12.女神の祝福を
ティアンナは真っ白な空間に居た。いつか見た夢と同じ場所。ふわふわな足元はおぼつかず、一歩歩くごとに体が沈み、傾く感じがする。浮遊感にも似た感覚が体の中をヒュンとさせ、ぞわぞわと鳥肌が立った。
「うわぁぁ」
その気持ちの悪さに足を止め、足元を見る。ふくらはぎの半分ほどが綿飴の様なふわふわで覆われており、足の下にはなんの感触も無い。自分が何の上に立っているのか、はたまた足の裏には何も接地していないのか、自分が置かれている状況に恐怖し、ティアンナはもう一歩も動く事が出来なくなった。
夢、だとは理解している。だがそうは思っていても夢だからと割り切る事も出来ない。ただ立っているだけでも体が沈んだらどうしよう、そんな恐ろしい気持ちが心を占拠する。がたがたと震えながら必死に立っていると、ティアンナの恐怖とは正反対な明るい、鈴が転がる様な声が頭上から聞こえてきた。
「ヤッホーゥ!」
陽気な声に弾かれた様に見上げると綺麗な銀髪のナイスバディな女神がふわふわと浮いていた。ティアンナのちょうど頭上で浮いている女神フィティルオーナはくるりと一回転し、ティアンナの目の前に降り立つ。足元を見れば僅かに浮いていた。
「フィティルオーナさまぁ」
恐怖と驚きで涙声となったティアンナは目の前の美女に縋る声を出す。この夢の主導権を持っているのは女神に違いない。半分埋まるふくらはぎを視線で訴えたがフィティルオーナは陽気な声を出し、ぴょんとその場で跳ねた。
「そうよそうよぉ!私よぉ!」
パチン!とウィンクをし、星を飛ばす。異次元の顔面力に思考が奪われたが、持ち直したティアンナは情けない顔で足元を指差した。
「フィティルオーナさま!足が沈んでしまいました!」
「大丈夫よぉ。落ちないから」
「でも下になにも感じないんです!」
「だって何も無いもの。感じる訳ないわぁ」
「ひぇぇぇ」
何が大丈夫なのかさっぱり分からない。既に子鹿の様に震えていたが、更にその震えが酷くなる。ティアンナは何もない空間で何かに縋ろうと手を前に出した。何も無い、何も無い空間だ。ティアンナの手は何も掴む事は無かった。ならばと縋る目をフィティルオーナに向ける。フィティルオーナはにっこりと微笑んで指を鳴らした。するとふわりとティアンナの体が浮き上がる。
「うわわわわ!」
フィティルオーナと同じ様に宙に浮く体。自分の爪先が見え、少し安堵したティアンナだったが、ふわふわと浮上し続ける体の制御が出来ずまた慌てふためいた。何処に力を入れれば安定するのか全く分からない。腹に力を入れれば、体は一回転する。手を泳ぐ様に動かせば前に進んだ。そうこうしていると地上というのか、ふわふわの地面にいる女神が小さく見えてきた。
「え、え、ええ!」
どう浮上を止めたら良いのか。空中でもがくが全く下りる事が出来ない。
だが下へ行きたい、涙目になりながらそう念じると不思議な事にすとんと体が降下した。優しく体が地面に着地する。ふわりとした感触が足の裏に伝わった。
その様子を見ていたフィティルオーナは楽しそうに笑っており、白く綺麗な手を口元に当てた。
「あなたって面白いわぁ」
げっそりと疲れたティアンナはそんなフィティルオーナを青白い顔で眺める。どんなに状況になっても彼女にとっては演劇の演目なのかも知れない。今の役者はティアンナ。彼女の慌てる様を一等席で見ている。そんな感じがした。
ひとしきり楽しんだのか、フィティルオーナは急に真顔になり、じとっとティアンナを睨んだ。
「まあいいわ。それよりもあなた」
座った目で突然見られ、ティアンナは困惑する。一体どうしたのか、ティアンナは女神の言葉に固まってしまった。
「ねぇえ、いつまで指輪しているつもりかしらぁ?」
続いた言葉はいつまでも公表しない自身への不満。フィティルオーナは気持ちが固まるまでと軽い気持ちで渡したが、蓋を開ければ4ヶ月目に突入。彼女からしてみればひと月程度で名乗り出るだろうと思っていた為、この長期戦は予想外だった。
クインツィアートはもう焦れているに違いない。近くに気配を感じるのに現れない事にやきもきしている事だろう。もしかしたら器に八つ当たりをしてるかもしれない。
それにフィティルオーナ的にも限界が近かった。こんなに近くに居るのに夫に会えないなんて今まで無かったのだから。
「私、そろそろ我が君に会いたいのよねぇ」
責めるようにそう言えば、ティアンナはビクリと肩を震わせた。
多少の罪悪感はありそうだ。フィティルオーナは追い打ちを掛けるように冷たい言葉を掛ける。
「指輪あげたのは間違いだったかしら?」
うっそりと、だが冷たく微笑みながらティアンナを見る。顔色を無くしたティアンナは口をぐっと閉じ、俯いた。
「そう、ですよね……」
声は小さく、この何も無い空間で無ければ聞こえなかったかも知れない。自信の無さを表す声にフィティルオーナは眉を顰めた。
ティアンナは泣きそうな声で言葉を続ける。
「自分でも早く言わなきゃとは思ってるんですけど」
ぽとりと涙が落ちた。柔らかい足元に吸い込まれて消えた雫。落ちたのは一滴。だが心はそれ以上のものを抱えているに違いない。
ティアンナだって言いたい気持ちはある、あるのだ。だってずっと好きだった。でも、
(彼の誰かを好きな気持ちを私にすり替えるなんて出来ない。そんなひどい事……)
わっと泣きたい。国の事なのに自分の事しか考えていない自分が情けない。いつかは言わないといけないのは分かっている。無意味な引き伸ばしだと言うのは。
(でも、でも)
まだ気持ちが整わない。こんな気持ちで隣に立てる訳もない。
ぐすぐすと鼻を啜りながらぐちゃぐちゃ考えているティアンナを残念なものを見る目でフィティルオーナは見ていた。
「難儀な性格よねぇ」
はぁ、と溜息を吐く。そして自身の頬に片手を添えた。
「まあ、珍しい事でもないけど」
本当にしょうがない、そんな諦めの表情でフィティルオーナはそう言うとティアンナの額に口付けを落とした。
唇が触れたところから何か温かいものが広がる。じんわりとそれは体を巡り、心が段々と落ち着いていく。ぐずぐずしていた心が凪いでいった。
ゆっくりと唇が離れ、作り物の様な美の容貌が視界一杯に広がると、事態を把握したティアンナは真っ赤な顔で額を抑えた。
「もう暫くは待ってあげる」
パクパクと動く口を見ながらフィティルオーナは慈愛に満ちた笑みを浮かべた。だがそれは一瞬で、直ぐに悪戯っ子の顔をしたフィティルオーナは前屈みでティアンナの額を人差し指でツンと突く。
「でもぉ、本当もう少しだけよぉ?」
ツンツンと額を突き続けるフィティルオーナにティアンナは頷いた。
「ありがとうございます」
「我慢出来なくなったらぁ問答無用で指輪回収しちゃうから!」
いいわね!と念を押したフィティルオーナはふわりと体を浮かせた。まるで飛ぶように軽やかに浮かぶとヒラヒラと手を振った。
「じゃあねぇ」
その言葉と共にティアンナの世界は暗転する。プツン、回線が切れる様に真っ暗になった視界に思考も落ちていく。そのままティアンナは優しい温かさを感じたまま、深い眠りに落ちて行った。
夜が明ける。うすらうすら闇に色が入り、太陽は地平線の下に隠れ、その光だけが地を照らす。白みつつある空に澄んだ空気、合図の様に小鳥が囀り出した。
カーテンから漏れる僅かな光にゆっくりと瞼を開ける。まだ起床時間には早いが、体はもう睡眠を必要としていない様だ。
ティアンナは体を起こし、その体勢のままカーテンを軽く開ける。20センチ程の隙間から見えた外は神聖な世界に見えた。まだ暑さを引きずる日々が多い、初秋。靄がかかる景色のなんと美しい事か。だが、それは同時に気温が上昇する事を意味する。
ティアンナは昇りつつある太陽を避ける様にカーテンを隙間なく閉めるとベッドから出た。
「今日、か」
そう、今日はサフィールの診察の日。ついに来てしまった日ではあったが、ティアンナの心は静かだった。夢のお陰かも知れない。何故か額から温かさがじんわりと伝わり、何でも出来る気さえした。きっとフィティルオーナが何かをしてくれたのだろう。かの女神はティアンナと一心同体だ。ティアンナが何を思い、不安に思っているか等お見通しに違いない。
ティアンナはゆっくりも朝の準備をし、いつも通りの時間に部屋を出る。着いた職場はいつも通り、何も変わらない風景だった。
コトリコトリといくつかの薬を作り、瓶に詰める。時間があれば書類処理をし、約束の時間までを過ごした。そうしているとあっという間に時間となり、ティアンナは同僚に声を掛け、皇帝の執務室へ向かう。その道でも心は静かだった。
その時が来たらもっと動揺すると思っていた。あれでもない、これでもないと理由をつけて行かない理由を作ろうとしていたかも知れない。でも今、ティアンナはそんな事思わない。これが女神の口付けのお陰だとしたら感謝感謝だ。
往診セットを持って長い廊下を行き、上階へ続く階段を登る。一歩一歩自分を持ち、先を行く。途中顔見知りを見かけ笑顔で会釈をすれば、手を振られた。それに応える様に小さく手を振ると死角から声を掛けられる。
「ティアンナ嬢」
声に肩を揺らし驚けば、小さく笑ったエミリオが居た。
「こんにちは、コストナー小公爵」
「ええ、こんにちは。ティアンナ嬢」
顔見知り位にはなったエミリオにティアンナは礼をした。持っていた仕事道具を落とさぬ様にしっかりと胸に抱え、頭を下げる。
「時間ぴったりですね」
「本当は少し早めに来ようと思ったのですが、早くても迷惑かと思いまして」
そう言うとエミリオは何も言わず微笑んだ。きっとその通りだったのだろう。
「執務室は今陛下ひとりです。他の者は出て行って貰ってます」
「大丈夫ですか?」
皇帝の仕事に終わりはないと聞いた事がある。ティアンナは今日の仕事に支障は無いのか不安になり、そう訊ねた。
エミリオは執務室の扉に手を掛ける。
「休憩でも取って来いと言ったので皆大喜びでしたよ」
だから大丈夫です、と笑ったエミリオはそのまま執務室の扉をノックした。
「陛下、入りますよ」
中から声が聞こえ、エミリオが扉を開く。スローモーションの様に見えた動作。コマ送りで見えた扉の向こう。
「久しぶりだな、ティアンナ嬢」
金色の髪が太陽を背に受け、眩いまでの輝きを放つ。赤眼が真っ直ぐにティアンナを見ていた。逃れられない、この瞳には。
ぐっと込み上げる気持ちが自分のものなのか、神のものなのか分からない。
凪いでいた気持ちが反動の様に暴れ出す。
(好きだなぁ、本当にびっくりするくらい)
自分の名を呼ぶ痺れる声に脳が麻痺をする。数年ぶりの言葉に感情がおかしいくらい揺さぶられた。だがそれ以上に歓喜した。彼が自分を認識した、それだけで泣きそうになる。
金色の髪が、赤眼が、体が、全てが狂おしいくらい愛おしい。
久しぶりのサフィールは前と変わらぬ表情でティアンナを招き入れた。違うのはきっとその髪色と瞳の色だけだろう。溢れ出しそうな気持ちにきつく蓋をして、ティアンナはその境界線を越えた。




