カルカソンヌの0と35
大変遅くなってしまってすみません。
追加で謝りたいのは、実は今ネット環境が安定しないところで働いてまして、次の投稿が九月の終わり頃になるかもしれません。
とりあえず生存報告代わりに一話だけ投稿します。これからもどうかよろしくお願いします。
猛る波はもはや人間が共存を選んだ自然などではなかった。
ただただ猛威をふるう恐怖そのものだった。
当然海に意思などない。誰かを陥れるために荒れているわけではない。
彼らはあるがままにあるだけだ。時に優しく、時に厳しく、ただそれだけなのだ。
今まさに自然に翻弄されているこの船上の彼らもまた、それを理解していた。理解していて尚苛立ちを抑えられなかった。
煌々と燃え盛るマストが、船員たちを照らす。
皮肉にもその業火のおかげで、船員たちは寒さにふるえず行動できている、しかしだれ一人としてそんなことに感謝する男はいなかった。
舟の先端部分で、欄干にもたれかかっている男もその一人だ。
「ああくそったれ!荒れてる姿も美しくてしょうがないな、できることならおとなしくしてくれるとなお有り難い!」
「ジェリー船長!もう船底持ちません!」
「なんとかならないか!?もう目と鼻の先なんだぞ!」
「無理です!使える木材はとっくの昔にゼロ!船員の服つめて浸水防いでる状態です!」
「手詰まりってわけだ、くそったれ!」
ジェリーと呼ばれた男は、欄干を力任せに殴りつける。
ごつごつとした拳の表面に血が滲む。痛みさえこの理不尽な現実を前にした激情にかき消されていた。
数か月の航海を終え、今日は自分たちの都市に帰る日だった。船の上で船員たちと帰った後のことを和気あいあいと語り合っていたのだ。
ある者は酒を浴びるように飲みたいと言い。
ある者は久々に家のベッドでゆったりと眠りたいと言い。
またある者は愛する女に会いに行くと告げて周りから冷やかされていた。
各々求めているものは違ったが、未来への希望があった。希望が彼らの体を動かしていた。そうして漸く薄っすらと彼らの住む都市が見え始めた頃だった。
突如として、何の誇張もなく本当に突然、空に暗雲が現れたのは――そして、絶望が一筋の雷という形を取って船に落ちてきた。
そこから先はただただ無茶苦茶だった。
波は猛り、風は容赦なく船員を弄び、原因不明の衝撃と共に船底に多数の穴が開いた。
明らかに尋常ではなかった。尋常ではないということだけが船員が分かる唯一のことだった。
彼らとて幾度となく困難を乗り越えてきた海の男たちだ、もちろん手をこまねいて見ていたわけではない。
風向きをよんで船の向きを合わせようとした。
船底を修繕しようと試みた。
不要な荷物は全て海に捨てた。
だが結果として残っているのは、帆も破れ船体も穴だらけ、死に体同然となった船だけだ。
それでも生きているだけマシな方か、十隻近くあった船はもはやこの一隻しか残っていないのだから――。
「ったく!どこの誰だ海の機嫌を損ねたのは!ジャックか!?昨日食べ残したブロッコリー海に捨ててたもんな!ジャック連れてこい!海に放り込んでやる!」
「とっくの昔に風で飛ばされて海に落ちました!」
「くそったれ!」
いつも陽気で冗談ばかり口にしていた船員の顔が頭をよぎるが、今は悲しんでいる暇すらない。
自分は船長、この船の代表なのだ。荒れ狂う海の前には意味のない肩書だとしても、今目の前で不安に顔をゆがめている船員たちを導く義務がある。
そして、今自分がしなければならないことはたった一つ――決断だ。
「……残っている全員を集めろ」
「ど、どこにですか」
「船尾だ。緊急用のボートはいくつあったかな」
「ま、まさかこの海を小舟で渡るつもりですか!?冗談はよしてくれ!遠回しでもない自殺じゃないか!?」
「じゃあこのまま船を棺桶にするか?それもそれで魅力的な提案だが、今回ばかりはごめんだ、家族が待ってるからな」
「しかし――」
「なぁに、待ってても死ぬ、進んでも死ぬ、だったら進んでみようじゃないか。少なくともそっちの方が、可能性はゼロじゃない」
船員は少しの間迷っていたが、やがて力強く頷くと、風で飛ばされそうになりながらも必死に船内へと向かっていった。
ジェリーは欄干伝いに船尾へと向かう。降り注ぐ雨のせいで視界すら覚束ない。
誰かの悲鳴が聞こえる。声の動き方からして風に飛ばされてしまったようだ。
「すまん」
誰かの悲鳴が聞こえる。焼けたマストがとうとう折れて倒れる音も。
「すまん……」
誰かの、誰かの、誰かの悲鳴が聞こえる。
聞こえ、続ける。
「すまん……!」
雨とは違う液体がジェリーの顔を下っていく、それすらも風が飛ばしていった。泣くことさえ許さないとばかりに――。
耳を塞ぐわけにはいかない、両手で欄干を掴んでいなければ自分も飛ばされてしまうからだ。
「……なるほどな、いちいち拭わなくていいって意味では、良い雨じゃねぇか、くそったれ」
自嘲気味にそう呟けば、濡れていく体の表面とは裏腹に心がひどく乾いていった。
欄干に頭を叩き付ける。何度も、何度も、そうでもしないとおかしくなってしまいそうだったから――。
額から滴る血を眺めながら、なんとか正気を保って歩き続けた。一歩一歩が異様に重い。気のせいではない。
無限にも感じる距離も結局は無限ではない。
船尾へはなんとかたどり着けた。
船員を集めるように指示していた若い船乗りもすでにその場にいた。彼はやってきたジェリーを見ると、ぎょっとして駆け寄ってくる。
「船長!額どうしたんですか!?」
「いい、気にするな!それより、これで全員か?」
「……はい、他はもう――」
「そうか」
その場に立っているのは数えれば両手で足りてしまう人数。それも船内で作業をしていた者ばかりだった。
無理もない、甲板にいた自分が助かったのは黒雲を見た直後に直感に従って欄干にしがみついたからだ。
直後襲ってきた突風で欄干にいた船員はほとんどやられた。
「船は?」
「降ろす準備もできてます、行きますか?」
「ああ、すぐに行こう。これ以上待つ必要もなさそうだ」
船員たちが次々と小舟に飛び込んでいく。その顔は悲壮感に染まっていて、自分たちの運命を悟ってしまっているようだった。
気を抜けばジェリーも同じ顔をしてしまいそうだ。だがそうはいかない。
自分が悲惨な顔をしてしまえば、いよいよ彼らは絶望してしまう。そうなってはただでさえ低い可能性は完全に閉ざされてしまうだろう。
「……今までありがとな」
ジェリーは船に向かって口の中だけで呟くと、自らも小舟に飛び込んだ。
その瞬間小舟がふわりと浮かぶ、数人がかりの操作魔法が小舟を荒れ狂う海へと降下させていった。
全員が慣れた操作、船に乗る時に最初に覚えさせられること――にもかかわらず、船は空中で大きく揺れていた。
原因はわかり切っている。恐怖、動揺、そんなところだ。
「おいどうしたお前ら!これじゃ海に降りる前に放り出されちまうぞ!」
「す、すみません!」
「怖いのはわかる。俺だって怖い!だからこそ落ち着くんだ!全員『どうせ死ぬだろう』と思ってこの船に乗ったかもしれない!でも死ぬために乗ろうとは思ってないはずだ!」
ジェリーの必死の演説も空しく、船員たちの顔は暗い。
責めることはできない。内心ではジェリーも同じ気持ちなのだから。
ジェリーは、優しい声音で俯く彼らに語り掛ける。
「なぁバーンズ、お袋さん病気良くなってきたんだってな、フランクは酒場の彼女といい感じなんだろ?デイビットは娘が生まれるんだって?テッド、あの花束は何のために買ったんだ?全員生きて帰りたい理由あるじゃないか!諦めてどうするんだ!」
「せ、船長……」
「分かってます、わかってるんです僕たちだって!!」
一番若いフランクが、我慢できなくなって叫んだ。
やり場のなかった怒りは、ジェリーという目的地を見つけてしまった。フランクは押さえていた感情を爆発させる。
「分かってるけど怖いんです!死にたくないんです!僕は船長とは違う!こんな時に頑張れる勇気なんてないんだ!誰かに助けて欲しくてしょうがないんだ!!誰か、誰か、助けてくれよぉ!」
腕を目に当てて大声で泣きだすフランク、そしてその言葉はこの場にいるもの共通の本音でもあった。
フランクの姿に、今まで張り続けていた虚勢が次々とはがれていく。声を上げて泣きこそしないものの、厳つい顔をした男たちは揃って涙を流し始めた。
生きたいという強い思いは、生き伸びられないという現実の前に真っ黒な諦観へと姿を変える。
もはや、どんな言葉であっても彼らを立ち上がらせることは不可能に思えた。
それでも、ジェリーは口を開く。
「俺さ、昔は海で死ぬのが夢だった、親父は飲んだくれでよ、お袋はさっさと死んじまって、いっその船に乗ってどこか誰も知らねえところに行って、そこで死にたかった。大好きな海に沈みたかった」
ジェリーは自分の話をするのが嫌いだった。そこそこ悲惨な人生を送ってきた自覚がある身としては、不幸自慢をするようで嫌だったからだ。
初めて聞く船長の身の上に、船員たちはゆっくりと顔を上げる。
「勿論今でも海で死ぬことは嫌じゃないかもしれない。でもカレンと会って、ジャンが生まれて、思ったんだ。人生って予想もつかないことがあるなって、予想もつかないくらい嬉しいこともあるなって」
「船、長……」
「俺は帰りたい。帰って二人に会いたい……フランク、お前もだろう?会いたい奴いるだろう?」
フランクの脳裏に浮かぶのは、数か月前酒場で働き始めた幼馴染。
ずっと想い続けていた彼女、半人前のままでは思いを告げる資格すらないと思って、黙って海に来てしまった。
「たしかに現状俺たちは追い詰められてる。退いても進んでもこの世の地獄だ。だが進めば生き残れるかもしれない」
フランクの、船員たちの顔が上がる。
その瞳にはさっきまで消えてしまっていた火が灯っている。生きることへの執念が、灯っている。
「生き延びよう、皆で帰ろう、会いたい奴に会おう、飲みたい酒を飲もう、死んだ奴らの家族には勇敢だったと伝えてやろう。生きていれば何でもできる!さっさと帰るぞお前らぁ!!」
『おうっ!!』
全員の声が揃った。野太い叫びが空気を震わせる。
醜い執着でも、悪あがきでも、自暴自棄でも、好きに言えばいい。生きることを望んで何が悪い。たとえその場しのぎの言葉だとしても、最後まで諦めないために必要なら何度でも言おう。
――そう、俺も家族に……ん、家族?
生に燃える仲間たちと共に、ゆっくりと海面に着地した小船。
全員が渾身の力で、手に持った櫂を動かし始めたその時。
「ああああああああああああああああ!?」
ジェリーの絶叫が耳に突き刺さった。
「どうしたんですか船長!」
「まずいことになった、船に戻らないと!」
「な、何言ってるんです!?戻れるわけないでしょう!」
「それでも戻らねばならんのだ!」
「いったい何があったんですか!」
「指輪忘れた」
「は?」
いったい何を言っているのだろうこの人は、フランクの顔があからさまにそう言っている。
しかしこれは死活問題なのだ。
「あれがないとカレンが泣くんだよ!」
「いやいやいやいや!戻るのは無理ですよ!」
「お前らは行ってくれ!俺一人でも!」
「だめに決まってるでしょ!飛び込んだら一瞬で死にますよ!」
「かまわーん!!」
「だめだこの人本気だ!ジョージさん!船長押さえといてください!」
寡黙な大男のジョージに羽交い絞めにされながら、ジェリーはじたばたと暴れる。
「うおおおおおおおお!!離せぇぇぇぇぇ!!」
「船長暴れないで危ない!」
「行かせろぉぉぉぉ!!」
「帰ったら皆で一緒に謝ってあげますから!」
「馬鹿野郎!あいつは普段はお淑やかなのに怒ると頑固なんだよ、生きて帰ったくらいじゃ許されない!!」
「さっきと言ってること全然違うじゃないですか!!」
ぷっと、最初に噴き出したのは誰だったか。
状況にあまりにもあっていないコント紛いなやり取りに、誰かが耐え切れなかったのだ。
それが皮切りになった。
いつ死ぬかも解らない海の上で、明日なんてないであろうこの時に、海の上に笑いが起こった。
必死に手を動かしながら、仲間たちは声を上げて笑っていた。
誰も気づいていなかった。
船底に、小船の何倍もあるような魚影があったことに。
次の瞬間、小船は大きく跳ねあげられた。
粉々になりながら宙を舞う小船から、はじき出された船員たちもまた空高く跳ぶ。
ジェリーもまた同じように空に放られていた。
残された短い時間んでジェリーが考えたのは二つのことだった。
ひとつは家族のこと。体の強くない妻とまだ幼い子供を残していく寂しさ、罪悪感。
だがそれはすぐに収まる。
――ジャン、お前は強い子だ。母さんを頼むぞ。
わが子への信頼故に――。
だから厳密にはジェリーがその人生の最後に思ったのは、二つ目――。
仲間たちのこと――違う。
生まれ故郷のこと――違う。
ちらっと見えた、舟を壊したであろうあの影のこと――違う。
二つ目は、目に映る限りの海のことだった。今は黒に近い青、昨日は透き通る青、夕暮れ時は燃えるような橙、いろんな海が頭をよぎる。
「――やっぱ、いつ見ても綺麗だなぁ」
思わず、といった風に漏らしながら、海を愛する男は静かに沈んでいった。
※ ※ ※ ※
――二年後。カルカソンヌの港――
巨大な船だった。近くに並ぶ普通船が半分にも満たないと言えばその大きさの一端を知ってもらえるかもしれない。それもそのはず、この巨大船はこの世界最大にして最速の帆船、側面には船名である『Blessing』がでかでかと記されていた。
当然高さだってそれなりにある。甲板から海面までも随分と離れており、まだ出港していない今甲板から地上に落ちでもしようものなら無事では済まないだろう。
事実船に乗り込む人々は皆チケットを切る際に乗組員に甲板には極力出ないように注意されていた。
だがあくまで忠告であるため、甲板にはちらほらと人がいる。
この世界では人工の高所というものが珍しい。
海に出てからでも体験できるのは分かっていても、恐いもの見たさに甲板に立つ人は一定数いるのだ。彼らは揃って欄干から地上を覗き込んでは、その高さに驚き、近くにいる友人とはしゃいでいる。
はしゃいでいないのは、落ち着きを忘れない紳士淑女か、アルカディアにでも行ったことがある人か、もしくは別件で気分を落としている者かだ。
この内二つが当てはまっている純白のシスターは、欄干にもたれかかりながら都市を眺めていた。
珍しく愁いを湛えた瞳は、まっすぐに都市に、正確にはこの船へとつながる一本の通りに向けられている。
まるで、やって来ない誰かを待っているかのように――。
突然吹いた一陣の風が、ラフィの長い銀髪を揺らした。
「風が強くなってきましたね」
「そうね」
「中、入りませんか?」
「ううん、ここにいるわ」
その場から微動だにしないラフィに、隣に立つヴィートは困ったような顔をした。
もう数時間、昼に船がやってくると同時に乗り込んで、もう数時間はこうしている。もう一人の仲間であるイナセはとっくに船室に行ってしまった。
日も低くなってきた。季節柄、夕方でも寒くはないが、それでもずっと風に当たっているのは良くないような気がした。
「心配なら僕がここにいますから、リュージさんが来たら必ず伝えに行きます。だから何か食べてきてください。今日は朝から飲まず食わずでしょう?」
「水ならつい二時間前に持ってきてくれたじゃない、一日くらい食べなくても平気よ」
「心配されてんだから、素直に行ってこいよ」
聞こえた声に振りかえれば、船室にいたはずのイナセが戻ってきたようだ。イナセはそのままラフィを挟むように立つと、欄干に背を預けて空を見上げた。
「らしくねぇぜ?なにそんなに焦ってんだよ」
「焦ってなんか――」
「焦ってるよ、見りゃわかる。ヴィートにだって分かるぜ」
「僕を特別鈍いみたいに言うのは止めてよ」
「はいはい……姐さんの心配って、旦那のことだろ?てかそれしかねぇし」
旦那、イナセがそう呼ぶのは一人だけだ。
その単語を聞いて、ラフィの肩が小さく動くのを二人は見逃さなかった。
「だ、大丈夫ですよ!リュージさんならきっと何事もなく帰ってきます……いや、やっぱ怪我くらいはしてるかも知れないですけど」
「フォローしてぇなら最後までしろって」
「で、でも大丈夫ですよ!リュージさんは必ず来ます!あの人が負けるところなんて想像できないじゃないですか!」
大げさな身振りまでいれて、必死に明るい声を出すヴィート。
ラフィは、それを横目に表情を変えずに口を開いた。
「それは心配してないわ。リュージが負けるところなんて想像できないってのは私も同じ」
「……じゃあ、何をそんなに顔曇らせてんだよ」
「それは……」
「ラフィさん、僕たち頼りにならないかもしれないですけど、でも聞くことはできます、仲間ですから、ラフィさんが悩んでること、変わってあげられないかもしれないけど……一緒に悩むくらいだったら、できますから!」
長い前髪の向こうの碧眼に、強く灯った光を見て、ラフィはほんの少し目を見開いて、ふっと微笑んだ。
「……ヴィート、あなたって強い人ね」
「え?」
「リュージってね、戦う時にいつもこう言ってるの知ってる?『俺を倒してからにしろ』って」
そう言われてヴィートは記憶を探る。
いつもは死に物狂いで戦っているからか気付かなかったが、そう言えば戦う前に、そんなことを言っていた気がする。
カフナで蝿の姿をした悪魔と戦う時に、そんな言葉を聞いた。
イナセもまた思い出す。パッチワークで人形悪魔と戦う直前、リュージがその言葉を言っていたのを――。
「で?それがどうしたって?旦那の性格からして言ってもおかしくはねぇだろ?あんなお人好しなんだから」
「そうね、あの人はお不器用なくせにお人好しで、口下手なくせに優しくて、打たれ弱いくせに誰よりも前に出るの」
「打たれ、弱い……リュージさんがですか?」
知っているリュージ・キドからは最もかけ離れた言葉の様な気がして、ヴィートは首を傾げる。
「どんなにすごい力を持ってても、怪物を倒すことができても、あの人は、リュージは人間なのよ」
ラフィの手が力強く欄干を握りしめる。
その手は小さく震えていた。
表情は変わっていない、ずっと無表情だ。だというのにそこに見えるのは、静かに熱を持ち続ける怒り。
それはリュージに対してか、あるいは自分に対してなのか。ヴィートには分からない。
「怪我すれば痛いのに、血が出たら死んでしまうのに、分かってないはずないのに――」
俺を倒してからにしろ。
それは強さゆえの自信ととってもいいのかもしれない。
絶対に負けることはないという宣戦布告のつもりなのかもしれない。むしろ今まではそう思っていた。
でも、今はそうは思えないのだ。どうしても、そうではない方に見えてしまう。
――自分ならばどうなってもいいと、そう聞こえてしょうがないのだ。
今朝自分が同行を申し出た時の、リュージとの会話が頭を離れない。
『誰もついてくるな、頼む』
『足手まといって言いたいの?ちょっと失礼なんじゃない?これでも生身のあなたなら一瞬で――』
『ついてくるなって、そう言ってる』
「――フィさん!ラフィさん!」
肩をゆするヴィートの声に、はっとする。
隣にいるヴィートの声も聞こえてなかったようだ。
「大丈夫ですか?今すごくぼうっとしてましたよ?」
「ありがとう、大丈夫よ」
「……結局よ、姐さんの心配ってのは旦那が無茶することなのか?言いたいことはなんとなく分かるけど、心配しすぎじゃねぇかな」
「そうじゃない、そうじゃないのよイナセ、無茶するだけなら心配なんてしないわ」
あの声を聞いた時から拭いきれないのだ。
いやな予感を、最悪な直感を――。
「よくわかんねぇな、結局どういう――」
本当に珍しく回りくどいラフィに、イナセが同じ質問を繰り返そうとする。それを遮ったのは音だった。
何かがこちらに向かってくる音だ、徐々に大きくなっている。
最初に事態を把握したのはヴィートだった。
「……え?なん、で――」
次いで振り返ったイナセが吠えた。
「おい、なんだよあれ・・・・・・どうなってんだよ!」
イナセは手にした脇差を抜きながら、欄干に足をかける。
何をするつもりか察したヴィートが慌てて後ろから羽交い絞めにして止めさせた。
「離せ!邪魔すんじゃねぇ!」
「落ち着いてよ!こんな高さから落ちて平気なわけないでしょ!?」
「だったら、ちゃんと階段から降りる!離せ!」
「降りてどうするつもりさ!」
「決まってんだろ!!」
「じゃあ離せないよ!絶対に離せない!」
「テメエ、いい加減にしねぇとたたっ斬るぞ!!」
暴れるイナセ、抑えつけるヴィート、それらを意に介せず、ラフィはただ一点を見つめる。
その瞳に浮かぶのは、相変わらず激しい怒りと、深い悲しみ。ふたつの感情がない交ぜになって、自分でも何を考えているのかが分からなくなる。
抑えきれない感情は、たった二文字になってラフィの口から出ていった。
「……ばか」




