断章 复仇(上)
これはまあ、読まなくてもいいです。
紅蛇は武術の国である。
1つの省ごとに数万を超える道場が存在しているとも言われている。
それだけ多く道場が集まると、彼らの統制を取ろうと、連盟が生まれる。
連盟によってその土地を仕切る道場が決められ、他の道場は色々と忖度を要求される事もある。
正直言って、利権を一部に集合させるための機関と言ってもいいほど、連盟の制度や方針には偏りがあった。
さて、そんな連中が業界を牛耳っているのだから、不満を抱く者も出る。
そもそもが格闘家、血の気が荒い者が多く、抗争が頻発するようになった。
良くも悪くも、格闘家たちの間に秩序を築き上げていた連盟の足元が崩れ出したことで、力ある道場が覇権を奪い合う乱世と化したのだ。
これまでの利権を守りたい有力道場は慌てた。
しかし今まで便宜を図ってもらってぬくぬく運営していた彼らは、自らの腐敗によって追い詰められることになった。
力のみが意味を持つ戦国の世に、彼らは適合できなかったのだ。
昼夜を問わぬ各勢力の襲撃によって連盟は崩壊しつつあった、その時。
連盟の本部にある格闘家が現れて、こう言った。
『私にも手伝わせていただけませんか?もちろん報酬などいりません』
格闘家には変わり者が多いので、不利な方に付こうという者は少なくないが、それにしても『悪玉』の連盟に加担しても得の無い状況である。
その男は他にも優秀な格闘家を何人か連れてきて、連盟本部の守護をさせた。
たった1つの条件を提示して。
『会長の警護だけは私にやらせていただきます』
彼が刺客である可能性を恐れた連盟側は当初拒否しようとしていたが、ちょうどこのタイミングで改革派による襲撃を数回ほど受けており、その恐怖から了承した。
それから3日後、改革派は連盟本部へ総力戦をしかけてきた。
男の連れてきた格闘家たちは目覚ましい活躍をしたが、さすがに多勢に無勢という事で敗走し、会長は本部からの脱出を余儀なくされた。
脱出の手引きをしたのは、例の男。会長を連れ、隠れ家へと逃げたという。
改革派は連盟本部を占拠後、新体制を樹立…するかと思いきや、これが意外に手こずっていた。
改革派とひとまとめにいっても、内情は多くの道場が集まって出来た寄合所帯。
下っ端同士の小競り合いを皮切りに、どの道場が主導権を握るかという内紛にまで発展し始めた。
すると、この分裂で改革派が弱体化したのを狙いすましたかのように、敗走したはずの連盟軍が戻ってきて、反撃を開始する。
圧倒的優勢で本拠地を占領していたはずの改革派は、その場で無残に屍を晒すこととなった。
そして2日後悠々と戻ってきた例の男は、部下たちに迎えられてこう言った。
『隠れ家を襲われ、私も力及ばず、会長は非業の死を遂げられました。
せめて我々がご意志を継ぎ、清く正しい運営を行っていきましょう』
結局のところ、連盟の本部である『羅刹寺』に残ったのは男の一派のみだった。
それから連盟は、その名を変えることになった。
『霊拳会』と。
「連盟会長だった祖父は殺されました。
お察しの通り、改革派にではありません。その男にです」
とある飯店の窓側席で、少年は言った。
「父は当時5歳でした。
身寄りを無くしたった1人でスラムを生き抜いてこられたのは、その男への恨みがあったからだと言っています。
僕もそうです。父が血を吐き散らして死にゆく姿を脳裏に焼き付けて、今日まで生きてきました」
相対する男は、何も言わぬ。
「……」
「生きてさえいれば、いつかあの男を殺すことができると…いつか裁きを下す日が来ると!
…ですがッ!」
テーブルを凄まじい力で叩く。手から血で滲み出る。
眼は猛烈な怒りに潤んでいた。
「その、人生をかけた望みはもう二度と叶わない!願うことさえ…ッ!」
荒く、熱い息を吐き出す。
「…霊拳会は壊滅した。ボスのツォンは…死んだようだな」
「気づいたんです!父や僕がずっと抱いてきた呪いは、ただの空想に過ぎない。
僕は今まで、いつかあの男の前に立つ日が来るんだろうって、何の保証もないのに都合よく考え続けてた!
でもほら、この通り!あの男は、僕の存在を知ることもなく死んでいった!」
少年の顔が、狂気の熱に火照り始める。
「もう時を待っている時間はないんです!
いつ『アイツ』が死ぬか分からないんです、今やらないと…」
「で、私にやらせる訳だな。その男の名は」
溢れ出る感情を押さえつけるように、歯ぎしりして言葉を留め、テンションをリセットした。
「連盟乗っ取りの作戦を立てたのは、暁青という男なのですが…彼はもう死んだと聞きました。
なのでもうなりふり構っていられません。とにかく殺してほしいのです。
作戦立案を受け、実際の指揮を執っていた人間を」
名前は分からないと言い、写真のみを渡した。
当時、一派で実質的な指揮権を握っていた者。
霊拳会成立後すぐ方針の違いで去ったが、半数の部下がついていこうとするほど、力のある者であった。
だが結局、その者についていく部下は1人もいなかった。
本人が『ついてくるな』と念押ししたからだ。
「なるほどな…いいだろう。始末してやる。
君は私の用意してやった宿で待っているがいい」
「…あなたは、祖父の仇に自ら手を下さず、人に頼む僕を、軽蔑しますか」
男は立ち上がり、眼を伏せて言った。
「引き受けたのは、私の拳士としてのエゴだ。
命ある限り、悪しき拳を砕き続ける。それが定めだからだ。
奴らの淀んだ血以外に、私は自らの拳を洗う手段を知らんよ」
六道獣形拳の継承者であるこの男が、誰にも知られぬ昏い闇を抱えていることなど、想像するに難くない。
狼青は、死ぬまで呪われた拳を振るうだろう。
七星省の大道場『爽明館』は、『霊拳会』の傘下ではないにも関わらず、官僚の子息が通うなど社会的信用・知名度ともに並々ならぬものがあった。
そのような道場が多々あったのには、そもそも霊拳会のボスであるツォンが利益に一切関心の無い人間であった事も要因だとされている。
「君ねぇ、本当に武術など必要かね、ウチの息子にぃ。
あの子はね、将来この国を動かす人間になるんだよぉ。
ちょっと野蛮じゃないのかねぇ、こういうものは」
「何を仰います県令閣下!武術というものはですね、敵を制圧する術を学ぶことで、不埒な曲者を返り討ちにするだけでなく、支配者としての心構えを養えるのです!」
髭をねじりながら椅子にふんぞり返る男と、揉み手して語る辮髪帽の男。
2人の視線は、目の前の庭に注がれている。
顔も体形も緩い少年と、道着の上からでも分かる逞しい筋肉を持つ青年。
彼らはこれから組み手を行う。演舞ではない、実戦である。
勝敗は明らかであるように見えた。
「さ、ご覧ください。剛、始めろ」
「はッ!」
逞しい青年が、腹の底に響くような気合いの声を上げる。
県令と呼ばれた男が、少しのけぞった。
「き、君ィ…!ウチの息子は初心者で…」
「何の心配もございませんよ」
辮髪帽の男…『爽明館』の館長が言った。
「せいィッ!」
青年が殴りかかる。
「うわっ」
少年はビクついて1歩下がる。
青年の拳が、その目の前で止まった。
「…あ」
少年が一瞬遅れて我に返り、眼前の拳に手を当てる。
「せ、せいやァーッ!」
裏返った声で叫びつつ、拳を押し返すような動きをした。
「ぐわああーッ!」
青年が膝をつき、大げさなほど激しく苦悶した。
「そこまでッ!」
館長が静止すると、少年は自らの父親へ自慢げに笑った。
「いかがです?奥様がお坊ちゃまをここに通わせてから、たった1週間です!
たった1週間でこれほどの実力をお付けになられたのは、ひとえにお坊ちゃまの才能によるものです!」
県令は眉間に皺を寄せる。
「ほう、才能があるのか?
では君の所ではなくても良いのではないかね?」
「あっ、そ、そうではなく!
その才能を最大限に生かすには、我が道場が最適だと申し上げたかったのです!」
訝しげな視線を向けつつも、悪い気はしていないようだ。
「しかしだね、相手は年上じゃないか。
手加減しているのかもしれんしなぁ…」
「なるほど、さすがは閣下、素晴らしき慎重さでございます!
それならばちょうど良い相手がございます、少々お待ちを」
満面に笑みを固定しつつ、庭の端の方に声を掛けた。
「優藍、お坊ちゃまのお相手をして差し上げろ!」
「…ひっ!あっ、すいません!」
突然声を掛けられて、優藍と呼ばれた少年が怯えた顔を見せつつ寄ってきた。
「なんだねその子供は?まるで浮浪児じゃないか」
そのひきつった表情とみすぼらしい服を、県令が不思議そうに眺める。
「あのバカッ…今日はあの服を着ていいと言っただろうが…!」
一瞬、館長の顔に怒りが浮かぶが、媚びた笑みで塗りつぶす。
「…さっ、お坊ちゃまは既に一試合終えられてお疲れの所かと存じますが、この優藍の相手をしてやってくださいませんでしょうか」
「へへへ、いいぞ!父上、見ててね!」
県令の息子は、とぼけた顔に残酷な闘志を漲らせた。
例の青年と向き合った時の、わずかな怯えさえも無い。
抵抗しない事を知っているからだ。
「では、始め!」
「とああああーッ!」
またもや裏返った掛け声で、今度は息子の方から飛びかかった。
「うわ、あ、ああ」
優藍は怯えて動かない。
拳が思い切り顔面に入った。
「ぶげっ!」
「っつ!?」
殴られた優藍は当然鼻血を出してうずくまるが、殴った息子の方も拳を抑えた。
殴った方も痛いという事を知らなかったらしい。
「…ってえな、このクズ!死ね!クソが!」
逆上して、優藍の背中を踏みつけまくった。
小さく呻くが、助けを求めたり『やめてよ』と言ったりはしない。
そのうち、無言ですすり泣き始めた。
「…そこまで、お坊ちゃま、そこまでです!」
見栄えが悪くなると判断したか、館長が止めに入る。
館長が間に飛び込んでくるまで、息子は優藍を蹴り続けた。
「はぁ、はぁ…み、見てくれた?父上!
僕の力、凄いでしょ!コイツ抵抗しやがって…」
息子の一方的な暴力に、県令はいたく感銘を受けたようだ。
「ううむ、しばらく見ないうちに勇敢になったな、光鵬よ!
よし、ウチの息子、確かに預けましたぞ、先生!」
「はいはい、お任せください!
剛よ、お坊ちゃまを頼む。私は閣下をお送りするから」
「はッ。お坊ちゃま、こちらへ」
先程の青年が、息子を誘導した。
その場には、ボロクズのように横たわる優藍のみが残った。
「……」
涙だけではない。口の周りは吐瀉物に塗れていた。
虚ろな目で空を見上げたが、腫れ上がった背中が痛み、すぐにうつ伏せになった。
「オラ、午後組ィ、修練の時間だぞ!」
「う~い」
「っす」
ガタイのいい連中が、庭に入ってくる。
「ゴミが落ちとるわ、片しとけや」
優藍を蹴りつけた。
「う、うぶ」
亀のようにひっくり返った彼を見て、男たちは顔をしかめた。
「うげっ、こいつゲロ吐いてんぞ!キッモッ!」
「きったねえなァ、靴に付いただろが!」
「テメェで掃除しとけよ、ゴミィ」
黙って頷き、よろめきながら裏口へ向かった。
優藍の住まいでもある裏口は、修練場である庭と小さな扉で隔てられていて、ちょっとしたスペースになっている。
そこが彼の生活の全てだった。
誰もいない寒い屋外で目覚め、雑用をせっせとこなし、日が暮れたらまた戻り、うずくまって寝る。
何も感じないように心を閉ざしても、閉ざしきれないのが人間である。
絶望の毒は確実に回り、彼を死に誘うことが時折あった。
もっとも、首を吊る縄さえ買えず、飛び降りられるような高所に行く自由もない。
無力な者には、『死を選ぶ』という最後の自由さえ許されないのだ。
(裏口に、誰かいる…?)
その気配は、単調な苦痛で死に始めていた彼の心を、わずかに動かした。
「あ、どうも」
「へ?」
そのスペースには、女がいた。
黒いチャイナドレスの上からコートを羽織った女。
「はい、私の名前は…隠します。
水を頂きたいです」
「水…あ、はい、ただいまお持ちします!
ごめんなさい、ちょっと入れ物が…アレなんですけど」
蛇口をひねり、普段自分が使っている汚いコップに水を汲む。
「そ、それで、あの…道場のお客様ですか?
裏口は今使用できません、恐れ入りますが…」
女はひらひらと手を振る。
「あ、違います。
私は、たまたま来ました」
「…へ?たまたま?」
女は頷き、抑揚の無い声で問うた。
「怪我してますね?痛そうです。
転びましたか?殴られましたか?」
「え。あ、ああ、転んで…」
「違います。あなたは殴られました」
「っ!」
図星を突かれ、眼を伏せる。
「ご覧になられていたんですね…」
今度は首を横に振った。
「いいえ、ここには今来ました。あなたの事は知りません」
「へ?そ、それじゃ…」
顔をぐいと近づける。
「傷の形と色で、原因が分かります。それは、格闘家の基本です」
「あ、格闘家の方ですか…?
でも、お客様ではないんですよね…」
「そうです。私はその理由を隠します」
明らかに普通ではない。優藍のこれまでの人生の中に存在しない種類の人間。
優藍の心臓が高鳴る。
それは世界が崩れ去る恐怖か、世界が変わる期待か。
「あ、あなたは一体…」
「復讐をしたいですか?」
「え…?」
「あなたを殴った人たちを、あなたは殴りたいですか?」
〈つづく〉
どうしようもない名鑑No.63【優藍】
爽明館の下働きをさせられている少年。
元は大きな企業の社長令息であったが、父親が事業で失敗し自殺、
以後粗雑に扱われるようになり、惨めな生活を送るようになる。




