17・ベーカリー・スクラインへの来訪
「ミシャの町……ここにケイトがいるのか……」
「まだいらっしゃるとは決まっていませんが」
余計な一言を挟んだジョシュアをギルバートは睨む。
午後のお茶の時間を過ぎたころ。ギルバートは、数人のお供だけを連れてミシャの町を極秘で訪問した。
手元には、ケイトの手書きと思われる『ショーミキゲン』が書かれたパン屋の名刺。目的地は、すぐそこである。
◇
一方その頃、ケイトとサクラは商品が売り切れになった店内を掃除しているところだった。クライヴは配達、エリノアは仕入れに行っていて、ここにはケイトとサクラの二人きり。
髪が落ちないようにぴったりとした帽子をかぶり、真っ白なエプロンを身につけたサクラが言う。
「ねえ、ケイト。もうそろそろこの町にギルバート様が来ると思うんだけど、会っても名乗っちゃだめだからね」
「ギルバート様が……? まさかそんな。でも、サクラを探しに……って言うなら、十分ありうるわ」
ケイトはさりげなく自分の手首に目をやる。
(もし……ギルバート様がサクラを探しに来たとき、私がこんなものを身につけていてはいけないわ)
そして、彼に初めて貰ったブレスレットを外して大切にポケットにしまった。
「そういうんじゃないの! 初っ端からギルバート様にケイがケイトだってバレると、バッドエンドその1、『愛のない結婚生活』に行きつくのよ……! そのシナリオに進んじゃうと、ケイトはすぐに王宮に戻って結婚! 一見幸せなんだけどね!? ヒーローは拗らせたままだし、ケイトも彼からの愛を信じ切れなくて……結局は破滅! バッドエンド……!」
「……」
「そしたら、私、精神的に死ぬ。トラックにひかれた時よりも心が痛い。だから、その辺お願いします」
「……」
サクラがたまにおかしくなるのはいつものことなので、ケイトは特に気にしない。
というか、サクラによる『推し』の話はケイトにとっての恋愛小説だと思えば何もおかしくはなかった。
キラキラと目を輝かせるサクラに微笑んでから、ケイトは箒とちりとりを手に店の外を掃こうと扉を開ける。
ガラス扉につるされた鐘がカランと鳴って、通りの遠くの方から高貴そうな数人が歩いてくるのが見えた。
この町は王都に比較的近い。そのため、領地から王都に向かう貴族が立ち寄ることは決して少なくない。高貴そうな数人のことは気にも留めず、ケイトは店の周りの石畳をきれいに掃く。
小さな頃から労働を知らずに育ったケイトは、ここで与えられる仕事の全てが新鮮だった。
「この店に……ミルクブルーの髪をしたケイトという名の女性は……」
急に自分のことを問われたケイトは固まった。
彼には見覚えがある。……というか、自分がギルバートに会うときには大体側に控えていた側近で、面識があるという表現では足りすぎているほどの知り合いだ。
(ジョシュア様……どうしてここに……!)
彼がいるということは、ギルバートも近くにいるということにほかならない。ケイトは青くなって、目を泳がせた。
(さっきサクラが言っていた……じきにギルバート様が来る、って……合っているじゃない……!)
こつん、こつん、と靴の底が石畳を叩く音がする。
「……君は……!」
数秒も待たず、ジョシュアの後ろから颯爽と現れたのは、ケイトが今一番会いたくて会いたくない相手だった。
大柄な近衛騎士に囲まれてもなお目立つ長身。少しかすれたハスキーな声を聞くのは何日ぶりだろうか。
顔の下半分を隠し、変装していても分かる整った容姿は相変わらずのものだったけれど、惹き込まれそうに碧くて美しいはずの彼の瞳は、充血し疲れを感じさせた。
「私は……」
ケイトの目の前まで来たギルバートが、名乗ろうとしている。
今、ケイトは髪の毛を布で包み、エプロンをしている。侯爵令嬢として振る舞っていた頃からは想像できない、とても庶民的な姿だった。
しかも、ケイトの特徴のミルクブルーの髪は昨日エリノアによってプラチナブロンドに染め変えられたばかりである。
彼が躊躇しているように思えるのは、たった数日で、ここまでの変化を遂げたケイトに、確信が持てないのだろう。
ケイトは、ほんのコンマ数秒の間にちらりと店内のサクラの方に目をやる。彼女は目を輝かせてこちらを見ていた。……と同時に、首をぶんぶん振っている様子だ。名乗るな、という指示なのだろう。助けにはなってくれなさそうだった。
どうしよう、と思案するケイトの心の中に、さっきサクラが話していた『バッドエンドその1、愛のない結婚生活』が思い浮かぶ。と同時に、すれ違いから真実の愛を見つけられるという『ハピエン』のことも。
(もし……聖女であるサクラの予言が当たるなら……!)
彼女の未来を視る力を信じたケイトは、口をきゅっと結び直し、覚悟を決めた。
「私は、ケイ・スクラインです! そんな髪の人、知らないね!」
「「「……」」」
三人の間には微妙は空気が漂う。ケイトは身元を隠すために庶民的な言葉遣いを心掛けたはずが、なんだかおかしくなってしまったようだ。
「……私は、王国の騎士をしているモルダーと言います。ケイ嬢、あなたとお話しがしたいのですが」
ギルバートが身分を偽り違う名前を名乗ったので、ジョシュアは慌てて首元の布を引き上げた。ひょっとしなくても完全に手遅れである。けれど、ケイトはそれに気付かないふりをした。
(モルダーって……ギルバート様のミドルネームだわ)
エルネシア王国では、特に親しい間柄ではミドルネームを呼び合うという文化がある。それは、ケイトにとってずっと憧れで。うれしさに目線を上げると、ギルバートの美しい顔が映る。
――今日も、顔がいい。
(いけない)
ケイトは一瞬で我に返る。
「……私ですか。ごめんなさい。今、仕事中なんです」
「あなたの仕事が終わるまで待っていてもいいでしょうか。実は、このお店の新しい甘いパンを食べて……とてもおいしくて、王都から来たところなのです」
クロワッサン・ダマンドを作ったのがケイトだと信じて疑わないギルバートは、止まらない。
「あの上品なパンを、どんな人が作ったのかと。ぜひ、お話を」
(私が作ったアーモンドクリームをギルバート様が食べてくださって、しかもおいしいと言ってくださるなんて……! 夢みたい!!)
「ほ……本当ですか……」
冷静になって考えてみれば可笑しすぎるギルバートの言葉にケイトがたった数秒で陥落しかけたところで、カランと音がして背後の扉が開いた。
「パンは売り切れなんです! また明日来てください!」
鼻息荒く出てきたのはサクラだった。でも、瞳は爛々と輝いている。
「しかし、話ぐらい……」
「いーえ! 二人っきりのイベントは二回目からです! 今日は、この町で一番雰囲気のいいカフェがお休みだし! 明日! 明日にしましょう! ああっ。でも、ここでツーショットとお別れするのが惜しい! 悔しい! でも我慢!! はい、今日は解散、解散!!」
サクラが予言する『ハピエン』のことを思い出して我に返ったケイトも、続ける。
「……あ……と、とにかく、パンは売り切れです! また明日お越しくださいませ!」
がちゃん。
そうして、『ベーカリー・スクライン』の扉は閉ざされたのだった。