11.脱獄
『人間ですか?』
男が灰色の瞳を楽しげに歪ませながら言った言葉に心臓が激しく鼓動を打つ。もしかしたら何の意味も無い言葉だったのかもしれない。だがティアンナはその言葉に激しく動揺した。何故なら自分自身、人間の枠からはみ出ているのかもしれないと思っていたからだ。
神を宿すと言われる『写身』。確かにその感覚はある。自分の意識とは別のところで何かを思っている誰かがいるのだ。夢での出来事もそう。夢で貰った筈の指輪が現実にはまっていた。不可思議な出来事、感覚に最初こそは戸惑っていたが、今はそれに順応しつつある。
ティアンナはふと、横にあったショーウィンドウを見た。情けない顔をした自分が栗色の髪、緑の目で自分を見つめ返している。右手には焼き鳥を持って。
本来の姿が偽りの姿となった日、あの日から自分の人生が坂道の小石の様に動き出した。今はその石を必死に止めようとしているのだと思う。だがティアンナにも分かっていた。それがとても無駄な事だと。坂道の小石は止まる事など出来ない。コロコロコロコロ一直線、穴があるまで転がり続ける。止まらない勢いに成す術はないのだ。
もう本屋なんて気分じゃなくなったティアンナは歩きながらパクリと焼き鳥をひと口齧った。程々に冷めた肉、十分美味しいそれに沈んだ気分が少し浮上したが所詮少し。肩を落としてティアンナは自室のある寮へと戻っていった。
あくる日、職場に出勤したティアンナは自分の机にある書類の量に絶望し、震える手で未処理ラックにある紙の束を手に持った。
「なんで……!」
休み前に空にしておいたラックには厚さ3センチ程の書類が溜まっている。一日の増え方にしては異常すぎる量に顔を青褪めさせながらペラペラと紙を流し見ると何ヶ月も前の日付の書類が大量に紛れていた。
普通ではあり得ない事だ。疑問に思いつつティアンナは2ヶ月以上前の書類だけを抜き出す。書類の内容は主に経費精算の様だった。この医務室で経費精算など基本無い。全て備品で業務を行なっているので自分持ちで何かを購入する事はほぼ皆無なのだ。たまに遠征について行き、食事代や足らなかった医療品の買い出し分を請求される事はあるが、どの書類を見てもその様な請求理由は書いていない。
「おやつ代、交際費、弁当代……」
書類をめくってもめくってもまともな理由は書いていない。書いてある言葉は理解出来る。だが何故書いてあるかは理解出来ない。
交際費とあるが、一体なんの交際費なのかも記載が無い。そもそも交際費とは?ティアンナの頭が疑問符でいっぱいになった。
「まあ、でも期限切れちゃってるからね」
あらかた抜き出した書類に目を通したティアンナはそもそもの事を呟く。経費精算が出来る期限はとうに過ぎているからだ。基本、この様な書類は発生日の翌月までが期限である。2ヶ月以上前のものは提出しても支払い不可で却下されるのだ。まあ、今回は経理に提出する前にティアンナから差し戻す事になるのだが。
書類を確認していた時から目に入っていた申請者の名前、『ユナ・ゴルダン』の席にまとめて書類を返却する。当然却下理由の付箋でつけて、だ。
「規定も机に置いておこうかな」
何故、どうしてとティアンナに噛み付いてくるのは目に見えて分かる。なのでティアンナは経費精算について書かれた冊子も机に置いた。読むとは思えないが、読んで確認して貰いたい気持ちを込めて。
ユナが本気で請求をしようと思っているのなら問題だが、きっと彼女はティアンナの仕事の邪魔をしたかっただけだろう。その労力を他で発揮してくれたら良いのだが、多分望み薄だ。
朝の時間は尊い。この時間で一日の仕事のやる気が変わるのだ。つまり、今日はだめな日だ。本当に駄目な日だ。既に疲れている。
溜息を吐いて席に着いたティアンナはユナの分を抜いてもまだ厚い書類達と睨めっこする。
書類作業は好きだ。大好きだ。そう心で何度も唱え、ペンを手に持ちインクをペン先に付けた。
そんなティアンナが書類と戦っていた頃、サフィールはエミリオと対峙していた。
二人とも険しい顔でお互いを見ている。サフィールに至っては机をタンタンと指で叩いていた。
「脱獄だと……?」
「ええ、看守を殺害し島から脱出したようです」
眉間に皺を寄せ、低い声で会話をする。全てを見透かすという赤眼が鈍く光っていた。
「あの孤島からか?」
サフィールの問いにエミリオは深く頷く。それを見てサフィールは溜息を吐き、天を仰いだ。
事が起きたのは3日前。とある孤島にある牢獄に収監されていた囚人が脱獄した。名はアンジェロ・フォン・オルトラーニ。サフィールの従兄弟である。
アンジェロは先の皇帝殺害をした叔父の息子だ。叔父である皇弟は実行犯という事で直ぐに首を落とされたが、息子であるアンジェロは連座で牢獄に収監されたのだ。叔父と同じく首を刎ねるという刑も検討されたが、アンジェロは事に全く関わっていなかった為、極刑は免れた。
「まさかあそこから脱獄するとは」
疲れた体に、追い打ちをかける様な悲報。頭が考えるのを停止させようとしてくる。何を重点に考えたら良いのか分からなくなり、サフィールは目頭を揉んだ。
「全くです」
暗い声に溜息が混ざる。事の重大さを理解しているエミリオは視線を下に落とした。
看守を殺害しての脱獄など前代未聞だ。それが前皇帝を殺害した皇弟の息子だと言うのだから問題も問題、大問題だ。そんな大それた事が出来る男だとは思っていなかったが、心の内には獣を飼っていたのかもしれない。
目頭をひとしきり揉んだサフィールは視線を天井に向けたまま、苦笑した。
「あれはこうと決めたら絶対に曲げない男だ。連れて行かれる時も自分は関係ないとずっと喚いていたな。もしかしたらまだそう思っているのかもしれん」
「連座の意味を知っているのでしょうか」
「知っているのと理解するのは違う。何故俺が、と思っているのだろうな」
「なんて潔くない」
力無く首を振るエミリオの顔は呆れている様にも見える。エミリオもアンジェロが連行される場面を見ていた。それはそれは必死に無実を訴えていたが、そもそも連座だ。無実であろうとも首謀者の道連れにされる。もう少し皇弟と血筋が離れていたら何も無かったかも知らないが、アンジェロは嫡男だ。首謀者の次に重い刑となる。それが例え父を説得していたとしても。
エミリオが最後に見たアンジェロの姿に思いを馳せているとサフィールが笑う様に口を開いた。
「となるとアイツは此処に来るな」
とても愉快そうな声にエミリオは顔を顰める。
「来させませんよ」
「どうだかな」
鼻で笑ったサフィールを見て、エミリオも同じく鼻で笑った。
アンジェロが脱獄した孤島はこの皇都からだいぶ離れた場所にある。此処に着くまで通常ルートで大体2週間程だろうか。通常ルートでそれである。脱獄し、身を隠しながら此処に来るのだとしたらもっと期間は伸びるだろう。それにアンジェロは俗に言う箱入り息子だった。勉強は出来るが、剣や馬術は不得手だったのでそう上手く事が進む事はないだろう。エミリオはアンジェロが見つかるのにそう時間は掛からないと思っていた。
だが主人であるサフィールはそうではない様だった。エミリオの言葉を軽く捌き、空に捨てる。まるで信用されていない言葉にエミリオは不満そうな声を上げた。
「おや、臣下を信用してないんですか?」
嫌味な程笑顔を作り、そうサフィールに言えば彼はそうじゃないと首を振る。
「信用してるしてないではない」
天井を見上げていたサフィールは姿勢を戻し、エミリオを見る。真っ赤な瞳が強い光を孕んだ。
「直感だ」
そう言ったサフィールは、ふっと笑うと『冗談だ』と席を立った。冗談を言っている様な声では無いとエミリオは思ったが、彼がそう言うのであればそうなのだろう。特に深追いする事は無く、部屋を出るサフィールの後ろ姿を見送った。




