106.傷口
セレーネはユウラを抱いて、
そっとカルシアの宛がった部屋を抜け出した。
古城からは少し距離を置いた夜の下町を、
セレーネがあてもなく歩く。
月は見えない。
雲が幾重にも重なった闇の濃い夜だ。
雨は降っていないものの、
ねっとりとした湿気がその身体に絡みついてくる。
石畳は薄汚れ、ところどころひび割れては欠けている。
酔っ払いが路上に寝そべって、その横には酒の空き瓶が転がっている。
ガス灯の火が、青く、白く、小さく揺らめいては、
暗澹たる街を照らす。
セレーネはようやく通りに一軒の宿屋を見つけて、
その中に入っていった。
宿泊の手続きをしていると、ガラの悪い男の一団が入ってきた。
男たちはひどく痩せて、おどおどとした赤髪の少女を伴っている。
男たちはすれ違いざまにセレーネとユウラに下卑た視線を送り、
口笛を吹いた。
セレーネはそんな男たちを無視して、自身の部屋に入っていくと
ユウラをベッドに横たえた。
ユウラの頬は火照り、呼吸が荒い。
「ユウラ?」
セレーネはユウラの額に手をあてた。
火のように熱い。
「ユウラ! あなたちょっと大丈夫?」
セレーネが焦ったようにユウラの肩をゆすった。
「んっ……」
ユウラの眉が微かに動いて、ゆっくりとその瞳を開く。
「ユ……ウ……ラ……?」
その眼差しが不思議そうにセレーネを見つめて、
その名前を呟く。
「あなたの名前よ? ユウラ。
理解できる?」
ユウラはニ、三目を瞬かせて、頷いた。
「ユウラ、お水飲む?」
セレーネがそう問うと、ユウラは首を小さく横に動かして、
瞼を閉じた。
そしてまた微睡の中に落ちていく。
「ちょっと、ユウラっ! ユウラったら!
いけない。熱が上がっているわ」
セレーネは財布を取り出して、熱さましを買いに行くために部屋を出た。
◇◇◇
薄い微睡なかで、ユウラは誰かがすすり泣く声を聞いた。
薄い壁一枚を隔てて、確かに誰かが泣いている。
ユウラは熱に侵された重い体を起こし、
その泣き声に引き寄せられるかのように、足を踏み出す。
隣の部屋の扉には鍵はかかっておらず、
建付けの悪い古いドアが、
ギィィィっという不気味な音を立てて、
暗い部屋の中へと誘う。
煙草の匂いと酒の匂いの入り混じった乱雑な部屋の柱に、
少女が柱に身体を括りつけられている。
少女はか細い声で、
膝に顔を埋めて泣きじゃくっている。
ユウラの顔を見て、少女の顔が恐怖に歪む。
「大丈夫……大丈夫だよ」
そう言ってユウラは少女に微笑みかける。
それが夢なのか現なのか、熱に浮かされたユウラには
それさえもわからない。
それでも、世界の片隅で泣きじゃくり、
震えているこの少女を放っておくことは
ユウラにはできなかった。
記憶の中に靄がかかって、今はよくわからないのだが、
かつて自分も少女のように蹲って泣いていた時に、
差し伸べられた手があった。
大きくて温かい手に、しっかりとこの手を繋がれていたという記憶。
その腕に抱きしめられていたという、ひどく幸せな記憶。
それが誰なのかはわからない。
それはこの心に空いた、とてつもない大きな穴で、
その深さに打ちのめされて、絶望すら感じる。
それでもユウラは膝を屈めて、少女の縄を解いてやる。
「お父さんとお母さんのもとに帰りなさい。
あなたの大切な人のもとに」
そういってユウラは少女に微笑みかけた。
少女は目に一杯涙を浮かべて、
ユウラに一礼して部屋を飛び出した。
熱に浮かされたユウラの視界が歪む。
「大切な……人……か」
ユウラが小さく呟いて、自嘲する。
靄の中に、その面影が消えていく。
手を伸ばしても、届きはしない。
今はもう……思い出すこともできない面影を、
ぼんやりと心に思い浮かべると、涙が溢れた。
(ああ、私は泣いているんだ)
ユウラは自分が泣いていることを自覚し、
その頬を伝う涙を不思議に思った。
(泣いているのは、私なんだ)
ユウラは蹲り、膝に顔を埋めた。
差し伸べられる大きくて、温かい手はない。
立ち上がる気力もない。
ユウラはその場に崩れ落ちた。
扉が再び開かれて、暗い部屋に明かりが差し込む。
その眩しさに、ユウラは目が眩む。
細めた目をゆっくりと開くと、
屈強な男たちの姿が見えた。
彼らは軍隊に属するものではない、とユウラは思った。
どうしてそう思うのかは、不思議だったが、
これは商隊の男たちなのだと、ユウラは認識した。
商隊とは、隊を組んで旅をする商人の一団を指す。
「兄貴! こいつは上玉ですぜ!」
そういって、ユウラの頤に触れて上を向かせる。
「上級貴族だったら、
銀5000枚だって支払いますぜ?」
そんな男たちの会話をユウラは聞くともなしに聞きながら、
『ああ、自分は売られていくんだな』と頭のどこかが認識してるのだが、
男たちを見つめるユウラの瞳に光はない。
絶望に凍えてしまった人形のように、ただその場に蹲る。
◇◇◇
ユウラが商隊の男たちに連れていかれるのを、
その屋根の上でじっと見つめていた者がある。
金の髪に翡翠色の瞳を持つ少年は、
今は黒の領巾でその口元を隠している。
ゼノア・サイファリアだ。
「おいおい、アフターケアがなっちゃいねぇぞ?
セレーネの姉ちゃんよ」
少し呆れたように一人ごちる。
そして短く指笛を吹くと、その足元に影の者がひれ伏す。
「あの赤毛の女、ユウラ・エルドレッドを見張れ。
何としてでもあの女の命と貞操を守れ。
手段は選ばなくていい。
しかし、できれば誰にも気づかれない方法でな」
ゼノアがそう命じると、影の者が頷き、闇に溶けていった。
「ウォルフ・フォン・アルフォードだか、
ウォルフ・レッドロラインだか知らねぇけどよ、
惚れた女っちゅうのは、死んでも手を離しちゃいけねぇんだぞ?」
ゼノアは国元に残してきた年上の恋人の面影を思い出して、
寂しげな笑みを浮かべた。




