アルカディアの31
そのバーには客がいなかった。
正確には二人しかいなかった。その二人も無言でグラスを傾けている現状、店内に人の声は一切聞こえなかった。
普段雇われて来ているピアニストもおらず、正真正銘の静寂がそこにはあった。
しかし静寂は突然開かれた扉によって破られる。
バーのマスターはそのモノクル越しに入ってきた二人を見て言った。
「すみません本日は貸切でして……看板は立てておいたと思ったのですが」
「ほんとに?それはごめんなさい。でも折角来たんだから少しくらい飲ませてもらえない?」
「申し訳ありませんが……」
「そう堅いこと言わないでよ」
二人のうち良く喋る女性は無遠慮にもすでに座っていた二人の隣に勝手に腰掛けた。
男のほうも皿にその隣に腰掛ける。
「お客様、困ります」
「だって勿体無いわこんな素敵なお店、恋人でもない女と一緒に来る人に独占させとくのは、ねぇブルーノさん?」
女性――ラフィ――の問いかけに、座っていたブルーノは答えなかった。
答えずにグラスを一気に空にした。
ラフィは無視されたことは毛ほども気にせず、今度はブルーノの隣にいる彼女に声をかけた。
「それにしても、あなたが一緒にいるのは予想して無かったわねナディヤ」
「……ブルーノさんがここにいるのは知ってたんですね」
「ええ、日記によるとブルーノさんがバーに来てた曜日はいつも同じだったらしいから、きっと今日もいるんじゃないかってね」
「日記?」
「フィリーネの日記だ」
リュージが口を開いた。
フィリーネの名前がでた途端にブルーノが乱暴にグラスを机に置く。
「……勝手に調べたのは悪かった。でもおかげであんたとフィリーネに繋がりはしっかり確かめさせてもらったぜ」
「ていうか酷いわマスター!私最初にここに来たときにブルーノさんのこと知らないって聞いたじゃない」
「すみません、あまり勝手にお客さんのことを話すのは気が引けたもので」
マスターは悪びれずに笑ってグラスを拭いていた。
ブルーノはそんなマスターに手で追い払うしぐさをする。
マスターは一瞬で理解したふうに、店の奥に消えていった。
「……何の用だ」
「無駄話は好きじゃないから単刀直入に聞く。なんでフィリーネを助けに行かない?」
「……」
「イナセから……フィリーネと一緒に住んでた奴から聞いた。ここ二週間はほぼ毎日会ってたってな。だったらフィリーネが盗みを働く時間が無かったことはお前が一番良く分かってるだろ」
「……」
「何とか言ったらどうだ?」
「リュージさんそれは――」
「何も言うなナディヤ、俺から話す」
反論しようと立ち上がったナディヤを手で制して、ブルーノはグラスを置いた。
「あいつを助けに行かない理由は簡単だ。世間体が悪いからだよ」
「なに?」
「俺はアルカディアでも有数の会社の社長で、もっと言えば明日には見合いを控えてる。こんな状況で生活の大半を商売女と過ごしていたと分かってみろ、どうなると思う?」
「……心の底からしょうもない理由ね」
「ああしょうもなくてつまらなくてゴミくずみたいな理由だ。だが世間はそのゴミくずを中心に回ってるんだよ。だから俺は今あいつとの関係を明らかにするわけにはいかない」
「……このままじゃフィリーネは無実の罪で監獄行きよ?」
「だとしてもだ」
「もう、会えないかも知れないのよ?」
「だと、してもだ……」
あくまで淡々と述べていくブルーノ。
だがリュージは彼から冷徹さといえるものを感じられなかった。
かみ締めた唇から血を滴らせている男は、この場の誰よりも辛そうだった。
それを理解したうえで、ラフィはブルーノに対する止めとでもいえる言葉を放った。
「新しい命が消えてしまうとしても?」
「……は?おい、何を言って――っ!?」
その言葉の意味に気づいたブルーノが顔色を変える。
おそらくあたっているその予想は、次のラフィの言葉で確信に変わった。
「まだ三週間くらいだと思うけどね」
誰の、なんて聞かれなくても一番良く分かってるのは本人だろう。
何とか保っていた冷静さをかなぐり捨てて動揺を露にするブルーノ。
手は震え呼吸も荒い。
その姿にリュージもブルーノが抱える葛藤の深さを見た。
「ブルーノ、お前が何にそんなに迷ってるのかは知らねえ。でもこのままじゃお前が一生後悔することになることくらい俺にだってわかるぞ」
「……うぅ、あ、ああ」
「他の何捨ててでも守らなきゃいけないものがあるんじゃないのか」
「あ、ぐ、あああああ!!」
ブルーノは絶叫しながら立ち上がった。
勢いのまま後ろに倒れる椅子に気を配る暇も無く叫んだ。
そのまま喉も裂けてしまえばいいと言わんばかりに、絶叫した。
「俺だって何も考えずに選択したわけじゃないんだ!守りたいよ!ずっと、今だって!」
顔は苦しみにゆがめられていた。
「でも今回の見合い相手はうちの一番大きな取引先なんだ!俺の軽はずみな行動で!思いで!台無しにしちゃいけないんだ」
まるで一言一言が自傷行為であるかのように、その痛みをごまかすかのようにブルーノは頭を掻き毟った。
「俺は会社のトップなんだよ!!俺の行動に何人もの生活がかかってるんだ!だったら仕方ないだろ!」
<P BR>
そこまで一息に叫び続けたブルーノは息が切れたのか、それともその先が言いたくないのか。
それでも最後にはポツリと、注意していなければ聞こえないような音量で零した。
「どっちかしか取れないなら、選ぶしか、ないじゃないか」
ブルーノはそれだけ言うとふらふらとした足取りで出口へと向かっていった。
哀愁漂う背中を引き止められる者は誰もいない。
「……何だ、俺も同じか」
出て行く直前に聞こえたその呟きは細くて小さいにも関わらずその場にいた全員に届いた。
気まずさとも重苦しさとも違う何かが場を満たしたせいで誰も口を開けなかった。
いち早く立ち直ったのはラフィだった。
彼女は恨みがましさを含んだ目でリュージを見ながら開口一番こう言った。
「なーんで勝手に喋り始めちゃうかな、先に話すのは私って言ってでしょ」
「……悪い、つい」
「まぁ良いわ。少しは予想してたことだし……そんなにたいしたこと聞くつもりも無かったから」
逆に言えば小さなことは聞くつもりだったということで、それを邪魔してしまったことに対する申し訳なさがリュージの胸中を占める。
分かってはいた。来て早々あんなことを聞けば気分を害して帰ってしまうことくらい。
それでも言わずにはいられなかったのだ。自己犠牲を厭わずに牢屋の中にいるフィリーネのことを思うと言わずには――。
「ま、後悔してもしょうがないわ」
「ほんとに悪かった……でも、最後のはどういう意味だったんだろうな。『俺も同じか』って――」
「多分親方の、オットナーさんのことを思い出してたんですよ」
眼鏡を机に置く音に目を向ければナディヤが瞑目していた。
「懐かしいな。あの頃はただ図面に線を引いて、皆で意見を出し合って、それだけで良かった。それだけで幸せだった」
口元に笑みをたたえるナディヤ。そのまぶたの裏に在りし日の思い出が浮かんでいるのは明白だった。
何も考えずとも自然と言葉が出てくるようにナディヤの語りは続く。
「オットナーさんはただ会社を、私たちを守ろうとしただけだったんです。ブルーノさんだってそれは分かってた……アルカディアに住む人たちは皆あの二人は決別したんだって言います」
かつて最強のコンビだった二人はもう二度と手を取り合わない。
それがこの都市に住んでいる者共通の見解だ。それは邂逅の場面を一度しか見ていないリュージにすらそう思えるほどだ。
ただ一人を除いては。
「あの二人が本心から憎みあえるわけ無いんです」
ずっと見ていたから知っている。
「あの二人が互いを捨てられるわけ無いんです」
ずっと憧れていたから知っている。
「ただ少し守るものが大きくなって、どうしたらいいか分からなかっただけなんですよ。本当にあの二人は昔から……不器用だから……」
失われたあの場所が、どんなものよりも大事だったから知っている。
声を殺して泣き続けるナディヤは、ラフィから差し出されたハンカチを無言で受け取った。
そこには出来る女然とした彼女の姿は無く、家族を失った心細さを十年越しに吐き出した弱い人間だいるばかりだった。
「……はぁ、ごめんなさい。今日はそんなに飲んでないはずなんですけど」
「構わないわ。辛くなっちゃうのに年齢なんて関係ないもの」
「こんな時に悪いんだが、ブルーノとは何の話を?」
「それは――」
「もしかしてフィリーネのことを話してたんじゃないの?」
「……そうですか、お二人とも知ってるんですね」
「てことはお前も――」
「ブルーノさんが女性関係で相談できるのなんて私くらいですから、サプライズを考えるのを手伝ったり、買ったプレゼントを預かってくれと頼まれたり……だから今回のことも信じられないんです。あの子にそんなことをする理由なんて何も無いはずなのに……」
眉間にしわがよっている顔しか見ていない身としては想像できない話だ。
二人がお互いに心底惚れあっていたのは間違いないんだろう。だとすればその繋がりさえ見捨てる選択をしたブルーノが内心どれだけの苦悩を抱えているのか想像も出来なかった。
だからといって彼の決断を肯定するつもりは無いが。
「どうするラフィ?当の本人が行っちまったんじゃ、出直すしかねえか」
「……」
「ラフィ?」
「そんな時間は無いわよ。だって今日中に何とかしないといけなかったわけだし」
「は?」
「騎士団とねぇ、交渉したときにあんまりにも渋るもんだから言っちゃったのよ。明日までに犯人連れてくるって」
「……お前、なんで今更そんな――」
確かに可笑しいと思っていたのだ。
いつもならばラフィは誰よりも飄々とした態度で物事に臨む。にも関わらず今回の件については焦りが見えたし、何よりやり方がいつも以上に強引だった。
それは全て彼女だけが知っているタイムリミットの存在のせいだったらしい。
「何で言わねえんだそんな大事なこと」
「下手に焦らせたくなかったのよ。あなたはともかくヴィートは急かされて能力が上がるタイプじゃなさそうだし」
「……まぁそれについては同意だが」
むしろ焦りすぎて先走って悲鳴を上げる事態になるところまで容易に想像できる。
「くそ!だったら今からでも追いかけて――」
「その必要は無いわ」
「なに言ってんだ。今からじゃないと間に合わねえ」
「だから!その必要はなくなったって言ってんの。話聞きなさいったら!」
「必要ないって……どういう意味だよ」
「とりあえずナディヤに聞きたいことがあるんだけど、フィリーネのことを知っていたのは本人とあなただけ?」
「ええ……あとここのマスターも知ってますけど」
「誰にも話したことは無い?」
「勿論!家族にだって話してません」
「……あともう一つ、これは知らなかったら構わないんだけど――」
ラフィが一つの質問をする。
その問いにどんな意味があるのかも分からないまま、ナディヤは困惑しながら答えた。
答えを聞いたラフィが何かを確信したように勝気な笑みを浮かべる。
続けざまにリュージもラフィの質問の意味を察した。
「おいそれってまさか――」
「ええ。そういうことじゃない?」
二人の会話の意味がまるで分からないナディヤに、ラフィは勝気な笑みを消して神妙な顔で言った。
「ナディヤ、私たちはブルーノとフィリーネを助けたいの。そのために手伝って欲しいことがあるわ……でも多分あなたにとっては辛いことになる。でも協力してほしいの」
その言葉には確かな重みがあった。
真相を求めた先の不幸が何かナディヤには分からなかったが、それでもナディヤは頷いた。
かつての仲間たちを、その幸せを願うために。




