4話 格好付け
フロスター家の敷地の外れには、国内のあらゆる技術研究の最先端、“久都大学”が存在した。参原圭の研究室は、そのキャンパス内。広大な敷地は、フロスター家の使用人の送迎で研究室に向かう巡流に、常に新鮮な景色を与え続ける。三日間続きでここを訪れている巡流の記憶にも、その全ての風景は焼き付き切らない。この敷地内の建物の数、交差する道、歩く人々。それら全てが、巡流の認識可能な範囲を軽く凌駕していた。
「──まるで一つの街、だね」
巡流は、想矢がここに来たとき初めて呟いた台詞をふと思い出して、口に出した。思えばあれから二年程経つ。
ところで、巡流は今日、一人でこの場を訪れていた。
“最強の人間”のプロジェクトでも重要顧問を務めていた参原は、人造人間科学の研究の最先端である。プロジェクトに反して失踪した想矢が、彼に会うわけにはいかないのだ。
巡流はタブレット端末で参原と協議する内容をチェックしながら、あの夜のことを──美咲・フロスターのことを考えていた。
彼女の岸辺四貴との会話の様子は、想矢が打ち払った銃弾──その一連の映像が、彼女の内心に大きく影響を与えていることを鮮明に伝えた。だが何より、彼女の身を冒している恐怖は、“撃ち払われた銃弾は、本来自分に当たるはずだった”という事実、即ち“死を目の前にした”ことに他ならないだろう。
人間は、知らず知らずのうちに死の隣を通り抜ける。
全ての事象において、人間が取る選択は“生存”を目標とするものだ。
例えば、人間が“駅のどこかにいる”という前提条件があったとき、“駅構内のコンビニ”、“改札の前”、“点字ブロックの内側”などという選択が取られていれば、その人間は“死”とはほとんど無縁と言える。
一方で、その選択が“電車の通り得る線路上”であれば、人間はその命を失う可能性がある。
さて、もしそれが“ホームの点字ブロックの外、線路際すれすれ”だったのなら。電車が来たとき、恐怖の風圧が人間を襲う。線路際に立っているのだから、当然だ。だがこの事実、見方を変えれば人間はほんの座標の違いで生存を“獲得した”と言えるのではないか。
生存の“選択”、そして“獲得”。これが人間の通常の生命活動であり、全ての行動の動機なのだ。
美咲は突然狙われた。意識の外から、唐突に、だ。そして美咲はそのとき、生存を選択し切れなかった。それは瞬間の出来事であり、選択の余地すら与えられなかったはずだ。それなのに、彼女は生存と死亡の狭間から、事実、“生存”を獲得できている。彼女の精神状態を混乱させる一因になっていたのは、自分の身が生死の境界を無理矢理行ったり来たりさせられすぎたことにあったのだろう。
参原圭の述べる、“生存”への論は、淡々と告げられた。
「参原先生、それは間違いないことだ。しかしまず──」
巡流は猜疑を顔面から剥がし取り、懸命に、笑顔を演じた。
「美咲さんが襲撃された一部始終を、なんであなたが知っているんですか?」
巡流が部屋に入ってすぐ、『美咲・フロスターの件は大変だったね』と言葉を投げかけたのは、参原ではなく、コンピュータのスピーカーだった。そして当の参原はというと、何の挨拶もなく、デスクでヘッドホンをしながら何やらオンラインゲームをしているのである。呆れる巡流を余所に、続けてスピーカーは、“美咲・フロスターは電車のホームの線路際にいたようなものである”という前述の持論をすらりすらりと展開した。
話し掛けることすら放棄する。
彼はただの変人だった。
暗くなったパソコンの画面に、巡流の姿が映り込む。彼はようやくデスクのパソコンを閉じ、悠々とヘッドホンを外した。
「トライドから聞いたのさ。華秀巡流くん、君のことも少し教えて貰ったよ。」
参原は和やかに語った。
巡流はその男を信用しかねた。美咲・フロスターへの被害があったことをトライドが簡単に関係のない人物に漏らすとは思えない。何か報告しなければならない理由があったのか、それとも他の経路で情報を得たのか──
「あー、ところで参原教授、私がお話ししたい本題は“クリエイテット・ステージ”の件でして。」
「ああ、わかっているとも。現状の、我々の考えを説明させて貰うよ。」
参原は、背もたれに身を任せ、足を組んで優雅に欠伸を一つ。
「クリエイテット・ステージというのは、一体どのようなものなのですか?」
もちろんある程度は知り得ているつもりであったが──巡流は試すように質問を投げた。
参原はどこか得意げに、話を始めた。その顔は、巡流の疑念を完全に見透かしているようだった。
──────────
跳谷遼は、不快感に苛まれていた。
彼の鼻孔を攻め立てるのは誰もを苦しめる春の悪魔、スギ花粉だ。彼は抗うことも出来ず、パソコンの前で鼻を啜る。
そして次に、彼の体をぎしりぎしりと蝕む痛みは、肩凝りだ。ここ数日、跳谷はひたすらデスクワークに取り組んでいた。パソコンを見つめ続ける彼の背中は、そのための形に固定化されてしまっていた。鉛のようになった蛋白質の塊を、遼はうざったそうに叩く。
「跳谷、報告書はできたか?」
気付くと上司がデスクの向こう側に立っていた。
「えっと、はい!確かこのフォルダに──」
上司の視線を気にしながら、送信すべき文書を捜す若者は、固い体を浮かせて──そして、突然の激痛に腰を押さえた。
「ガッ………」
ぴきり、という音が上司の耳にも届く。
「…どうした?」
遼は絞り出すような声で呟いた。
「…課長…ギックリ…腰です…。」
微妙な空気がオフィスを包む。
「間抜けだな。」
現れて自分を見下ろすのは、自分の疲労の最大の根源──最早その権化と言い切っても良いだろうか──その男が、立っていた。
「……何も言わずに、救急を呼べ、神羽…!」
跳谷遼は、そう言い残して、倒れた。
「彼の報告書は、私が代わりに出しておきます。」
正義は冷めた目でそう呟いた。
「ふむ、そうか?本人が、修正箇所がいくつかあるかも知れないと言っていたが。」
「それ含め、送信できるように致します。上層や現場陣には一刻も早く伝えなければならない内容ですので。」
「殊勝だな。任せたぞ。神羽。」
正義は遼のパソコンに向かった。ギックリ腰をぶっ噛まし、点いたまま置き去りにされた彼のパソコンを一瞥し、正義はふと画面端のメール受信ウィンドウに気付いた。
(かしゅう、じゅんりゅう──友人か?)
社内専用のパソコンだというのに、私的なメールをしているとは……。正義は小さなため息をつく。首を少し回して、正義は報告書の編集画面を開いた。
『反社会存在 ライル』
そういえば、この件の報告担当は跳谷である。正義は凄く怖い顔で文章を読み始めた。
──────────
一通りの相談と協議を終え、巡流は研究室を後にした。クリエイテット・ステージ。その正体は、人造人間達によるバトルアクション競技である。人造人間たちは、高い能力を駆使して、用意された敵対存在と戦い、民衆はそれを見て楽しむ。科学技術の進んだこの時代ならではのエンターテインメントと言えるだろう。
参原の企画は完璧で、だがどこか不可解な点を幾つも残していた。事ある毎に、彼は『我々の機密技術』という言葉を使った。協力者とはいえ一応は部外者の巡流には、零せぬ情報があるらしい。
巡流に与えられた仕事は意外にも多いようだった。クリエイテット・ステージという新たな文化を、果たして一般市民がどう受け止めているか。何より、どう楽しんで貰えているか。それを考えるのは参原達研究者ではなく、開催者の役割だ。まあ最も、巡流は本来、ただ美咲・フロスターの護衛依頼を受けていただけの一般人で、無関係の存在であったはずなのだが…。
だが巡流の本業は情報屋、だ。この競技が一般人に、そして人造人間にどのような印象を与えているか。その把握をすることだけは、れっきとした自分の仕事だと思っていた。
考え歩く最中、とんと、何かに肩が当たった。学生だ。
「ごめんなさい。」
巡流は軽く頭を下げてその場を通り過ぎようとする。
「あ、すみま…」
若者は巡流の顔を見て立ち止まった。思わず巡流も歩みを止める。
「あれ、もしかして、華秀巡流さんではないですか?」
「そうだけど…。君はここの学生さんかい?」
白衣を着たその学生はどうも大学の研究室に所属しているらしい。小柄で茶色の髪をしたその青年を、巡流はまじまじと眺めた。
「はい!参原教授の下で、人造人間科学を専攻してます。大代大介です。宜しくお願いします。」
「あ、うん。よろしくね。」
彼は丁寧にお辞儀をした。浮かび上がった顔の、その笑顔を見て──若いな。と25歳のオジサンは思った。
「えっと…なんで僕のことを知ってるのかな?」
そうである。巡流はその学生を初めて見た。このままでは何がどう、『宜しく』なのかわからない。ここらの界隈では、自分の名はよく知られているらしい。確かに研究専攻は人造人間科学だったが、俺は別にこの大学出身ではないし、有名な論文を残した訳でもない。情報屋が有名になるのって、ちょっとよろしくなくないか?と巡流は内心苦笑した。
「実は──あの、勿論、クリエイテット・ステージの件はご存じですよね?」
巡流は一時停止する。
「え、急にどうしたの?」
「実は僕、選手としてクリエイテット・ステージに出ているんです!」
驚いた。というかそんなことより、クリエイテットである彼の屈託のない笑顔に驚かされた。月息想矢以外の人造人間を知らない巡流は、クリエイテットはこんな表情をするものなのか、と感じた。(それほどまでに、想矢はクールなのであるが。)
「あ、そうなんだ。まあ僕は具体的にどんな競技内容なのかは詳しく知らないのだけど──是非頑張ってね!沢山の人を、楽しませてあげて欲しい。」
大介くんは、はにかみながら頷いた。
「というか、競技に出ている選手のこととかは、ご存じないんですね?」
「まあね。今まであんま興味なかったし、参原教授、詳しくは教えてくれなかったし。」
少し皮肉めいた口調に、大介は苦笑いをした。
「僕含め、既に70人が参加してます。──あ、ちなみに僕のアクションネームは、でぃーでぃー、だいすけ、です。応援してくださいね!」
d、d?というかまず、
「…ごめん、アクションネームって何?」
「この競技はアクションバトルが主です。そんで、その描写は、即時合成技術を使って、民衆に馴染み深いバトルゲームコンテンツに似せられてるんです。まあですので、この名前はオンラインゲームのアカウントネームのようなものなんです。」
「あー、なるほど、そうか君は──大代大介くん、漢字を音読みして、D、D、大介か!」
「あはは、格好付けちゃいました。」
民衆に受け入れて貰いやすいように、敢えて、スポーツとしてというよりゲームコンテンツに似せる、というのがこの国らしく、またこの時代らしいことだ。
「OK。君のこと、応援してるよ。」
巡流は手を振りながら彼の横を通り過ぎた。立ち話をしている場合ではない。巡流は腹が減っていたのだ。
「はい、ありがとうございます!」
溌剌な語調で大介は巡流を見送った。
若さとは明るさでもあるなぁ。巡流はその事実を痛感しながら、久都大学を後にした。
──────────
静かなオフィスに連絡通知音が鳴っている。誰かがすぐに応対した。
2分後、通信を切る音と共に、神羽の上司──特殊捜査課長の八木は、厳しい顔つきでこちらを向いた。
「神羽、うちの管轄下で通報があった。これはおそらく──」
悪い予感はあったのだ。上司が言い終わるより前に、神羽は外出記録を付けようとしていた。
「目撃者によると、王貢寺駅近くの雑居ビル路地裏、怪しげな男が何らかの金属部品を所持していたのだが──」
神羽は上着を着る、腕時計を身に付ける。
「フードとマントを羽織った男に弾き飛ばされ、意識不明、だそうだ。」
「……なるほど。」
ライルだ。そうに違いない。そしてそうであるならば、正義の予感は当たったことになる。まだ詳しい情報がわからない今でも、正義はライルの存在を明らかな脅威と考えていた。
だが例えこの件の詳細が不明でも、正義には確信していることがある。奴は本当に、愚かしくも、“正義の味方”として活動しているのだ。だから奴は路地裏で発見されたその男が、“正義に反した何か”であると認定した。
それ故の、制裁。
同じだ。いつもの自分の判断と、全く同じだと思った。
だからこそ正義は違和感を覚えた。
「…奴は、『人間は人間を裁けない』と言った。」
正義の突然の独り言に、八木は、は?と疑問の声を上げる。
「俺は──奴の答えを──」
言葉は続かない。神羽は即座にエレベータへと向かった。