埋葬者―Milvus migrans―
草木を揺らすことのない腥風が鼻先を掠めた。骨に沁みてくるほどの幽香。それがただの錯覚であり、所謂胸騒ぎというものであることを、今の僕は知悉している。誰の身に、何が起きたのだろう。そんなことをぼんやり思惟して顎を持ち上げた。
碧落に一片の羽が舞う。紅鏡に照らされたそれは、やがて見えなくなる。何気なく吸い込んだ空気にわけも分からず幽慷してしまいそうになりながら、呼気に滲んだ憂心を磨り潰すように切歯した。木製の箒を握りしめ、余計な念慮を切り崩して庭を掃く。俯くと自身の腕時計が目に付いた。日輪を反射する文字盤の上で、針が廻っていた。
空色の目をした友人が、懐中時計を壊したと苦笑していたのを不意に回視する。嫌な予感を振り払いたくて、その彼女に会いに行こうかと顔を上げれば、壮年の男性が蒼白い顔で立っていた。僕の方へ蹌踉と歩み寄って蒼然たる影を落とすと、彼は眉間の皺を深めて嘆声を絞り出していた。
「娘が、死んだんだ」
この男性のことは知っている。狭い村だから、ということもあるが、友人の父親だからだ。
「どうか……優しく送ってやってくれ。リーズは君のことを気に入っていたんだよ」
「ルスキニアを埋葬するのが僕の役目ですから、ご安心ください」
「……ああ、よろしく頼むよ。ミルウス・ミグランス」
胸臆の哀傷が溢流して、微かに掠れた声遣い。涙声で紡がれたその名に朗色を湛えてみせる。
それは僕の名前ではない。埋葬者の呼び名だ。この村では死者が出ると村人達に役割が与えられ、村全体で葬儀を行っていた。死者を駒鳥と呼んで、ナーサリーライムの詞を歌い、葬送する。だがそんな習わしも年々敬遠されていき、今は埋葬者たる僕の家だけが死者を弔っていた。
死は悲しいものであり、病の隣人であり、死骸に触れれば穢されてしまう、と村の人々は言った。それでも家族の遺体にすら近付かない彼らは、愚かな平穏に浸る鳩のようだった。愛する人を弔うことよりも、自分の命を優先する様には嘆息が溢れる。
友人の家へ足を踏み入れた。床板を軋ませて室内に入れば、腥い腐臭が嗅覚を刺激してくる。友人の父親に見守られる中で遺体を抱き上げ、彼に軽く会釈をした。
階段から落ちて亡くなったらしく、後頭部から流れた紅血が衣服の襟を染色している。彼女はそそっかしいところがあったからな、なんて沈吟していたら、肺腑から哀惜がせり上がって来て嘔吐いてしまいそうだった。亡き両親から埋葬者を受け継いで数年は経つが、空虚感に似た哀哭に慣れることは出来やしない。僕も人並みに哀情を持っている。村人の多くは、僕に埋葬を任せていながらも弔い方を非難して『残酷な人でなしだ』と度々嘲謔を向けてくるけれど。
埋葬者による葬儀は、人々に吐き気を抱かせるものらしい。それゆえ僕達埋葬者は誰の目にも留まらない自宅で死者を弔っていた。
碧天の眩さに諸目を細める。目の前が薄らと掻き曇っていた。両腕に伸し掛かる彼女の重みが、喉を締め付けてくる。僕は陽光から逃れるように扉を潜った。
微かな燭光だけが広がる薄暗い室内で、床に寝かせた彼女の服をそっと取り去って、生気のない体を一瞥した。冷たい手を指先で掬い上げ、色を無くした爪に口付けを落とす。彼女がこの手で摘んだ木の実を僕にくれたのは、昨日のことだ。とても甘くて、美味しくて。彼女は、美味しいと微笑んだ僕を嬉しそうに見ていて。
震えた唇を開いた僕は、僅かに伸びている爪の裏側へ歯を押し当て、そのまま引き剥がした。小さなそれを失くしてしまわぬように、口腔へ押し込んで噛み砕いていく。咀嚼する程に自分の骨が震えているのを感じながら懐から刃物を取り出した。
肉体とは、魂を捕らえている籠である。その肉体を壊すことで、魂はようやく籠から天へ還ることが出来る。ミルウス・ミグランスは、骨に纏わりつく腐肉を全て取り去って、死者を解放しなければならない。悪戯に遺体を弄んでいるのではなく、敬意を払っているという証明に、その体を余すことなく飲み下す。自若として籠を壊す為には何も考えない方が良い。
それなのに黙想してしまう。この手を繋いだ日があったことも、心地良い体温が確かに宿っていたことも、握られた感覚も、鮮明に思い起こせる。
冷え切って硬直した指に鋭鋒を沈めた。そのまま裂いていけば刃先と擦れ合った骨が嫌な音を響かせていた。血液を溢れさせる管を引き千切っていくと、指先が跳ねるように震えていた。切り離した部位を舌の上へ乗せる。鼻をつんと刺す風味から意識を逸らし白刃を動かし続けた。漸次に骨が露わになっていく。中手骨から尺骨までを剣尖でなぞって皮下組織を抉り、更に暴いていった。
抉れば抉るほどこの胸が穿通されていくような痛みに焼かれる。これはいつものことだ。しかし相手が親しい友だからか、普段よりも酷い倒懸が心髄を刺していた。
腕を裂き終え、次いで開くのは胴体。拍動は僕のものしか感じられなかった。彼女の心音を聴いたのは、幼い頃同じ布団で寝た時くらいだったろうか。
華奢な足をそっと持ち上げて犀利な刃を滑らせた。動かない双脚から血肉を解いていく中で、彼女がもう歩けないのだということを改めて思い知った。
瞼を軽く押し上げて彼女の明眸を見つめた。生彩を欠いた虹彩は僕を捉えない。見知った彼女の碧眼はいつだって微かに濡れており、埋葬者である僕へ憂慮を覗かせていた。今やその懸珠は硝子玉のように濁って、乾ききっていた。
苦笑しようとして吐き出した息は痛嘆に塗れてしまう。
「リーズ」
なぜ呼び掛けてみたのか、自分でもわからない。半分だけ壊れた鳥籠から、魂はもう出て行ってしまっているはずだ。これほど壊しておきながら今更、戻ってきてくれと、僕に微笑んでくれと、望蜀じみた願いを掲げるつもりなのだろうか。
叶わぬ願いも、心悲しさも全て彼女と共に飲み込んだ。彼女の遺体に残っているかもしれない悲憤さえも嚥下する。全て飲み込んでしまえば、籠に纏繞する彼女の心残りは全て僕の中で生き続ける。彼女に悔いがあったかは分からない。それでも、埋葬者は死者の全てを咀嚼して背負うものだ。死者の魂が、何も背負うことなく身軽に空へ羽ばたけるよう、安息を希う。
「ありがとう。おやすみ」
喘鳴を漏らしてしまいそうで、声はあまり紡げない。呼応することのない心臓を飲み込んで、彼女の骨を綺麗に拭いていく。
彼女を棺桶に収めると、僕はそれを担いだ。癖のように染み付いた旋律が、痙攣する僕の唇から無意識の内に零れていた。木製の扉を開けたら、曙の空に飾られた明星が、夜明けを告げていた。
「Who'll carry the coffin? I, said the Kite,if it's not through the night,I'll carry the coffin……」
涼風に声を攫わせる。動かし続けたせいか、悲しみで震えるせいか、口唇は上手く動かなかった。微笑を象った頬には流涕の痕が残っていた。
頭上を仰ぐ。彼女の碧眼を思わせる碧落に幽慷した。それと同時に、回顧する思い出に笑みが込み上げた。深呼吸をして意を決する。
さぁ、賛美歌を携えて鐘を鳴らしに行こう。