スミレ畑の真ん中で、彼女は今日も花冠を編む
昔々のお話です。
グレンダルトという国に心優しいリンデという少年が住んでいました。
お母さんは流行り病で亡くなり今は木こりのお父さんと森に二人で暮らしています。
リンデは大好きだったお母さんのいない寂しさで毎晩泣いていました。けれど、自分が泣いていることをお父さんが知ればとても悲しがると思い、決して声を上げて泣くことはありませんでした。リンデは毎日身を粉にして働くお父さんに心配をかけたくなかったのです。
そんなある日のこと。
リンデのお父さんがコホンコホンと咳を始めたかと思うと、あっという間に元気を失くしベッドから起き上がることが出来なくなってしまいました。
お母さんと同じ流行り病です。
その病気は罹ると数週間で命を落とす、とても恐ろしいものでした。
そしてもっと恐ろしいことに、この病気はまだ治療法が見つかっていないのです。
リンデは目の前が真っ暗になりました。
(お父さんまで死んでしまったら、僕はひとりぼっちだ)
リンデは悲しくて悲しくてたまりません。
もう声を我慢することができず、夜中お父さんが眠ったのを確認すると外へ出てわんわん泣きました。
その様子をそっと見守る者がいます。
それはファリンというスミレの花から生まれた妖精でした。月の光を受けた長い髪が銀色に輝いています。
ファリンはリンデが今よりもっと幼い頃、妖精売りに捕まりそうになっていたところを助けてもらって以来ずっとリンデのことが大好きでした。リンデが毎日泣いていることも知っていましたが、この小さな妖精はどうしたらいいかわからず、ただ見守ることしかできずにいたのです。
(私に何かできることがあればいいのに)
リンデの泣き声がファリンの胸を締め付けます。
「泣かないで、リンデ」
たまらなくなったファリンが声をかけると、膝を抱えうずくまっていたリンデが泣きはらした顔をあげました。
「ファリン」
足元で自分を見つめるファリンを見つけるとリンデは一瞬耐え切れなくなったように顔を歪めましたが、すぐに鼻をぐずぐずと鳴らしながら笑ってみせました。
「いやだなあ、こんな格好悪いところ見ないでおくれよ」
気丈にふるまうその健気さが切ないやら愛しいやらで、ファリンまで泣きたくなってしまいました。
「恰好悪くなんてないわ。誰だって大切な人が元気を失くせば悲しいし、ひとりぼっちは怖いもの。愛しいリンデ。あなたの泣いている声を聴くと私は悲しくて悲しくて、私まで涙が出てきてしまうのよ。何かできることはある?私はあなたに笑顔でいてほしいわ、あなたのお願いなら何でも聞いてあげる」
「ありがとう、ファリン。君を悲しませてしまってごめんね。でも……。残念だけど、君に出来ることはないんだよ。僕にもね。そう、僕に出来ることも何もない、お父さんを助けることは、できないんだ……」
リンデは徐々に声を詰まらせ、また涙をこぼしました。ファリンはリンデの顔の高さまで飛びあがると、スミレの花びらで出来たドレスでその涙をぬぐいます。
「ああ、可哀想なリンデ。こんな時、流れ星が流れてくれれば……」
「流れ星?」
ファリンはハッとして手で口を塞ぎましたが手遅れです。リンデはファリンを手の平に乗せると、すがるような目で彼女を見つめました。
「流れ星ってなんだい?」
問い掛けられてファリンは口ごもりました。
「な、なんでもないわ」
妖精は嘘をつくのが上手いと思われていますが、全ての妖精がそうという訳ではありません。ファリンはとりわけ嘘をつくのが下手な妖精でした。目を逸らしもごもごと言いよどむ彼女に、リンデがもう一度訪ねます。
「お願いだよ、ファリン。何か方法があるのかい?」
咄嗟にうまい言い訳を思いつけず、ファリンは仕方なく流れ星の話を聞かせました。
数十年に一度、空のどこかを流れる一粒の星に願い事を唱えると、願いが叶う。
その言い伝えは妖精なら誰もが……いいえ、今では人間だって皆が知っている有名なお話です。けれどこの当時、そのことを知っている人間はあまり多くありませんでした。人間の願いは貪欲で際限がなく恐ろしいので妖精たちは皆、教えたがらなかったのです。そもそも流れ星が流れるのは数十年に一度きり。その一瞬がいつ、どの方角に訪れるのかは誰にもわからず、秘密にしていたところで妖精よりもずっと寿命の短い人間が流れ星を見つけることなど到底不可能なのでした。
それでも、リンデに話せばきっと彼は毎晩流れ星を探し続けるでしょう。
「夢物語よ。昼間お父様の代わりに働いているあなたが夜も眠らずに星を探し続ければ、きっと身体を壊してしまう。今だっていつお父様の病気があなたに移ってしまうかもわからないのに……。お父様もリンデにそんなことしてほしくないはずだわ。あなたよりずうっと長生きしている私だってまだ見たことがないの、見つかりっこない」
リンデはその言葉に曖昧な笑みを返しました。その表情に全てを察し、ファリンはうなだれます。
「見つかりっこ、ないのよ……」
苦々しく呟いたファリンの頭をリンデの指先が優しく撫でました。そして静かな声で訊ねます。
「ファリンには叶えたい願い事ってある?」
「私?私は……」
ファリンはそれを口にするのを躊躇いました。願い事は口に出すと叶わなくなってしまうと前に他の妖精から聞いたことがあったからです。けれどファリンは大好きなリンデの問いかけに嘘をつくことは出来ませんでした。
「人間に、なりたいの」
「人間に?妖精でいるのは嫌なのかい?」
「妖精であるのが嫌なんてことあるものですか」
ファリンが大きくかぶりを振ります。そしてリンデの指先を手に取り、彼を真っ直ぐに見つめてこう言いました。
「妖精は人間よりずっと自由で楽しい生き物だもの。私は今の自分が大好きよ。でもね。それ以上に、あなたの事が大好きなの、リンデ。私は人間になってあなたと一緒に暮らし、家族を作りたい。ねえ、もしも私がいつか人間になれたら、私をあなたのお嫁さんにしてくれる?」
それを聞いたリンデはとても驚き、自分の頬が熱くなるのを感じました。
森の奥に住むリンデにとってファリンは唯一の友達。リンデはお父さんやお母さんと同じくらいファリンのことが大好きでした。例えばそう、“もし彼女が人間だったら恋人になれるのに”と思うほどに。けれどファリンは自分と時間の進み方が違う妖精です。ファリンが自分のことを好いてくれているのはわかっていましたが、てっきりそれは親が子供に向ける愛情に近いものだとばかり思っていたのでした。
ファリンの告白にリンデはその時だけは悲しい気持ちを忘れ、胸の中が温かい気持ちでいっぱいになりました。
「もちろんだよ、ファリン。僕も君が大好きだ」
それはリンデがずっとファリンに言いたかった言葉でした。ところがいざ口にするとどうにも恥ずかしくてたまりません。リンデは手の平の上で顔を真っ赤にして惚けているファリンを地面に降ろすと早口でおやすみの言葉を告げ、家の中に戻ってしまいました。
一方のファリンのほうはというと、彼女もまた喜びのあまり降ろされた場所から動くことなく、朝日が昇るまでリンデの「大好きだ」という言葉を延々と反芻し続けたのでした。
けれど優しい時間は長くは続きません。
お父さんの容体は日に日に悪化していくばかり。もう先が長くないと悟ったリンデは、傍にいるファリンがいくら止めようとしても聞く耳を持たず、毎晩必死に星を探し続けました。そうしてリンデはファリンの心配した通り両親と同じ流行り病にかかってしまったのです。
リンデの暮らす家は深い森の中。看病に来てくれる人もいません。リンデは病を押してお父さんの看病を続けましたが、ついには歩くこともままならなくなり、とうとう動けなくなってしまいました。このままでは二人とも死んでしまいます。
(私がなんとかしないと)
ファリンは自分に出来ることがないか一生懸命考えました。しかし彼女は魔法を使うこともほとんどできない力の弱い妖精です。身体だって大人の手の平ほどしかありません。そんなファリンに出来ることなど限られていました。
「私が代わってあげられればいいのに」
ファリンは自分の無力さに打ちひしがれて、自身の細く小さな手を力任せに地面へ叩きつけました。何度も何度も叩きつけたその手は、血がにじんでいます。
(ああ、初めてリンデに会った時も私の手はこんな風にボロボロだったわ)
泥と血にまみれた手を眺めながら、ファリンは二人が初めて出会った日のことを思い出していました。
昇ったばかりの太陽の眩しさ。
朝露に濡れて立ち込める土の匂い。
降り注ぐ、血を塗り固めたように赤いナナカマドの実。
妖精売りに一晩中追われ、もう羽根を震わせることもかなわない程疲れ果てたファリンは地面に倒れ込んでぼんやりと空を見つめていました。
すぐに妖精売りが追いついて、自分を捕まえてしまうだろう。これ以上抵抗しても仕方ない。
ファリンが逃げるのを諦め目を閉じた、その時でした。
「妖精さん、大丈夫?」
耳慣れぬ声に開いた瞳に映ったのは、あの恐ろしい妖精売りとは似ても似つかぬ小さな男の子。薄黄緑の瞳が心配と不安で揺れていたことを、ファリンはよく覚えています。あの時、リンデはこう続けたのでした。
「うちにおいでよ。うちはみんな元気だから、君に酷いことをする人はいないよ」
(……そうだ)
そして、ファリンは自分に出来ることが一つだけ残っているのに気付きました。小さくうなずくと、勢いよく羽を広げて飛び立ちます。涙を拭いたその目には、強い決意が宿っていました。
その日の晩のこと。
「──デ。リン、デ」
リンデは熱と息苦しさで朦朧とする意識の中、自分の名前を呼ぶ声を聞きました。ベッドに面した窓から入ってきたのでしょう、その声と共に夜の冷気がリンデの頬をそっと撫でました。
(ファリン……?)
涙で滲む視界には暗闇が広がるばかり。ファリンの名を呼ぼうと乾いた唇を開けば、隙間からヒューヒューと苦しそうな呼吸音が漏れました。ふと、枕元にファリンのいる気配を感じて頭を上げようとすると「そのままで」と制止する声がかかり、唇に何かを押し当てられました。
「もう大丈夫よ。あなたの為、薬を、持って……、飲んでね」
リンデはファリンの声がよく聞こえないことが不思議でしたが、きっと熱のせいなのだろうと思い、言われたまま唇に触れている何かを口に含みました。それはとても甘く、舌をざらりと撫でると液体になって喉に流れていきます。リンデがこれまで口にしたことのない食べ物でした。そして不思議なことに、それを飲み込んだ途端リンデは身体にぐんぐん力が湧いてくるのを感じたのです。ぐっと力を込めれば、先ほどまで指先を動かすことも出来なかったのが嘘のようにあっさりと身体が起き上がりました。もう息苦しさもありません。
「ファリン!これは一体……ファリン?」
リンデは立ち上がって辺りを見回しましたが、たった今そこにいたはずのファリンの姿が見当たりません。いつもなら名前を呼べばどこにいたってすぐに飛んできてくれるはずなのに……。
「どこにいるんだい?ファリン!答えておくれ!」
やっぱり答えはありません。
仕方なくリンデはベッドへ腰を下ろしかけ、そこで枕元にスミレの花びらが一枚落ちているのに気付きました。それは触れるとほんのり温かく、普通の花びらよりもツヤツヤと堅い砂糖菓子のようです。
「まさか……」
リンデの頭の中にひとつの不安がよぎり、手にした花びらをぎゅっと握りしめました。
リンデは家を飛び出します。すると、すぐそばの花畑が一ヶ所だけ淡い光を放っていることに気付きました。胸騒ぎを覚えながら駆け寄ると、なんとファリンが倒れているではありませんか。リンデは慌てて手を伸ばし、ファリンを拾い上げて声をかけました。けれどファリンはぐったりしたまま動きません。彼女を包んでいる光はどんどん弱くなっていきます。
「ファリン!ファリン!」
リンデの呼びかけに、ファリンがようやく目を覚ましました。
「……リン、デ」
「ファリン、どうしてこんなことをしたんだ!この花びらは君の、命を使ったんだろう!?これじゃあ君が、君が……!」
リンデは知っていました。妖精には生き物を癒す力があるということを。そしてそれは自分の命の一部を引き換えにするということも。
グレンダルトの国で違法となっている妖精の売買。それでも大金を払って妖精を買う人間、その多くは彼女達の持つ「癒しの力」に救いを求めてのことでした。妖精売りはそんな人々の弱みに付け込んで、こっそり妖精を捕まえてはその命を高値で売りつけるのです。
リンデが頼めばファリンは間違いなく自分の命を差し出してお父さんの病気を治してくれるでしょう。けれどファリンは力の弱い妖精です。彼女がその力を使えば、無事では済まないことは明らかでした。だからリンデは黙っていたのです。本当はファリンに力を使うよう頼んでみようかと何度思ったかわかりません。でも、やっぱり大好きなファリンに自分を犠牲にしてほしくなどなかったのです。それなのに。
「それをお父様に」
「……ファリン」
「こんなところ、見せたく、なかったのに……」
息も絶え絶えに呟くファリンを前にしてリンデは泣き出しました。ぽたぽたとこぼれ落ちた涙がファリンの身体やドレスを濡らしてしまい、リンデは咄嗟に顔を離して空を仰ぎ見ました。
その時です。
月よりも明るい光を放つ大きな星が、空を流れていくではありませんか。
「あっ!」
リンデは願い事を唱えるのも忘れてその星に見入りました。そしてハッと気付き、大きな声で叫んだのです。
「ファリンを助けて!!!」
北から西へ流れていたはずの星がぴたりと止まりました。まるで空に月が二つ浮かんでいるかのようです。それから流れ星の光は小さく小さくなって……最後に目が眩むような強い光を放つと、無数の光の粒となって地上に降り注ぎました。その粒は何かに当たるとピン!と高く小さな音をたてて消えていきます。
やがて、落ちてくる星の中でもひと際強く煌めいている一粒がファリンの身体に触れました。すると星が触れたところから紫色の炎が湧き上がったではありませんか。リンデは慌てましたが、その炎がまるで熱さを感じないことに気付くとそのまま行く末を見守ることにしました。
それからどのくらい経ったでしょう。
何の前触れもなく、炎に包まれていたファリンの身体が足の爪先から花びらとなって崩れ去ったのです。
リンデがあっと声を上げると、手のひらに作られたその小さな花びらの塊は内側から湧き上がるように膨れ始めました。みるみるうちにリンデの手で持ちきれないほどの大きさになり、リンデは腰を下ろしてその塊を抱き抱えます。それはさながら花で作られた繭のよう。
「……ファリン?」
人間の大人ほどの大きさになったところで動きの止まった繭にリンデが恐る恐る囁きます。するとその声をきっかけに花びらは一斉に舞い上がり、花吹雪が巻き起こりました。一枚一枚が生きた蝶のごとく、地面に落ちることなく思い思いの方向へ飛んでいきます。
視界を覆いつくす一面の薄紫。あまりの数の多さに目眩を覚え、ぎゅっと目を瞑ったリンデの鼻先をスミレ特有の甘い香りが掠めました。
「わかった!それでファリンおばあさまはにんげんになったんだ!」
まだ幼さの残る舌ったらずな男の子の声がスミレ畑に響きます。
「あら違うわ、ファル。ファリンおばあさまは人間にはなれなかったのよ。ね、おばあさま?」
男の子よりも少し年上の、けれどまだ少女と呼ぶには早い年頃の愛らしい女の子が得意げに男の子を諭しました。花の香りを乗せた柔らかい風が、二つに結ばれた女の子の銀髪を踊るように揺らします。
二人の子供にまとわりつかれながら器用に花冠を編んでいた女性の手が止まりました。傍から見れば子供たちから「おばあさま」と呼ばれていることに違和感を覚えるでしょう。まだ恋も知らぬ乙女のようなあどけなさの残るその横顔はリンデと出会ったあの時から変わらないまま。
「そうね。願い星が叶えてくれたのはリンデの『ファリンを助けて』という願い事だったから、私は人間にはなれなかったのよ」
その言葉に男の子はくりくりと大きな目を更に大きくさせて驚きました。
「おばあさまはようせいなの!?」
女性は男の子の問いかけに、優しい笑顔で応えます。女の子は「だからそう言ってるでしょ」と呆れ顔。
「じゃあおばあさまのおねがいはかなわなかったんだね……」
女性の語る物語を熱心に聞いていた男の子は、ファリンが人間になれなかったのを知ってしょんぼりと肩を落とし、口を尖らせました。
それを見て女性は「いいえ」と笑います。
「あのねファル。私の一番叶えたかったお願いは、あなたのお爺さんの、そのまたお爺さんが叶えてくれたの。人間になりたいという願いは叶わなかったけれど……そのお願いが叶わなかったお陰で今こうして可愛いあなた達にも昔話を聞かせてあげられているのよ。たくさんの家族がいて、私はとっても幸せ。そんなに悲しい顔をしないで頂戴。さあ出来た」
女性の手には丁寧に編まれた花冠が二つ。子供たちの頭にそれぞれ乗せてあげれば、今の今まで話していたことなどもう頭から抜け落ちたようで、歓声をあげながら踊り出しました。
その様子を女性は目を細めて眺めます。
ふいに、在りし日の思い出が彼女の頭をよぎりました。
過去に例を見ないほどの大雪で雪解けが遅れ、ようやく開かれた春の祝祭にグレンダルト王国全土が大きく沸き立ったその日。
──ファリン、僕と結婚してほしいんだ
リンデはそう言って、彼女の頭にスミレの花で編んだ花冠を乗せてくれました。慣れない者の手で作られたその花冠は決して見栄えが良いとは言えませんでしたが、彼女にとってそれは何よりも嬉しい贈り物だったに違いありません。
それから春が訪れる度、彼女は子供たちに花冠を編んできました。
そしてそれはきっと、これからも。
人間になれなかった妖精は大切な人を想いながら花冠を編み続けるのです。
この、スミレ畑の真ん中で。