アルカディアの28
……月――日
とうとう来てしまった。自分自身で選んだこととはいえ後悔がないかと言われるともちろんある。
私だって家族みんなでずっと一緒に居たかったし、小さい兄弟たちを残していくのはいやだ。すごくいやだ。
入口であったおばあさんはすぐに慣れるって言って笑ってたけど、慣れたくなんかない。
一週間は働かなくていいって言われた。つまりはその間に精々覚悟をしてろってことだろう。
今からでも帰りたい。帰りたいよ。
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――月……日
三日経った。今のところは何事もなく過ごしている。ご近所さん――って言っていいのかどうか分からないけど――とは口も利かない。みんな私を見ると悲しそうな顔でそそくさと逃げていく。いったい何だって言うんだろう。
それから町の人とも少しずつ交流を持ってみることにした。
最初はこんな職業の私が受け入れられるのか心配だったけど、買い物がてらさりげなくお店のおばさんに聞いてみたら、アルカディアでは建築関係者の次にそういう人が多いらしいので気にしていたら商売ができないって言ってた。一安心だ。
あと何で多いんだろうって思ってたら後ろにいたおじさんが「そりゃ男も女もみんな体で稼ぐっていう意味で気が合うんじゃねえか?」って言いながら大笑いしておばさんに殴られてた。
おばさんのこっちを見る目には憐れみみたいなものがあって、多分全部気付かれてたんだなってその時わかった。
急に恥ずかしくなって逃げるみたいに帰ってきてしまった。今度会ったら謝ろう。
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#月♭日
明日で一週間がたってしまう。
さっき部屋におばあさんがやってきて、明日から働いてもらうこと、早速客が見つかったことを告げられた。できれば一生聞きたくなかった言葉に体の震えが抑えられない。
ベッドから出る気になれずこの日記もそこで書いてる。
何でこんなことになってしまったんだろう。後悔と恐怖でどうにかなってしまいそうだ。
こんなことになるくらいなら、さっさと初恋くらい済ませてやることやっとくんだったかな。
……ダメだ。冗談を書く気にもなれない。
それに私をここに連れてきた奴が言ってた。容姿が人並みな私がこんなに高く買い取られたのは経験がないからだって、そうじゃなくちゃ家の借金は返せなかったって――。
そう家、家だ。
みんなは元気なのかな。
お母さんが死んじゃったからもう治療にかかるお金はない。
妹たちも運がいいと言っていいのか分からないけど食が細いのばっかりだ。
きっとお父さんの給料だけでも生きていけるだろう。
そう、皆が生きている。私がどうなっても、皆は生きているんだ。
ちょっとだけ落ち着いた。怖くて怖くて堪らないけど、それでも私の行いに意味があったのだと思えるから。
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●月□日(前の日記から一週間後)
久しぶりにこの日記を開いた。ていうかここに帰ってくるのが一週間ぶりなんだけどね。
この一週間の出来事はきっと一生忘れられない。
ううん、きっとじゃない。絶対に。
一週間前のあの日ボロボロで道端に捨てられた私に手を差し伸べてたくれたあの人のことを忘れるなんてできるわけがない。
どん底の底の底くらいまで落ちても光が見える時があるんだって、あの人が教えてくれたから。
もう会うこともないだろうけどね。でもいいんだ。
こんな身の丈に合わない幸せを知れただけで満足、これからも生きていこうって、そう思える。
とりあえず明日からがんばろう。生きていくためにも。
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▽月△日
おばあさんに呼び出された。お客さんが来たのかと緊張しながら行くとそうじゃなかった。
もう働かなくていいって言われた。
流石に最初は焦った。冷静に考えると一週間なんの説明もなしで帰ってこなかったのだ。クビになって当然だ。しかしここを追い出されていく当てなんかない。
必死に頭を下げる私におばあさんがから伝えられたのは予想外すぎる言葉だった。
なんと私のパトロンになってくれる人が現れたらしい。お金も結構な金額を前払いでもらったって言ってた。
まるで心当たりがない、喜ぼうにも不気味さの方が勝ってしまって喜べない。
おばあさんから行き先が書かれた地図をもらった。明日いかないといけないんだって……。
不安でしか無いけど無視するわけにはいかない。そんなことしたら今度こそ追い出されてしまう。
ああ、恐いなぁ。
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☆月★日
信じられない――大量に落ちた水滴のせいでページが滲んでいて後はよく見えない――
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(日付不明)
数年触って無かったからこの日記のことをすっかり忘れてた。だって格暇がないくらいにひびが充実してるんだもの
最近はとても不安な気持ちになる。こんな幸せに過ごしててもいいのかなって。
ここに来た時もう自分が幸せな人生を送るなんて想像もしてなかった。
ただ家族の幸せのために、自分の人生を捨てたとしか思ってなかった。世界でいちばん不幸にでもなったつもりだった。
でも今は違う、世界で一番幸運な自信だってある。
だからこの日記に何かを書き込むことはもうないかもしれない。
もともとこれはどれだけ辛い境遇に置かれても正気で入れるようにって書いてたから、もう必要ないもんね。
今日はあの人が見つけたバーに行くの。モノクルの似合うおじいさんがやってるエールのおいしいお店なんだって、行ってきます。
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+月+日(約一年前)
もう書かないって書いてたけど、今度こそ今日で最後のつもり。
最近はあんまりあの人に会えない。
理由は分かっている。あの人に縁談が来たんだって。
そりゃそうよね、立場が立場だし、いつかはこう言う日が来るって分かってたわ。
マスターはそんなこと関係ないから今すぐプロポーズするべきだって言ってくれるけど、そんなことしたらあの人の迷惑になってしまう。
だって所詮私はあの人のお気に入りでしかないんだもの。
人生を共にするなら、あの人にはもっと相応しい人がいるわ。
マスターは珍しく声を荒げてまで私を説得しようとしたけど、もういいの、決めたことだから。
この五年間信じられないくらい幸せだった。私はもうすぐ捨てられてしまうんだろうけど構わない。
もしもまた孤独に沈むとしても、あの人が生きていてくれるなら私はそれだけでいい。
それにもう一人じゃないしね。
そうそう、私の部屋に同居人が増えた。
この都市に来た時の私とそっくりな目をした、でも私とは違ってとっても可愛い女の子。
あの人が私に光を見せてくれたように、今度は私が教えてあげられたらいいな。
この世界にはきっと暗闇だけじゃないんだって。
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最後のページに落ちていく滴が文字を滲ませた。
リュージは黙って背を向けた。
きっとこの少女は見られるのを嫌がるだろうから。
「いつも、いつも平気そうな顔して出かけてたのに」
「……」
「バカだよ……あいつはバカだよ、去年からずっとこんな辛い思いしてたのに、アタシに構ってる暇なんてねぇだろうが」
「それくらい、大事に思ってたんじゃねえのか」
何がとは言わない。
イナセはそれには返事をせずに目を擦ると、日記を閉じた。
見つけた物はできる限り持ち帰れとラフィに言われていたが、これは持っていって良いものではないだろう。
元の場所にしまい直すイナセにリュージは何も言わなかった。
それに、知った方がいいことはもう分かったはずだ。書いてあることが全て事実ならフィリーネの相手と言うのはおそらく――。
「行こう、もうここには何もねえだろ」
「うん」
「……残りたかったら、残っててもいいんだぞ」
「余計なこと気にすんなよ、平気だ」
「そうか、しかしどうするか、こんなに早く終わるとは思ってなかったしもう宿に戻るか」
「流石に姐さんもヴィートも帰ってねぇだろうな……けど無駄な時間過ごすよりは待ってた方がいい、の――」
「イナセ?」
突然イナセの言葉が途切れた。
見るとイナセは窓からある一点を見つめて愕然としていた。
それは建物の裏手にある別のビルとビルの間、その隙間に一人の男がいた。
これと言って特徴のないその姿に、イナセは過剰に反応していた。
リュージは知らないだろうが、それは何度かフィリーネを迎えに来たことがある『あの人』だった。
「あの野郎、どの面下げて――」
「おいイナセ?どうしたんだ」
「予定変更だぜ旦那、先に帰っててくれ、やることができた」
「何するつもりだ、それによっちゃ行かせられねえぞ」
「聞きたいことがあるだけだ、手荒なことはするけどそこまで酷いことはしねぇから」
「答えになってねえぞ」
イナセは問答している時間も惜しいと窓を開け放った。
「おい!」
「すぐに戻るから!約束する!」
言いたいことだけ勝手に言い終えるとイナセは開けた窓から、外に飛び出した。
当然そこは四階の高さだ。
慌ててリュージが窓から身を乗り出すと、くるくると回転しながら綺麗に地面に着地したイナセの姿が見えた。
「……あのバカ」
突然降ってきた少女に驚いて逃げ出す男を追いかけていくイナセを見てリュージは額に手を当てた。
みるみる遠くなっていく背中にリュージは見慣れないものを見た。
さっきまでは正面から向き合う形になっていたので見えていなかったが、イナセのベルトには細長い棒のようなものが引っかけてあった。
ちょうど、リュージの肘から先くらいの長さだ。
朱塗りに艶めくそれをリュージは見たことがある。
それもこっちの世界ではなく――
「あれは――」
その先を口にするよりも前に、リュージの耳にガラスの割れる音が飛び込んできた。
少し遠いその音は、どうやらリュージが今いる建物の一階から聞こえていた。
リュージは一気に警戒心を高めて部屋から飛び出すと、階段を駆け下りていく。
フロントへたどり着いたリュージが見たのは頭から血を流す老婆と、傍らに立つ四人の男たちだった。
「ああ?んだテメ――」
その男たちが手にする刃渡りの大きいナイフを見た瞬間、リュージは動きだした。
こっちを威嚇しようとしている男に一気に肉薄すると、そいつが反応を返すよりも先に鼻っ柱に拳を叩きこむ。
叩き込まれた男は吹き飛んで壁にぶつかって気を失った。
「なん――」
三人の男たちが咄嗟に吹き飛ばされた男を見てしまった時には、二人目の即答部にリュージの爪先が直撃していた。
白目を剥いて崩れ落ちる男を尻目に、ようやく振り返った三人目の頭を掴んで手近な壁に顔面から叩きつける。
筆で擦ったような血痕を残しながら、三人目は崩れ落ちて行った。
「な、な、なぁ!?」
残った一人がガタガタと震えながら必死にナイフを向けているのを無視して、リュージは老婆の様子を確かめた。
そして怪我が浅いこと、気を失っているだけだということに気づくとほっとした様子で立ち上がった。
「背中から切りかかってこねえとは、見上げた野郎だな」
違う、明らかに隙がなかっただけだ。
背中を向けているにも関わらず、男の脳内には攻撃したら叩きのめされるという未来しか見えなかった。
「お前、フィリーネを襲った奴と関係があるな」
「し、知らねえ!」
「下手な嘘は止めろ、あいつ等と同じ匂いがするぜ、犯罪に慣れてる奴の匂いだ」
「知らねえっつってんだろ!」
「……悪いが悠長におしゃべりしてやる気はねえ、話さねえなら話したくなるようにしてやる」
人とは思えない相貌で右手の関節を鳴らしながら近づいてくるリュージに、男の反抗心はぽっきりと折れた。
しかし喋ることもできない、となると残された道は一つしか無い。
「ひ、ひぃぃ!!」
男は全身全霊で脇目も振らずに逃げだした。
「待ちやがれ!!」
大音声を響かせながらリュージは逃げる男を追いかけた。
どうやら一番の当たりを引いてしまったことに気づきながら。




