいかがですか?体が重いですとか、何だか気持ちが悪いですとか、何でも良いです。不調があれば仰って下さい」
「体調はすこぶる良い。他に感じる不調も無いな。やはり眠りは重要だ」
「体の疲れを取るのもそうですけど、寝てる間に頭の中もすっきり整理してくれるので、寝るのはとても大事な事なんですよ」
「はは、そうか」
はっきりとした声に時の流れを感じた。ティアンナは学生の頃、こんなに流暢に話す方では無かった。どちらかと言うと言葉の初めに『あ、』や『え、』等一音が入る事が多かった。だが薬師として働き始めて7年。しっかりと勤め人の話し方となっている。それ変わり様が楽しかった。知らない彼女の姿を知れて心が躍り出したのだ。
思わず漏れた笑い声にティアンナが書き留めていた紙から視線を上げた。
「陛下?」
不思議そうに目を瞬かせたティアンナがじっとサフィールを見てくる。その愛くるしさに自然と目元が緩む。
「いや、学生時代が懐かしくなってな」
目を細め、懐かしむ様に言えば、ティアンナは目を丸くした。
「よく図書室で一緒になったろ。席も基本向かい側だった」
過去を手繰り寄せる様にサフィールは口にする。今のティアンナの背後に学生時代のティアンナが浮かぶ。それが幻想だとは気付いているが、その幻影に手を伸ばしたくなった。
追憶に耽るサフィールの様子にティアンナも次第に目を細め、ゆっくりと肯定の言葉を発した。
「そうですね」
軽く首を傾げ、ティアンナは顔を赤くしてはにかんだ。その頭の動きでゆらりと結い上げられなかった髪が落ち、ティアンナの視界の邪魔をする。髪が顔に落ちる、それだけの事なのにとても神聖に感じて見惚れてしまった。赤い頬を薄く隠す様に垂れる髪、その髪に触れたいと思ったその時、ティアンナが膝に置いていた手をその髪に伸ばした。
はにかんだまま、何の気無しにティアンナが髪を耳にかける。視界の中で何かがキラリと光った。
指輪だ。シルバーの華奢なリングにアメジストの飾り。
ドクン、と胸が嫌な鼓動を打つ。そして胸を締め付けられる様な苦しさが身を守る襲った。痛みを伴ってるのか呼吸さえも難しい。
言葉を無くし、真顔のまま固まったサフィールだったが意識とは別に言葉が溢れた。
「指輪してるんだな」
それは確認の様な言葉。だが、その答えを聞きたくは無かった。
「あ、はい。あ、いや……はい」
耳元にあった手を見て、慌てて膝の上に隠したティアンナは曖昧に笑った。それだけで心が抉られる気持ちとなる。
サフィールも分かっていた。いつまでもティアンナが一人では無い事を。ティアンナは自分の一つ下。24歳である。結婚適齢期を少しはみ出てはいるが、結婚をしていないだけで指輪を贈ってくれる相手はいるのだ。
「そうか」
溢れた声は空元気と解る明るさだった。気まずそうに笑うティアンナの隣に知らない筈の男の影を見た気がした。




