14・ギルバートのお話
◇◇◇
そこから、少し前のお話。
穏やかな午後の、春の風がペールグリーンのカーテンをはためかせる王宮のサロン。今日もギルバート・モルダー・ミットフォードの戦いは繰り広げられていた。
「……今日は何をしていたのだ」
「はい、王宮のパティシエと一緒にお菓子作りを」
「……そうか」
「殿下がお好きなアーモンドクリームパイを焼いてみました。一口サイズに切って食べやすくしましたので、執務の合間にお召し上がりくださいませ」
「……そこに置いておけ」
首を傾げ、にこりと微笑んで手作りのお菓子を差し出してくる婚約者の姿に、ギルバートは赤面しかけていた。いや、背後の側近・ジョシュアが笑いを堪えているのを見る限り、自分の顔はほぼ染まっているのだろう。
気がつかないのは、この模範的な淑女であるケイト・アンダーソンぐらいだ。
直接受け取ってしまうと、うっかり手を触りたくなってしまう。清廉な聖女に邪な気持ちを抱いたことを悟られたくなくて、ギルバートは奥歯を噛みしめ表情を崩さないように頑張っていた。
そうっとお菓子をテーブルに置いたケイトの姿は文句なく美しい。
(私のために、アーモンドクリームパイを焼いてくれたのか。もしかして、私の好物だと覚えていてくれたのだろうか)
可憐な婚約者の優しさに感動しつつ、ギルバートは完璧な仏頂面を保っていた。
「あの! それから、庭園に新しい花を植えたと聞いたので、それを見に行ってまいりました。これまでに見たことがない色合いと香りがとても素敵でしたわ。殿下も、今度ぜひご一緒に」
「……ああ、今度な」
(王宮の庭園に新しい花を植えるように命じたのはケイトのためなのだ……。ケイトは花が好きだ。エルネシアでは花束には特別な意味がある……きっと、私が贈っては引かれてしまう。せめて、庭園で愛でて欲しかった)
ということだったが、ギルバートは絶対に口に出さない。
ミルクブルーの髪と、キラキラと光る淡いグレーの瞳。透き通った彼女の瞳にはギルバートが映っていたが、彼女は微笑みをたたえたままどこか遠くを見ている気がした。
ケイトがよく見せる、いつもの表情である。
「どうした」
「いえ、あの……何でもございませんわ」
(また、拒まれてしまった)
いつもの仏頂面をキープしたまま、ギルバートは心の中でため息をついた。
自分がケイトに特別な感情を持っていることに気がついたのは、十二歳の頃だった。
それまでも、ケイトには好感を抱いていた。そのかわいい彼女が自分の婚約者ということに誇りを持っていたし、そのことを考えるだけで心が温かくなった。
でも、好ましく思っているはずなのにケイトを前にすると言葉が出ない。それどころか、つい意地悪なことを言いたくなってしまう。どうして自分はこんなにあまのじゃくなのだ。
十二歳のある日、ギルバートは『友人の話』と仮定して五歳年上のジョシュアにそのことを相談してみた。
すると、返ってきたのだ。『それは、好きな子をいじめたいとか意識しすぎて話せないといった類の幼い恋愛感情ではないでしょうか』という答えが。
まるで剣術の訓練中に頭を木刀で殴られたような衝撃である。
そのときのギルバートの表情があまりにも面白かったらしく、事の顛末はジョシュアから国王や兄である王太子へと光の速さで伝わった。『友人の話』のはずだったのになぜ、と思っても後の祭りである。
清廉で無垢な聖女であるケイトは、あらゆるものへの愛を持っているようだった。ギルバートと接していても、いつもニコニコと柔らかく微笑んで、時折遠くのほうへと思いを馳せる様子がある。
(きっと、今も民の平和を考えていたのだ)
エルネシア王国の聖女としてその役目を一身に背負うケイト。婚約者の身体が心配になったギルバートは、お茶の時間もそこそこに立ち上がった。
「疲れているなら部屋まで送らせよう。……ジョシュア!」
「はい、殿下」
視線で指示を出すと、ジョシュアは含み笑いで頷いた。ちっ、この男、と胸中で舌打ちをする間に、ケイトは美しい淑女の礼を見せてくれた。
「失礼いたします。また、お招きいただけますことを」
「ああ」
たおやかな微笑みを浮かべて部屋へと戻っていくケイトを見送りながら、ギルバートは改めて決意する。
――絶対に、婚約破棄なんてさせない、と。
あらゆるものへの深い愛を持つケイトは、自分から邪な感情を抱かれていると知ったら酷く怖がるのだろう。
(抱きしめたい、キスがしたい。そんな贅沢は言わない。ただ、手を繋ぎたい、あの柔らかな髪に触れたいだけなんだ……しかし、この感情を彼女に気づかれてはダメだ)
第二王子の婚約者と言えど、お妃教育は長いものとなる。ギルバートはその中で、夫との閨でのかかわりに関しては教えないように通達を出していた。
(ケイトが私のことを怖がって婚約解消を申し出たら……そんな恐ろしいこと、考えたくもない)
聖女以上に聖女にしか思えない愛しい婚約者から別れの言葉を引き出させないための戦いに明け暮れる日々。
そのギルバートの日常は、あっけない形で幕切れを迎えることとなる。