第六話 チャンスがほしい
成瑠美にとってお菓子作りは材料と会話をするようなものだ。精魂こめて生地を作ると必ず生地は答えてくれる。時には失敗もするが、失敗を踏まえてやり直して、うまくいったときの達成感はなんともいえないものがあった。
そんな感慨に浸りながら、台所でチーズケーキの生地作りに朝から精を出していると、理が階段を降りてくる音がした。
「お兄ちゃん、どうしたの。まだ朝の五時だよ。今日は日曜だし、もう少し寝てたら」
成瑠美が明るい声でそう言うと、理は対面式キッチンの向こうから言った。
「昨日、悠司から聞いたよ。悠司が勇気だしてプロポーズしたのに、お前は断ったんだって?」
まだ寝ている両親を気遣ってか、理はやけに低く小さな声で話す。
「なんだ、もう聞いたの。昨日の今日だよ。やけに情報が早いね」
つられて成瑠美も小声で返した。
「お前たち、とてもお似合いのカップルだと思ってたのにな。よかったら理由を聞かせてくれないか、その、断った理由を」
やはり来たか、と成瑠美は思った。悠司に別れ話を切り出すのは簡単だ、でもそのあとがきっと大変、と成瑠美は常々思っていた。
高校の同級生で今も親友の、悠司と理の仲を壊したくなかった。理に悠司を悪く思わせないで、この状況を納得してもらうにはどうしたらいいのだろう。成瑠美は言葉を慎重に選んで話し出した。
「単に方向性の違いだよ。悠司は今まで通り、私に今の仕事を続けてほしいって言うの。でも私はお菓子屋さんをやりたい。私たち、歩く道が違ったんだと思う。別に悠司が悪い訳じゃない。どちらかと言うと私が悪いの。私がわがままだから」
悠司に自分の夢をもっと理解してほしかったという思いはあったが、それを理に言うつもりはなかった。長年親友の二人が揉めるのを見ることほど、つらいことはない。
「悠司は成瑠美が店を開くことに反対なのか」
「うん」
「そうかあ、あいつ、そんなことおれには一言も言わなかったけどな」
「そもそも私がこんなに本気だなんて思ってなかったみたい」
「うーん、そうかあ」
そこで理は、あごに手をやり考えこんだ。そんな理を見て成瑠美は続けた。
「前からなんとなく思ってたんだ。もうだめかもって。だから今回のプロポーズには正直驚いたけど、でもお店を開くことは前から決めてたことだったしね。申し訳ないとは思ってるんだけど」
理を前にすると我ながら殊勝な言葉がポンポン飛び出すから不思議だ。昨日から心のなかで悠司の無理解に悪態ばかりついていたのに。
「そうか。成瑠美が決めたことなら仕方ないと思うよ。でも悠司はかなりショック受けてたみたいだったなあ」
「うん、もう少し考えさせてほしいって言ってた」
でも、考えてみても答えは一緒だ。悠司には成瑠美の夢を応援する気なんてさらさらないのだろうし、ここで別れた方がお互いのためなのだ。
悠司との思い出が成瑠美の脳裏をよぎった。
一番初めに会ったのは、まだ高校生の頃、理が悠司を家に連れて来たときだ。悠司は成瑠美を理から紹介されて言った。
「なかなか可愛い子だね」
成瑠美はそれを言われてどきっとしたのだ。悠司の切れ長の目がにっこりとしたのに見とれる自分に気付くと一目散で理の部屋を出たのだった。
でも今となっては懐かしい思い出だ。そんなことより、成瑠美には大事なことがあった。
「お兄ちゃん、起きたばっかりのとこ悪いんだけど、これ試食してみてくれない?」
成瑠美はにっこり笑って、焼きあがったばかりのチーズケーキスフレを理に差し出す。
「う、うん」
理は観念したように、スフレの皿を受け取った。成瑠美はその様子から、理がケーキを譲ってくれるのは、ほんとはケーキ全般があまり好きじゃないからなのではと疑い始めた。
そしてあっと言う間に夏はやってきた。庭の朝顔はもうすぐ二階のベランダに到達しようとしている。お盆休みを目前にして、理はみんなでバーベキューをしないかと言い出した。
メンバーは、理、悠司、成瑠美、明美の四人だ。成瑠美と悠司の仲は、今までになく冷え切っていた。成瑠美からは一切連絡しなかったし、悠司は悠司でどうすれば成瑠美が今までのように付き合ってくれるのかさっぱり見当もつかないようだ。
成瑠美が洋菓子店開店を諦めてくれる方法ばかり考えているようだと理から聞かされていた。このバーベキューが、そんな二人の関係を修復するために企画されたものだということにすぐに気付いた成瑠美は、参加をしぶった。
「お兄ちゃん、私行かないよ」
「まあ、そう言うなって。行ったら案外楽しいかもしれないよ」
「やだなあ、もう。私たちのことはほっといてよ」
「いや、別にそういうつもりじゃないよ。嫌だったら話さなきゃいい。明美とだけ話しすればいいよ」
「うーん。もう、強引なんだから」
待ち合わせ場所に現れた悠司はなんだか不機嫌そうにしていた。成瑠美はなるべく視線を合わせないように、明美とのおしゃべりに集中した。
理の運転する車は三十分ほどで、佐久穂町にあるキャンプ場へ到着した。理と悠司がキャンプ場へテントなどの荷物を運びこむ間、明美と成瑠美は日陰で休んでいた。
「ねえ、成瑠美のお兄ちゃんてカッコいい人だね。さわやかイケメン」
明美は、重い荷物を軽々と運ぶ理を見ながら言う。そういえば、明美は、悠司には会ったことがあるが、理とは初対面なのだ。
「そう? どこが? 見た目、それとも雰囲気?」
成瑠美にとっては普段見慣れた兄である。
でも確かに中学生くらいのときから、よくモテたことは知っている。しいていえば少し彫りの深い目鼻だち、まっすぐに伸びた細くてきれいな鼻筋、いつ見ても絶妙なカーブを描くきれいな形の眉が、女受けするのも分からなくもないような気もする。
「両方かな。性格も優しそうだし」
「それは間違いないね。お兄ちゃん、私にはめちゃくちゃ甘いしね」
「いいなあ。私もそんな兄がほしかった」
「明美ちゃんのとこは、妹が一人の二人姉妹だっけ」
「そ。けんかした記憶しかないよ」
「はは。大変そうだね」
そこへ理が遠くから声をかけてくるのが聞こえた。
「おーい、テント組みあがったぞー。野菜切るの手伝ってくれ」
成瑠美はお菓子だけでなく、料理全般も得意だ。今日は朝から、特製のたれに鶏肉を漬け込んできていた。ニンジン、ナス、ピーマン、キャベツといった野菜を成瑠美は軽快に切ってゆく。
トントントン、トントントンという音が小気味よく響く。一方の明美は苦戦していた。普段料理はあまりしないらしい。そこへ助け舟を出したのは意外にも、悠司だった。気が合うらしく、二人で仲よく切っている。
その様子を成瑠美は意外な気持ちで遠巻きに見ていた。元々性格の似ている二人だ、うまがあって当然かもしれない。
「嫉妬しちゃうかい?」
いつの間にか成瑠美の後ろにきていた理がそっと囁く。
「うるさいなあ、ほっといてってば」
理は肩をすくめて、釣り竿をもって釣り堀へ向かって歩いていった。このキャンプ場では釣りもできるらしい。
「私、理さんのとこ行って一緒に釣りしたいな」
明美は急にそう言って、野菜を放り出して、釣り堀へ小走りで走っていった。成瑠美と悠司がテント下に残された。急に気まずい空気が流れ出して、成瑠美はここから逃げ出したい気分になる。
少し離れた場所から、悠司はぼそっと言った。
「なあ、成瑠美。俺考えたんだけど」
「何」
「俺、成瑠美の目指してること、全然考えてなかったなって反省してる」
「だから何」
成瑠美はつい言い方が冷たくなってしまっている自分を止められなかった。
「これからはもっと成瑠美の話も聞くようにするよ、だから」
悠司が成瑠美に向かって歩いてくる。成瑠美は後さずりしたい気持ちを必死で抑えた。
「もう一度、俺にチャンスをくれないか。俺は成瑠美と別れたくない」
悠司にそう言われても、成瑠美の気持ちは揺れなかった。冷静な自分に成瑠美自身が驚いていた。これからは一人で自分の道を進んでいきたい。これが今の成瑠美の偽らざる本心だ。
「気持ちは嬉しいけど、もう無理だよ。私たち。このまま別れた方がお互いのためだと思う。これからはお互いにいい友達でいよ」
悠司は悔しそうに下を向いた。成瑠美は、明美の残していった野菜を切る作業を続けることにした。
しばらくすると、すっかり意気投合した様子の理と明美が帰ってきた。
「お兄さん、とっても釣りうまくて私びっくりしっちゃったー。ニジマス五匹ゲット!」
「いやいや、それほどでもないよ」
テントの下の険悪な雰囲気をよそに二人は笑顔で戻ってくる。
「もお、遅いよ」
そう言いながら、成瑠美は誰ともでもすぐ仲良くなれる二人の性格がうらやましかった。こんな人見知りの私にはもう一生、彼氏なんてできないのかもしれない。
いや、それでも私には夢があるんだから。これからは自分のお店を開くという夢が私の片思いの相手。もしお店を持てたら、その店こそが恋人、そう思うと成瑠美は実現に向けてもっともっと努力しなくてはと焦りの気持ちすら生まれていた。