41.月光
「しかもそれさえも、正確には今はまだ婚約者だ。
妻ですらない。
婚約など、いつでも破棄できる。
つまらないものに縛られるな」
そう言ってエドガーは、ユウラの左手を取って、
その指に輝くダイヤの指輪に目を細める。
(彼女は自分が触れてはいけない人)
心の中で何かが警鐘を鳴らしている。
同時にエドガーの脳裏に過る映像がある。
マルーンの髪の女性がかき抱く、
自分とよく似た面差しの男。
その女の左の薬指にも、
やはり冷たい指輪が輝いていた。
エドガーは苦し気に、唇を噛み締めた。
(すべては虚構なのだ)
寂しい笑みを浮かべるエドガーの前に、
ウォルフが立つ。
漆黒の髪に、闇色の瞳を持つ、
この美しい青年が、
まるで己の醜い罪を断罪する、
死神のようにさえ見える。
自分を真っすぐに見つめる、
闇色の瞳が今はひどく恐ろしい。
「これはこれは、
エドガー王太子殿下」
そう言ってウォルフ・フォン・アルフォードは、
匂うような笑みを称えた。
その姿を目の当たりにしたユウラが、
目を見開いてその胸に飛び込む。
翻る燃えるような赤い髪が、
エドガーの視界を掠めて消えていく。
それはあまりにも鮮やかな赤だった。
(赤とは私にとって、この世で最も美しい色であり、
同時に最も残酷な色なのだな)
エドガーの脳裏にマルーンの髪の女が過り、
その唇に滴るルージュの色に重なる。
◇◇◇
アカデミーの講堂に特別に設えられた貴賓席には、
その姿が周りに見えないように、
四方に厳重に几帳が立てかけられている。
その中にちんまりとおさまるルーク・レイランドは、
眉間に深い縦皺を刻んでいる。
「フルーツの盛り合わせを取って参りました。
口を開けて頂けませんか? 皇女殿下」
そう言ってエルライドが、フォークに突き刺したイチゴを、
現在絶賛女装中のルークの口元に差し出す。
「自分で食べるし!」
ルークは不機嫌にエルライドから、
フォークを奪い取った。
そんなルークにはお構いなしに、
「食後の紅茶は、砂糖はひとつ?
それとも二つですか?」
エルライドは無駄にキラキラとした笑みを
こちらに向けてくる。
「二つだけどもっ!!!
何? エルライド、
ひょっとしてこれは僕に対する嫌がらせなの?
そうなの? ねぇっ! ねぇぇぇ!」
ルークの白目には、
無数の毛細血管が赤く血走っている。
「いや~……すいません。
そんな可愛いルーク隊長を見ていると、つい……ね」
そう言ってエルライドが、片目を瞑って詫びると、
「ついじゃない。僕はこれでも君の上官だよ?
その上官を可愛いだなんて」
不貞腐れるルークを、エルライドがじっと見つめる。
「ルーク隊長、さっき鏡見ましたよね?」
エルライドの言葉に、
ルークの眉間の皺はさらに深くなる。
「俺、でも、この美少女の正体がルーク隊長だと知らなかったら、
普通に口説き落としてるわ」
まんざらでもなさそうに、そう言って寄越すエルライドに、
ルークががっくりと肩を落とした。
自覚は……ある。
亡き母に生き写しだというこの顔のせいで、
幼少期からそんな誤解は数限りなく発生した。
中には自分が男だということを説明した後にも、
迫ってくるという強者もいたが、
そういう輩はこの鉄拳ですべて返り討ちにしてきた。
気が付いたらめっぽう喧嘩が強くなっていた。
容姿は母に、そして中身は漢と書いておとこと読む、
将軍ハルマ・エルドレッドの方の遺伝子を
引き継いでしまったらしいので始末に悪い。
「っていうのは冗談ですけど、
とりあえず今は俺も任務遂行中なんで、
やるからには、完璧に隊長のエスコート役、
こなしてみせますから」
エルライドが自身満々に微笑んで見せる。
「ルーク様、ウォルフ様が控室に戻られましたので、
そちらの方においで下さいませ」
しばらくすると、『チーム・オリビア』のタイムキーパーが、
ルークに耳打ちしたので、控室に戻るために廊下に出たところで、
ルークは車のエンジン音を聞いた。
窓辺に寄って目を凝らすと、
人気のない車停めに、黒塗りの高級車が横付けされ、
カルシア第二王妃が降り立った。
「こんな時間になぜ?」
オリビア歓待の宴は、間もなくたけなわとなる。
(今日の宴の主催者である、
エドガーを迎えに来たのか?
まあ、そう考えれば辻褄は合うのか。
しかし……。
カルシア自ら赴く必要が?)
ルークはどこか違和感を感じる。
しばらくして、もう一台の黒塗り高級車が到着し、
そこから降り立ったのは、国王の事務次官
ハイネス・エーデンだった。
ルークは目を見開き、思わず掌で口を覆った。
ハイネス・エーデンの後には、
仮面で顔を覆った女騎士が続く。
その容姿こそは月の女神ティナの仮面によって
伺い知ることはできないが、
その手足はすらりと伸びて美しい。
金糸で刺しゅうを施された白の騎士服に、
背に流す絹糸のような美しいプラチナブロンドが、
月光に照らされて、キラキラと輝いている。
ルークは暫しその光景に魅入ってしまった。
広間では誰かが余興でピアノを弾いているらしい。
ピアノの微かな旋律が廊下にも聴こえてくる。
それは奇しくも
ベートーベンのピアノソナタ『月光』の
第一楽章である。
紡がれる静かな旋律の中に、
強かな緊張を感じて、
ルークは思わず身震いした。




