12・おいしく焼けました
エリノアに髪を染めてもらったケイトが厨房に戻ると、ちょうど開店の準備が済んだところだった。
店内の棚には焼き立てのバゲットが整然と並べられている。
ほかにも、形違いのバタール、クッペ、ブール、シャンピニヨン。王宮やアンダーソン侯爵家でなじみ深いパンたちが鎮座していた。
複雑なエピも形が整っていて、ぶっきらぼうに話すあのクライヴが作っているとは思えない美しさだ。
「今日のお店はいつにもましていい匂いがするねえ」
ケイトの後からお店に入ってきたエリノアはとてもうれしそうに笑う。
窓際の、一番目立つ位置にはサクラが焼いた『クロワッサン』、ケイト&サクラの合作の『クロワッサン・ダマンド』が並んでいた。
「……でしょう! ……って、ケイ、その髪色……!」
振り返ったサクラは、陳列していたトレーを落としそうになっている。それもそのはず、ケイトの髪色はプラチナブロンドに変わっていたからだ。
エリノアが言っていた通り、完全なブロンドにすることは無理だった。でもケイトの髪色は、日の光に当たるとうっすら水色が透けて見える程度のものに変えられた。これなら、ケイトのことをはじめから知らなければバレる心配はなさそうである。
「ばあちゃんにやってもらったのか。いいじゃん」
「ありがとう」
ケイトは答えながら、髪を一つ結びにまとめる。それを見つめるサクラの様子は案の定おかしい。
「ミルクブルーの髪もとってもキレイだったし、こんなのシナリオにはないけど……! でも、尊……!」
お店は開店した。
開店早々、エリノアとクライヴがお得意先に納品に行ってしまったので、ケイトとサクラはいきなり二人で店番を任されることになってしまった。
(商人の娘だと答えてしまった手前……不安な顔はできないわ……!)
開店して三分ほど。まだお客は来ない。ガチガチに緊張するケイトに、店番はお手のものといった様子のサクラが囁く。
「ねえ、ケイ。さっきのクロワッサン・ダマンド、まだ試食してなかったでしょう。一つ残してあるから、一緒に食べようよ」
サクラがカウンター下から取り出したのは、こんがりと良い色に焼けたクロワッサン・ダマンドだった。
さっきから店内に漂っている甘いアーモンドクリームの香りがさらに強く感じられて、ケイトは目を輝かせた。
「いいの? これ、売り物なのでは……」
「試食は当然でしょう? クライヴも太鼓判押してた! おいしいって! とにかく、お客さんが来ないうちに、早く」
よく見ると、クロワッサン・ダマンドは綺麗に半分にカットしてあった。サクラがケイトと一緒に食べるために試食を待っていたことが伺えて、ケイトは胸がじんわり温かくなる。
「ありがとう、サクラ」
「「いただきます!」」
二人は外に背を向け、一気にクロワッサン・ダマンドを口に放り込んだ。
「「……ほひひい!」」
「室温とかよく分かんなかったけど、ちゃんとサクサクに焼けてる! それよりも、このクリーム! もともと上品な甘さだったけど、焼くと外側のカリカリ感が加わってさらにおいしさがクラスアップしてる!! そして異世界のアーモンド!! 香りがめっちゃする! なにこれ、天然ものとかオーガニックとかそういう感じ!?」
「……ふふっ。本当においしい。私、こんなにバターの香りがしておいしいパン、食べたことないわ。王都の人にも、食べさせてあげたい」
やっぱり、サクラは『ハピエン』の話をしているときと同じぐらい饒舌になっている。それをニコニコ見つめながらクロワッサン・ダマンドを咀嚼するケイトの脳裏には、ギルバートの顔が浮かんでいた。
彼は、目の前でケイトが作ったお菓子を食べてくれたことはない。もしかしたら、側近のジョシュアにあげているのかもしれないと思ったことすらある。
(でも、これだけおいしいお菓子のようなパンなら……目の前で食べてくれるかもしれないわ)
しかし、もうそれは叶わないのだと思うと心が沈む。ケイトは、自分がもし次に彼に会うことがあるとしても、その時はもう婚約者ではない。婚約破棄なんて、絶対に嫌だったのに。
ケイトの手首には、ギルバートから初めて贈られたブレスレットが光る。本当は、これは身に着けていてはいけないし、サクラのことだって王宮へ送り届けなければいけない。
けれど、まだ勇気が出なかった。