アルカディアの19
灰色の分厚い雲が頭上を覆っている、小一時間待てば雨が降り始める空模様だ。傘を持ってこずに出かけてきた主婦たちはそそくさと家に向かい、商売人は今日の売上を思って溜息をつく、そんなありふれた日常の一コマのなか、一人の少年が全力で走り回っていた。
帰路を急ぐ人たちにぶつかりながら、時には文句を言われながら、それを気にする余裕もないのか、少年は通りを駆けまわる。
この辺りの人間は、少年の顔をよく知っていた。何せもう十日はこの辺りをうろうろしている、八百屋の店主が気さくに声をかけた。
「おう、ブロックスの兄ちゃんじゃねえか、そんなに急いで、今日もお仕事かい?」
「おじさん!聞きたいことがあるんですけど!」
「何だい、変わったことなら相変わらず、親方の頭がおかしくなったこと以外ないぞ?」
「そうじゃなくて、このくらいの身長で、顔が半分見えないくらい帽子を深く被ってる女の子見ませんでした!?」
「んん……いやぁ、この辺は通りかかってねえと思うな、今朝は天気も良くなくて人通りも少ないから、そんな変なのがいたら気づくだろうし」
「そうですか……ありがとうございます!」
「おおい!待て!」
頭を下げて再び道を行こうとする少年を、八百屋の店主は呼びとめた焦れったそうに振り返った少年のもとに、一つの傘が飛んできた。
片手で受け取って顔を上げると、八百屋の店主が鼻の下を擦りながら笑っていた。
「これから多分降るからよ、用事があるんだったら使いな!その辺で捨てていいから!風邪ひくと良くねえぞ」
「……ありがとうございます!」
受けた好意に感謝しつつ、ヴィート・マッシは行き先も分からないまま走り続けた。その道の先に探している女の子がいればいいのにと、祈るような気持ちで――。
探している少女が、今自分がいた八百屋の屋根から自分を見下ろしているとも知らずに……。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
住宅街の一角にある公園、流石は建築都市といったところで、遊具でさえ他では見られないようなサイズのものばかりだ。五、六メートルは高さがありそうなドーム型の滑り台、ドーム部分は空洞で中に入れるようになっている。それを見上げながら、リュージはベンチで休んでいた。
一滴だけ空から落ちてきた滴が、リュージの額に落ちた。それを気にもせず空を仰いでいると、隣に腰かけるラフィが雲の流れを見て、
「これ、すぐに土砂降りになるわね、多分通り雨だけど」
「そうか、やっぱり引き留めるべきだったか」
誰をとはわざわざ言わない、今頃都市を駆けまわって一人の少女を探している少年のことだと、言葉にする必要すらない。
ヴィートがリュージの制止も聞かずに飛び出して、もう二時間近く経つ、このままでは帰ってくるときには濡れ鼠一直線だ。
「じっとしてても納得できないんでしょ、濡れて頭冷やすのも手よ」
「風邪ひくぞ、まだそんなに暖かいわけでもなし」
「おっと?私を誰だと思ってるの、風邪なんて引かせないわよ」
ラフィは心外だとばかりに顔を顰めて立ち上がった。
普段通りの足取りで、ラフィが向かう先は正面の巨大滑り台、どうやらドームの中で雨を凌ぐ魂胆らしい。
「……お前は落ち着いてるな」
ボソッと言い放ってから、これではまるで皮肉だとリュージは口を押さえた。あまりにラフィがいつもどおりだから、つい口を衝いてしまったのだ。
「別に全くショック受けてないって訳じゃないけどね……なんとなく、こうなるかもなって思ってただけよ、あなたもそうなんじゃないの?」
言外に、お前も十分落ち着いているだろうと皮肉を返されたリュージは、言葉もなく肩をすくめた。
実際ラフィの言う通りだった。この展開を予想できなかったわけではない。
初めて会った時から、ほぼ毎晩一緒にいても、それでも変わらないものがあった。
――イナセの瞳に見えた薄暗いものだ。
孤独、猜疑、憤懣、如何なる単語を駆使しても形容しきれない何かが、イナセの内にはあった。あるように、見えた。
だからだろうか、心のどこかではこんな結末を迎えるのではないかと、半ば確信めいたものがあったことを、リュージは否定できない。
「そうだな、できれば予想が外れてくれることを願ってたんだが」
「願いなんて九割九分九厘適わず終わるもんよ、これも一つの出会いと別れでしたって割り切るしかないんじゃない?」
「……お前のそういうところが羨ましいよ」
「ありがと、なんなら教えてあげよっか?ラフィ式気持の切り替え方」
「やめとく、一生かけても無理そうだ」
「あっそ――でも実際のところイナセのことだって気になるだろうけど、これからのことも考えなきゃよ?私は別に構わないけど、このままじゃ晴れてタダ飯タダ酒、世界へのヒモ人生の幕開けね、私は別に構わないけど」
「二回も言うな俺が構うんだよ」
とはいえ現状では冗談やめろと言えなくなりつつある。
持っていた分と、念のため部屋に分けて置いていた分まで奇麗に盗まれた。働いて稼いでいる暇はない、となると与えられた権利をフルに活用して、ラフィの言う『世界規模のヒモ』とやらになるのはそう遠くない未来だ。
別に悪いことをするわけではない、世界を救う対価だと割り切ってもいいのかもしれない。
ただリュージにはリュージなりのこだわりがあり、たとえこれからの旅において損にしかならないものであろうと、膝を屈するのは気が引けた。
そんなリュージの逡巡を、一目で見破ったラフィは呆れた風にため息をついた。
「頭かったいわねぇ、生き辛くない?」
「うるせえな、人間そんな簡単に変われねえんだよ」
広さは十分なドームの中、並んで座る二人の耳には、激しさを増した雨音が絶えず鼓膜を震わせていた。
不意に、リュージは雨音に紛れて別の音が聞こえるのに気づいた。話声と、足音だ。
「こ――ダメで――ね、ちょ――どこ――で雨宿りし――しょ――」
「そ――、それ――いい」
容赦ない雨音にかき消されながら、少しずつ大きくなる足音に、ラフィもとうとう気づいたようだった。
リュージ達が入ってきたのとは反対側の入口から、二人の人物が身を屈めて飛び込んできたのは、その数秒後のこと。
「酷い雨ね、こんなのいつ以来――あっ!」
「どうかしましたか――おや」
入ってきたのは男女の二人組、買い物終わりなのだろう、二人揃って手には紙袋を抱えている、袋の淵から見えるのは、長めのパン、野菜、石鹸、明らかに家庭で使うものだ
二人組はリュージ達を見て、意外そうに眼を丸くした。
リュージも今同じような顔をしているはずだ。声を出すのを忘れているリュージの代わりにラフィが口を開いた。
「一緒に買い物に行くほど仲良しだとは聞いてなかったわね、お二人さん」
「……ごめんなさい、別に言うほどのことじゃないかと思って」
「そう?ライバル会社の秘書同士が、同棲してるって言うのは結構なことじゃないの?疑われてもしょうがないレベルのね」
その言葉に、女性――ナディヤ――はメガネの奥で目を伏せた。
代わりに前に出たのは、一緒にいた男、スヴェンだ。水に濡れたせいで崩れた前髪をオールバックに整え直して、ラフィに視線を合わせる。
「少し勘違いをしているようですね、自分たちは貴方が想像しているような関係ではありません」
「そうなの?見た感じちょっと年の離れたカップルだけど」
「違います、自分たちは――」
その時リュージは少し珍しいものを見た。
スヴェンがしきりに目を泳がせたのだ。
アルカディア滞在中の短い時間で、この青年と顔を合わせてことは数えられるほどしか無い、それでもリュージが見てきたスヴェンという男は、何を尋ねられても迷う素ぶりさえ見せずに即答し、答えられないことには答えられないと即答する男だった。
そのスヴェンが今、必死に言葉を探そうと目を泳がせている、しかしそれも数秒の迷いだった。
「……ナディヤさんは、自分の姉です」
「っ!スヴェン、貴方――」
ナディヤが目を見開いていた。スヴェンの告白の内容に対して、そのリアクションはあまりにも不自然だったが、ラフィが気にしたのはそっちではなかった。
「失礼だけど、あんまり似てないのね」
「血は繋がってませんから、自分は十年前に両親を亡くしまして、そんな折、縁あってナディヤさんに拾ってもらったんです」
「なるほどな、それで一緒に住んでるってわけだ」
どうやら込み入った事情があるようだが、根掘り葉掘り聞く趣味はない。
ナディヤも頻りに頷いており、嘘を言っている様子はなかった。というかナディヤは、スヴェンが自分のことを姉を言ってから、やたらと機嫌が良かった。
「なーんだ、てっきり二人が共謀してお互いの会社を乗っ取ろうとしてるって筋書きなのかと思ったのに」
「お、恐ろしいことを言わないでください!」
突然の犯人扱いに声を張り上げるナディヤ、だがすぐにラフィのにやけ面を見ると、冗談だったのだと察してこちらもふっと微笑んだ。
「一気にスピード解決とはいかないものね」
「……あの、昨日は親方が失礼なことを言ってしまって」
「気にするな、何も分かってねえのは本当のことだ」
「そもそも外から来た貴方たちにここまでの負担を与えてしまっている時点でうちの落ち度なんです……リュージさんはただでさえ忙しいのに」
後半を言い終えてから、ナディヤはハッとして口を押さえた。視線は隣のスヴェンに向かっている。
その仕草だけで分かった。スヴェンはリュージ達の詳しい素性は知らないのだ。現に今もナディヤの挙動に首をかしげている。
ナディヤは咳払いをして、話を戻した。
「親方は焦っているんです、市民からの苦情はもう抑えつけられないほどになりつつある、何よりシャトランジに企画書を送る締切が近づいてきてる」
「締切?そんなの聞いてねえぞ」
「すぐに見つかると高を括っていたみたいで、伝える必要はないと――」
「それでこの結果だもんね、で、締切はいつなの?」
「三日後です」
「ああそう三日後……三日後!?三日後!?」
驚き過ぎて二度叫ぶラフィ、叫びはしなかったがリュージも内心同じ気持ちだった。
教えてもらったからといって何か変わったかと言えば、苦しいものがあるが、知っていたのと知らないのとでは大違いだ。
「何でもっと早く言わないのよ!」
「すみません!職員は市民への対応に追われてまして!」
「親方は!?」
「それが、ストレスで昨日まで倒れてまして」
がっくりと肩を落とすナディヤ、スヴェンが気遣わしげに肩に手を置いた。
そっちもそっちで大変だったようだ。だが今はそれを労う時間も責める時間もない、唐突に現れたタイムリミットに、リュージ達はおおいに焦った。
「リュージ!こうなったらなりふり構ってらんないわ!」
「何か手があるのか?」
「ブルーノの会社に乗り込んで、くまなく探すのよ!勿論ばれないようににね!」
「そこに秘書がいる時点でその計画は失敗だよ」
「協力してもらえばいいじゃない!今のところ容疑者があいつしかいないんだもの!」
「申し訳ありませんがそれはできません」
きっぱりと、スヴェンが言い放った。
隣にいて全て聞こえているのだから当然と言えば当然だ。
ラフィはラフィで、隠す必要がなくなったからか堂々と説得にかかる。
「……ブルーノは何もしてないんでしょ?だったらお願いできないかしら、手っ取り早く容疑も晴れるし」
「言葉が足りませんでした、そんな時間の無駄をさせるわけにはいきません」
「時間の無駄?どういうことだ」
「あの二人に限って、そんなことは絶対にあり得ない、そうですよね?ナディヤさん」
声をかけられたナディヤは、それでも焦ることもなく神妙な顔で頷いた。当たり前のこと過ぎて焦る必要すらない、その表情はそう言う類のものだった。
「有りえません、ブルーノさんが、親方の――オットナーさんの設計図を盗むなんて、絶対にあり得ない。あの人はそんな人じゃない」
それに、とナディヤは益々確信を強めて、きっぱりと言い切った。
「それにもしあの人がそんな人になっていたのだとしても、それでもオットナーさんのアイデアを盗むことだけは、絶対にないんです。だって、だってあの人たちは、そのせいで決別したんですから」
唇を噛むその姿には、深い後悔があった。
心に重くのしかかったもの、今でも傷を抉るもの、それを今すぐにでも忘れたいような、決して忘れたくはないような、相反する感情を持て余している。それが今のナディヤの姿だった。
人の過去を詮索するのは好きではないし、やりたくない。
ナディヤが何を知っているのか、聞かずにはいられない今の状況は、リュージには甚だ不本意だった。
それでも今は事件の進展のために、聞かねばなるまい。
意を決してリュージが口を開こうとしたその時、外から足音が聞こえてきた。それも一つではない、いくつもの、だ。
更に加えれば、その全てが急いで走っている。
気になったリュージは遊具から出た。雨はいつの間にか上がって、雲の切れ間から太陽が覗いていた。地面にできた水たまりに反射した日光が、都市を照らしているみたいだった。
感慨に耽る暇もなく、リュージは足音が聞こえたほうを見た。
そこにはばらばらと駆けていく騎士たちの姿がある。一人や二人ではなかった。これだけの騎士が同時に動くとなれば普通の事態ではない、リュージは続いて出てきたラフィを置き去りにして、騎士たちに接近すると、一番後ろを走っていた男に声をかけた。
「なぁあんた何かあったのか?」
「んん?貴方たちは、市長に雇われていた――それならちょうど良かった、一緒に来ますか?無関係ではないですからね」
「……どういう意味だ」
「例の犯人が見つかったんですよ!たった今!」
見つかった。その一言を脳が処理できなかった。
急展開に頭がついていかないのだ。待ち望んでいたはずのことなのに、どこか現実感がない。
騎士は返事を待つのも惜しいと、リュージを残して走り出した。ついてくるならばついて来いということか。
「リュージ!どうしたのよ、急に飛び出して」
「犯人、見つかったんだってよ」
「――ごめん、もっかい言って」
「犯人、見つかったんだってよ」
「……あまりの悲惨さに女神様が同情したのかしらね」
「かもな」
軽口を返す暇もなく、リュージは騎士の背中を追う。
急転直下、という言葉の通りに、事件は進んでいた。
だがリュージとラフィはまだ知らない、この事件が終わりを迎えるにはもう少し時間がかかることを、二人がそれを知るのはほんの数分後のこと――。
忘れている方も多いと思うので今さらながらアルカディア編の簡易キャラ紹介
イナセ……スリを生業にしている少女。大規模な家出中でフィリーネと同居している
フィリーネ……アルカディアの娼婦。有力者なパトロンがいるらしい
オットナー……アルカディアの親方(市長)人を見下す性格、昔はこんなじゃなかったらしい
ブルーノ……オットナーと仲が悪いアルカディアにある大きな会社の社長。昔は仲が良かったらしい
ナディヤ……オットナーの秘書、常識人。
スヴェン……ブルーノの秘書、抑揚のない性格




