アルカディアの10
自分の髪は嫌いだ。
いろんなことを思い出すから嫌いだ。
思いだす自分を、大事に感じてしまうから嫌いだ。
いろんなものを捨てられない自分を見ているようで嫌いだ。
今すぐにでも切りたいと思うのに、どうしても切りたくない。こんな意味の分からない気持ちにさせてくるから、この髪は嫌いだ。
『僕はただ、綺麗な色だなって』
「……黙れ」
昨晩の一言を思い出して、あの時と同じ言葉を呟く。
誰に認められても、誰に受け入れられても、髪も瞳も大嫌いだ。
自分の自由を奪ってくるこの色が、大嫌いだ。
「朝から鏡に向かってなに言ってんのよ、とうとう参っちゃった?」
「……うるせーぞフィリーネ」
イナセは、鏡越しに見える友人に吐き捨てるように言った。
茶髪の癖っ毛に、グラマラスな肢体、その人物とは、何を隠そう一日前にヴィートを自らの部屋に連れ込もうとした娼婦だった。
彼女の名はフィリーネ・ドゥーゼ、ここアルカディアでの、イナセのたった一人の友人だった。イナセが今いるこの部屋も、彼女の部屋、厳密に言うと、フィリーネに割り当てられた部屋だ。
このマンションは娼婦たちの家であり、店でもある。
女たちは、月に決められた額を店に納めることで、この部屋を使うことができるのだ。
仕事に部屋を使ってもいいし、ここは居住区だと割り切って外で会うだけにしてもいい、それは当人たちに委ねられている。
当然、人を住ませるのだって自由だ。
「そんな口きいて、家主に敬意ってもんはないのかしら」
「何言ってんだ、家賃はちゃんと折半だろうが」
「置き引きとかスリに私を巻き込んでる時点で、私の頑張りのほうが大きいでしょうが」
即座に的を射た答えを返されたイナセは二の句が継げなかった。まったくもってその通りだったからだ。
生活費を、スリや置き引きから捻出しているイナセだが、ああいう行為はひとりでやると成功率が低い。
気づかれたって逃げきる自信はあるが、一回一回それでは効率が悪いし、すぐに存在を覚えられてしまう。
だからフィリーネと組むことにした。
フィリーネが相手の気を引いて、イナセがその隙に仕事を達成する。人に気づかれずに動くことを得意とするイナセからすれば、失敗することなど有り得ない条件だ。
現に今までそうやってうまくやってきた。
「それで、昨日はどこに行ってたのよ?帰ってこないなら先に言ってよね、晩御飯無駄になっちゃったでしょ、一人分の材料費返してほしいわ」
「昨日は悪かった、ちょっとトラブルに巻き込まれて」
「そりゃ珍しい、騎士団全員がかりでも逃げきって見せるって豪語してるあんたがねぇ」
「ああ、多分今日も……てかしばらく晩はいらねえかも」
そのイナセの言葉に、フィリーネは目を丸くした。
自分の知るイナセという少女の口からは決して出てこないはずの言葉だったからだ。
「ホントにどうしたのよ、いつもなら一食抜くだけで文句言うのに」
「うまい飯の種に出会ったんだよ」
「えぇ?なによ男でも捕まえたの」
「捕まえたってか、捕まえられたって感じ」
「……ほんとに?」
頬を掻きながら誤魔化すように笑うイナセに、フィリーネはいよいよ驚いた。
まさかあのイナセが、男に貢いでもらうようになるとは――。
これは何としても聞きださねばならぬと、フィリーネは詰めよった。
「ちょっとどこの誰よ!どんな人!?騙されてんじゃないの!?男をそんな簡単に信用しちゃダメって、あれほど――」
「違う違う!男じゃねえって、いや、男もいるけど……」
「どういうことなの、ちゃんと説明しなさい!」
いつの間にかフィリーネの表情からは、遊びが無くなっていた。
そのことに気づいたイナセは、慌てて昨晩の運びを説明する。
旅をしている三人組にあったこと、故あって意気投合したこと、そしてその内の一人に、毎晩来るように言われたこと。
それが財布を盗んだヴィート達であることや、その前に攫われかけたことなどには一切触れずに――。
「なんだ、そういうことだったのね、イナセにお友達なんて、それはそれで驚きだけど」
「別に友達じゃねえよ、偶然会って、偶然一緒に飯食う仲になっただけだ」
「それを友達って言うんだけどね」
キッとフィリーネを睨みつけるイナセ、フィリーネは素直じゃない少女に、微笑ましいものを見る目を向ける。
イナセはますます不機嫌になった。
「もう!アタシに構ってる暇なんかねえだろ!さっさと行けよ、相手またせんぞ!」
「あら、もうそんな時間?」
フィリーネはその場から置時計に目をやって、意外と時間が迫っていたことに気づくと、そそくさと玄関に向かった。
イナセも見送るべく、それについていく。
「ったく、相手を待たせるのはいけないって日頃から言ってるくせによ」
「はいはい私が迂闊でした!行ってきま――」
靴を履き終え、立ち上がり、ドアノブに手をかける。あとは外に飛び出していくだけだった。
突如フィリーネの体が支えを失ったかのように崩れた。
考えるよりも先に体が動いて、イナセはフィリーネを支えた。
「フィリーネ!?どうしたんだしっかりしろ!」
「あ、あはは、大丈夫、ちょっと立ちくらみしちゃっただけだから、全然平気よ」
「今のはどう見ても平気じゃねえだろ!今日は休めよ、相手は『いつもの奴』なんだろ?」
ただこの界隈の女たちの間では、フィリーネにパトロンがいる話は有名だった。
そして一緒に暮らしているイナセは、その話が単なる噂ではないことを知っている。
フィリーネを指名する人間は一人だけだ。それは彼女の不人気が理由ではなく、他に客を取る必要がないほどの支援を受けているからだ。
部屋に迎えに来た時、イナセも一度だけ見たことがある。
一見ただのうだつの上がらなそうな中年だった。
フィリーネの好みには見えなかったが、部屋から出ていく彼女の幸せそうな顔は、本物だと断言できた。
「なんなら場所だけ教えてくれたら、アタシが伝えに言ってやるから、休めって、な?」
「そういうわけにはいかないのよ」
「なんでだよ!こんなことで怒るような相手じゃないんだろ?」
「だからよ、優しい人だからこそ、私がいけないようなことがあると心配をかけるわ」
「そんなの!――」
「イナセ」
名前を呼ばれたイナセは、フィリーネと目を合わせる。
大丈夫だからと、心配するなと、行かせてくれと、その眼が口数少なく語っていた。
そんな目をされては、もう止めることはできない。
イナセはフィリーネを支えながら起こした。フィリーネは服の裾を払うと、優しく微笑んで部屋を出ていった。
最近のフィリーネの体調はあまり良くない。
何が原因か、イナセには分からない、医学的な知識がないからだ。
ただ日々を過ごす同居人が、無理をしていることくらいは分かる。
彼女の生き方に、口を突っ込むことは勿論できない。
それでも、それでもイナセは願う。
顔しか知らないあの男が、きちんと責任をとってくれる男であることを――。
※ ※ ※ ※ ※ ※
肉屋の店主は首をかしげながら答えた。
「怪しいやつ?いやすまんが見てないね」
魚屋の店番は首を横に振った。
「怪しいやつ?いやぁ、この街はいつでも平和なもんだけど」
酒屋の親父は煙草をふかした。
「怪しいやつねぇ、知らんけども、とりあえずあんたのお仲間が持ってきたあれ、勘定しちまっていいのか?」
店の中から、輝く瞳で、手にいっぱい持った酒瓶を見せびらかしてくるシスターに説教をしてから、商品をすべて元の場所に戻してその場から去った。
八百屋の夫婦は顔を見合わせると考え込んだ。口を開いたのは、逞しい体つきの夫の方だった
「答えなくてもいいが、親方が何かされたんじゃないのか」
「……なんでそれを」
「あんたたち、三人とも外から来た人だね」
「ああ、つい昨日この都市に」
「そうか、それなら知らなくても仕方ない、この街で親方が被害を受けたんなら、犯人なんて分かり切ってるよ」
「ちょっとあんた」
「いいじゃねえか知りたがってんなら教えてやりゃあ、どうせここで聞かなくても、ブルーノの名前はどっかで耳に入るよ」
どうやら八百屋の主人は話好きだったようだ。
妻の制止を振り切り、詳細を語り出す。ブルーノという人物のことを――。
「ブルーノってのは、このアルカディアで二番目、親方の次に大きな会社を持ってる男だよ、ほら、あそこにビルが見えるだろ」
主人が指さす方角には、周囲の建物からすれば長大なビル、十階建てくらいか、中央ビルがなければこの都市で一番大きな建物となっていただろう。
「あそこの社長のブルーノってのが、親方とそりゃもう仲が悪くてな、ブルーノの親方への嫌がらせっていえば、この都市の人間なら誰でも知ってらあ」
曰く、親方が買おうとした土地をわざわざ赤字ギリギリの金額で先に買い取る。
曰く、親方の土地開発計画に入っている建物の権利を、どれだけ好条件を突き付けられても譲らなかった。
曰く、仲が悪すぎて共同開発の際には、秘書を通してしかやり取りをしない。
「まぁ挙げればきりがねえってやつよ……どうしたんだお前ら」
「ちょっと二人とも、何が『手がかりはない』ですか、最初から怪しい人いるじゃないですか」
「違うわよ、私だって初めて聞いたもの」
「本当ですか、リュージさん」
「本当だ、こんな情報は聞いてない」
「なんでリュージに聞くのよ!こんなことで嘘つかないってば!」
八百屋の店主に怪しまれているのも、気にせず、三人は顔を寄せ合って話し合った。
聞きこみは、今朝から開始していた。
何せリュージ達が知っていることといえば、設計図が盗まれたという事実のみだ。そのうえ設計図が盗まれたのは極秘事項、聞き込みにも注意を払わないといけなかった。
だから、怪しいやつを見なかったか、などと迂遠な質問しかできなかったのだが、ここにきて大きな当たりを引いた。
だが、話の限りだと親方がこのことを言わない理由はないのだが。一緒に話を聞いたラフィも当然そこを突く。
「ねぇおじさん、それ本当?私たち昨日親方に仕事頼まれたんだけど、そんなこと聞いてないわよ」
「あっさりばらしてんじゃねえよ」
「言うなって頼まれたのは仕事内容、依頼されたことまで隠せなんて言われてないわ」
それは言う必要がないほど当然のことだから言われてないだけだ。
繰り出されるへ理屈に、とっさに言い返せないでいると、八百屋の主人は納得したように何度も頷く。
「心配すんな、詳しいことは聞かねえよ、だけどそれは当然っちゃ当然だぜ」
「えっと、どういうことですか」
「ああ、あの二人は仲が悪すぎてお互いの名前を口に出すこともしねえからな、親方からブルーノの名前を出すのは無理だ」
「名前すら口にしない仲ねぇ、遠回りしちゃったけど、これが答えなんじゃない?」
見上げてくるラフィに相槌を打ちながら、リュージは記憶の片隅に引っかかるものがあるような気がしていた。
ブルーノという名前、つい最近どこかで聞いたような、一人静かに記憶を探るリュージの前で、八百屋の主人は舌を回し続ける。
「今度は何したのか知らねえが、今のあいつは金のことしか考えてねえんだよ、近々他の都市のやつ見合いをするって話もあるがな、大口の取引を有利に進めるためだけの結婚だってもっぱらの噂だぜ、あいつも変わっちまったよ、昔はもっと――」
「そこまでにしといてもらえますか」
声が聞こえたのは背後からだ。
リュージたちは振り返る。立っているのは一人の青年、黒に近い茶髪を整え、一切動きのない表情からは仄かな冷たさが感じとれる。
ヴィートには見覚えがないだろう、会ったのは自分たちだけ、それもすれ違っただけのようなものだ。
「……あんた、昨日ナディヤと話してた」
「昨日は挨拶もせずに失礼しました、私ブルーノさんの会社で秘書をしている、スヴェン・アッカーマンと申します」
きれいな角度で頭を下げるこの青年が、件の男の秘書であるらしい。どおりで八百屋の主人がさっきから気まずげに視線をしたにやっているはずだ。
スヴェンは、きっちり五歩進んで八百屋の前まで来ると、主人に向かった。
「うちの社長が、褒められることをやっていないのは事実です、そのせいでいろんな人に迷惑が掛かっているのも本当です」
「ス、スヴェンさん!違うんだ、そんなつもりじゃなくて、ただの世間話のつもりだったんだよ!」
「大丈夫、わかってます、ただこちらも分かって欲しい、社長はただの嫌がらせに時間をかけるような人じゃないんです、きっと今までのことだって、何かの理由があるはずなんです」
「……」
「信じてくれとは言いませんが、あまり責めないでやってください」
淡々と、スヴェンは相手の返事を待たずに言いたいことだけを告げていた。
だがその言葉の節々に混ざっている感情は、怒りというよりも深い悲しみのようで、主人は罪悪感からか、もごもごと言葉にならない呟きを残して、店の奥に入っていった。
スヴェンは、リュージの方へ向き直ると、目を伏せた。
「……お見苦しいものをお見せしてしまって」
「気にするな、見苦しくなんかねえよ」
「いえ、感情的になってしまいました、自分の立場を考えると、相手を脅したのと変わりません」
「でも、それくらい社長さんのこと尊敬してるんですね、感情的に、なっちゃうくらい」
ヴィートの言葉に、スヴェンは一切目線を下げずに、それだけは不動の真実なのだと、周りに宣言するがごとく、堂々と言い放った。
「はい、僕……私の人生を拾ってくれた人ですから」
表情は変わらない、無表情のままだ。
それでもまとう雰囲気が確かに軽く、温かくなったのは明瞭だった。
それにしても聞いた話とは違って、ブルーノという男は、部下からの評価が高いようだ。
と、割り込むように声を上げるのはラフィだ。
「はいはい、立ち話もいいけど、まさか社長が馬鹿にされてたから寄ってきたわけでもないでしょう?」
「……設計図の件で協力に来ました。私もある程度の事情は知っています」
軽く周囲を気にしながら、息を潜めつつ言うスヴェンに、ラフィは疑いを多分に含んだ視線を向けた。
表には出していないつもりだが、おそらくリュージも同じことを考えている。
ラフィは隠すことなく、それを口に出した。
「ライバル会社の人間が、事情を知ってる?ちょぉっと怪しすぎるんじゃない?」
「そう言われるのも織り込み済みです。ですが現状として私からは言葉以外に尽くせるものがありません」
ですから、とスヴェンは三人を順に見渡した。
表情は動かさないように、それでも多少は緊張しているのか、小さく呼吸を整えて口を開いた。
「今からうちの会社にお連れします。社長を疑うだなんて、時間の無駄をさせるわけにはいきませんから」




