3・パン屋さんの聖女
ケイトの姿を認めたサクラは、興奮した様子で走り寄ってくる。
「すごい! あのケイト様が目の前に! すごい、真っ白なお肌がツルツル! パールみたいな薄いグレーの瞳が超かわいい! 唇がピンク! しかも見事なさくらんぼ色! そして何よりも、ミルクブルーの髪がきれー! こんな美しい色見たことない! どうしよう! ああっ……もう、良き……!」
妙なテンションで叫ぶ淑女に慣れていないケイトは、表情を硬くして後ずさる。
「い……異世界からいらっしゃった聖女サクラ様でいらっしゃいますね。ごきげんよう。私、急いでおりますので。では」
くるっと踵を返したケイトの腕を、サクラががっしりと掴んだ
「待って! その荷物、私が持つわ。ケイト様には難しいでしょう? 私は、店の手伝いで重い荷物には慣れているから大丈夫よ!」
「い……いえ、結構ですわ。お心遣い、感謝申し上げます」
とは言ったものの、ケイトは慌てて重いトランクケースを引きずったので、絨毯を巻き込んで踏んでしまう。さらにそこにドレスの裾が絡まって、うっかり転びそうになってしまった。
「きゃあ」
「……大丈夫?」
サクラは右手でケイトを抱き止め、左手でトランクケースを持ち上げている。華奢な少女なのに、どこにこんな力があるというのか。異世界から来た方はやはりすごい、ケイトがそう思いかけたところで、サクラは笑った。
「だから慣れているって言ったでしょう? うち、パン屋なんだ。重い小麦粉の袋とか、よく持ってるし」
「パン屋……さんですか」
魔法や魔法道具が当たり前にあるこの世界で生きるケイトにとっては、『パン屋=力を使う』の構図が分からない。思わず会話に応じたケイトに、サクラは思い出したように言う。
「あっ、今はそんなことどうでもいいのか! ケイト様は逃走の途中なんだもんね!」
「は、はい……いえ! ええ、まあ」
(どうして分かるの……! 確かに、こんな大荷物を持って少し怪しいかもしれないけれど)
ケイトが疑問を口にする前に、サクラはすたすたと歩きだした。
「じゃあこっち! 脱走するなら、玄関からではないわよね!」
さらに、今日召喚されたばかりだというのに、サクラはトランクケースを片手で持ちぐんぐんと階段を下っていく。
「すごい! ファンブックにあったエネシー城の図面とまったく同じ! 破けるほど読んでおいてよかった! あ、破けたのは悲しかったけど!」
ケイトには彼女が言っている意味がまったく理解できない。でも、この聖女様が王宮からの逃走に協力してくれようとしていることだけは分かった。
一階に到着したので、焦ってケイトは手すりに足をかけ、庭に降りようとする。でも裾の長いドレスではなかなかうまくいかない。
「ケイト様何を! こっち! こっちに普通のスロープがあるわよ!?」
四苦八苦していると、少し先に進んで廊下の様子を伺っていたサクラが叫ぶ。やはり声が大きい。でも下品ではなく、快活といった印象だ。
淑女たるもの、振る舞いは淑やかに、と教え込まれてきたケイトには彼女の立ち振る舞いがすべて新鮮で魅力的に見える。
そんなことを思いながら、ケイトは先に庭に降りスロープの下で差し出してくれるサクラの手を取った。彼女は、やはり片手で軽々とトランクケースを持っていた。
「聖女サクラ様、痛み入ります」
「庭のここら辺はあまり手入れがされていないみたいだから、気を付けてね」
「はい、本当にありがとうございます」
庭に足を降ろすと、パキッと音がする。ふかふかの雑草の感触に、ケイトの足元はヒール靴なので心もとない。しまった、ブーツを履いてくるべきだった、と思っていると、ふと思い出したようにサクラが怪訝な表情をした。
「ねえ。そういえばこの異常に重いトランクケースの中に何が入っているの?」
「はい、お気に入りの本が……」
何もかも協力してくれるサクラの姿勢に、ケイトは何の疑いもなく答える。すると、サクラの表情は一変した。
「えええええ! だめよ。これから逃げるんでしょう? 宝石とかドレスとか、換金できる金目の物を持ってこないと! ほら、一旦部屋に戻るわよ!」
サクラが大声を出しながら今来た道を戻ろうとするのを、ケイトは慌てて止めた。
「お待ちくださいませ、聖女サクラ様。今戻るわけには」
(今戻ったら、侍女のアリスがギルバート殿下と一緒に戻るところに鉢合わせしてしまうかもしれないわ)
焦ったケイトは続ける。
「それに、お金なら持っています」
「だめよ! だって逃走するんでしょう? ケイト様が安全に暮らすためには、いくらあっても足りないんだから! 早く戻ろう」
「……!」
サクラが言うことは確かに一理あった。ケイトが自由に動かせる範囲のお金なんて、たかが知れている。しばらくのホテル暮らしはできたとしても、その先は見えない。
(聖女サクラ様のおっしゃる通りだわ。細々と家庭教師をしたり、得意の刺繍を活かしてなんとか暮らしたいと思っていたけれど……私は世間知らず。きっと、お金はいくらあっても足りないわ。……でも)
ケイトの躊躇を見透かしたように、サクラは笑う。
「大丈夫よ! ヒーローなら、今国王と王太子を説得中。説得するつもりが逆に酒を飲まされまくって、朝になっちゃうんだから! 国王と王太子もギルバートのケイト様への気持ちを知っているから、からかって飲ませまくっちゃうのよねー。婚約解消なんてさせる気は皆無なのに! でも、ギルバートって、そういうところが推せる!」
また一気に饒舌になったサクラに、ケイトはぽかんとした。
(推せる)
それは、異世界が発祥の言葉である。ケイトは応援するとか尊さを分かち合いたいとかの意味で使っているけれど、ついネイティヴの発音を心の中で反芻してしまう。
(推せる、を除いては聖女サクラ様がおっしゃることの意味が分からないわ。でも、……サクラ様とギルバート様はもう気軽に名前を呼び合う仲。そして、私の部屋にはしばらく誰も来ない。ギルバート様と仲良くなられた聖女サクラ様がおっしゃるんだもの、間違いないわ)
「ほら、ついでにその動きにくそうなドレスも着替えて、靴も履き替えよう! そんなんじゃ、いいとこのお嬢様だってすぐにばれちゃうわよ!?」
サクラはなぜか嬉々としてもう階段を駆け上っている。生き生きとした表情はとても可愛らしくて、きっと彼女とならギルバートも会話を交わし、笑顔を見せてくれるのだろう。
苦しくて目が潤みそうになるのを堪えながら、ケイトはサクラに続いた。
ちなみにこの王宮では、ケイトの落胆はギルバートの不器用さゆえの、完全なる勘違いだということを知らない者はいない。――もちろん、ケイトを除いて、だが。