第五話 兄と太陽
翌日は月曜日で当然ながら仕事だった。成瑠美はため息をつきながら、しぶしぶベットから重い体を起こす。昨日深夜までチーズケーキの試作に取り組んだせいで、寝不足だ。
三時までかかってやっと焼きあがったスフレは、一応おいしい部類には入ったものの、成瑠美のイメージする理想のスフレとは似ても似つかなかった。どこかで昨日明美に言われた言葉がこだまする。この程度で店を出そうなんて、私の考えはやっぱり甘いんだろうか。
「あーあ、スフレはうまくいかないし、仕事のこと考えると気が滅入るし、いいことないなあ」
朝食を食べながら成瑠美がそう呟くのを、理は聞き逃さなかった。ふみえはまたケーキの話、という顔をする。
「なんだ、朝から元気ないなあ。ほら、これでも食べて元気だせ」
そういって、理は自分の皿に乗っていた卵焼きを成瑠美の皿に乗せる。いつもならありがたく受け取るところだが、今日は全然うれしくない。昨日試作したチーズケーキがまだ胃のなかに重く残っているからかもしれない。
成瑠美は、朝からきりっとした表情で仕事に向かおうとする理が羨ましかった。理は、東京の有名私立大学で経済学を学んだあと、地元の佐久に戻り、大手銀行で銀行マンをしている。営業成績もいいため上司受けもよく、面倒見がいいので後輩からも慕われているようだ。
出来の悪い妹がいる以外に理には悩みなどないのではないか、そう思って成瑠美は小さく呟く。
「私もお兄ちゃんみたいに生まれてきたかったな」
「うん? なんか言ったか?」
「なんでもない」
成瑠美は黙って朝食を片づけることに専念した。そして、半ばやけくそで目玉焼きの最後の一切れを口に突っ込むと、歯を磨きに洗面所へ歩いていく。そこにはひげを剃る理がいた。
「あ、歯磨く? いいよ。先に使って」
そういって洗面台を成瑠美に譲ると、すれ違いざま、理は小声で言う。
「お店のこと、おやじを説得しといたから」
「え」
成瑠美が振り返ると理はひげそりを持っていない方の手で、親指を上げグーのポーズをした。やっぱりお兄ちゃんには敵わない、一体どんな魔法を使ったんだろうと、成瑠美は首をひねった。
どんなやりとりがあったのか詳しく聞こうにも、今は時間がない。遅刻だけは回避したかったので、急いで仕度して家を出た。
「あ、佐藤さん、来たね。さっそくで悪いんだけど、これやっておいて」
おはようございますと言い切らないうちに、成瑠美が上司からどんと渡されたのは、大量のデータ入力の仕事だ。それほど複雑ではないのだが、入力するデータが大量にありすぎて、チェックが大変なので、成瑠美はこの手の仕事が苦手だった。
「あと、今日は十時からお客が来るから、お茶出しお願いね。第三会議室に六つ」
「はい」
お茶出しも成瑠美は好きではなかった。コンコンとドアをノックして、会議室内に入るときに一瞬、全員の視線が自分に集まるのが、なんとも言えず嫌なのだった。もちろん、音に反射的に反応しただけで、誰も自分にさして関心があるわけではないのは分かっているのだけれど。
午後になって、また上司から呼び出しがあった。おそるおそる上司の机の前に立つと、上司が不機嫌そうに言う。
「君が昨日作った見積書、間違っているよ、赤字にしておいたから直しておいて。前も言わなかったっけ、これ。気をつけてよ、ほんとに」
「あ、はい。すみませんでした」
成瑠美は頭を下げて、見積書を受け取りながらもなんだか釈然としない思いが残った。赤字の箇所は、これでいいかと前回聞いたら、それでいい、今度からそうしようと言われたから、わざと直さなかったのだ。
多分上司は自分で言って忘れている。そう思ったが、成瑠美には言い返す勇気がなかった。なぜだか自分でもよく分からないのだが、人と対立することが、成瑠美はどうしようもなく怖いのだった。
できれば波風を立てたくない。自分が我慢すればすむのなら、そうすればいいと思ってしまう。昔あった出来事がトラウマとして心の奥底に残ってしまったのだろうとは思うが、じゃあ具体的に何かと考えても思い当たる節がないのだった。
きっとよほど自分にとって不都合な思い出なのだろう。それならば、と成瑠美はあまりそのことについてつきつめて考えないようにしていた。
しばらくして上司が成瑠美に駆けよってきて言った。
「いやいや、佐藤さん。あの見積もり、やっぱり、あれだ。そのままでいいんだった。俺がこうするように頼んだんだよね。ごめん。赤字いれちゃったからもう一回印刷してくれる?」
あはは、とごまかすように笑って上司は去っていく。成瑠美は小さな苛立ちを感じながらも愛想笑いを浮かべた。そしてどうにかこうにか今日の分の仕事を終えると、成瑠美は逃げるように定時で会社を出た。
チーズケーキ作りの方は難航していた。はやり、思ったような味にならない。理に相談すると、十分おいしいのだから、そんなにアンリのチーズケーキにこだわらなくてもいいんじゃない、と優しく言ってくれる。しかし、成瑠美はやはり納得のいくまで試作を続けようと思った。
「え、そりゃ、明美ちゃんの言うことは正しいよ、そうだ、成瑠美。考え直すなら今かもな」
明美に開業のリスクを分かっていないと言われて落ち込んでいることを電話で悠司に話すと、悠司はあっさりとこう言ってのけた。成瑠美は、悔しくてもう電話を切ってしまおうかと思ったほどだ。
明美はともかく悠司まで。二人の性格は似ている。奥歯に挟まったようなものの言い方はしない。どんな話題でもストレートにすぱっと言い切る。成瑠美とは自分とは対極の性格を持つ二人の性格を普段はうらやましく思うのだが、こんなときは心底嫌になる。
「もういい。わかった。この話はこれでおしまい。それより明日は何時出発にする?」
そう言いながら、成瑠美は悠司との間に埋めようのない溝があるのを感じていた。これはもうどうしようもないのかもしれない。
私一人の努力でどうなるわけでもない。脳裏に理の顔が浮かんだ。別れたいと言ったら、きっと心配していろいろ聞いてくるだろう。正直に話すしかない。今度の旅行に行って帰ってきたら、正直に自分の気持ちを悠司にも理にも話そう、成瑠美はそう心に決めていた。
悠司は自動車修理工場で、整備士の仕事をしている。普段の休みは平日しかないのだが、今回の旅行のためにわざわざ成瑠美に合わせて土曜日に休暇を取った。
悠司が成瑠美の家まで迎えに来てくれて、二人で夜明け前に出発した。渋滞を避けようと三時半には起床したため、成瑠美は眠い目をなんとかこじ開けて、悠司の話に耳を傾けた。
なんでも最近変なお客がよく来るらしい。クレーマーのような感じだ。
「一度直したところ、まだおかしいって言って何度も来るんだよ。その度、おれもよく見るんだけど、何も不具合は見つからなくてさ」
「へえ、大変だね」
成瑠美は悠司の愚痴になるべく同調するように努めた。悠司は成瑠美が自分に合わせるのが当たり前のように話し続けるが、成瑠美は次第に疲れ、相づちを打つ回数も少なくなっていった。
国道一四一号を通り、河口湖を抜け山中湖に近付くと目的地まではすぐだった。
「忍野八海って不思議な名前だね」
成瑠美はパワースポット巡りが好きだ。悠司はそれを知っていて、パワースポットで有名な忍野八海を今回の旅行に選んでくれたようだ。湧水のでる場所がパワースポットと呼ばれることは多い。
忍野八海も同じで、山梨県の南東部に位置する忍野村の一番の観光名所になっており、富士山の溶岩下の伏流水が湧き出る池がいくつも点在している。
悠司が車を停めた駐車場から一番近い池は御釜池だった。駐車場から観光客用の舗装されていない歩道を歩いていくと一つ目の池はすぐだった。それほど大きくはない。いびつな形をしているが、広いところで直径四メートルくらいだろうか。
どれくらいの深さがあるのだろうと成瑠美は懸命に覗きこんだが、水面で光が反射してしまい、空の青さや周りに生える木々を映すばかりで一向に池の底の様子は分からなかった。まるで人間に本当の姿をみせるのを拒んでいるかのようだ。
「この池ってなんだかミステリアス」
成瑠美は面白くなってそう呟いた。それこそが、この池の魅力だ。池も人間もミステリアスなところがあった方が魅力的に映るのかもしれない。それに比べて、とつい成瑠美は考えてしまう。
――私たち、付き合い出してからもう七年も経つ。悠司のなにもかもをもう知りすぎてしまっている。だからきっともうあまり魅力を感じないのかも。
成瑠美は悠司に分からないようにそっとため息をついた。なんでも率直な意見を言う悠司が、付き合いだした頃の成瑠美には新鮮だった。けれど今はかなりうんざりしてしまっている。もっと言葉を選べないものだろうかとすら思ってしまう時がある。
分かりあえない、ということがこんなにも二人の付き合いに行き詰まり感をもたらすとは正直考えてもみないことだった。いや、最初からなんとなく分かってはいたのかもしれない。けれど成瑠美の方でそれをあまり直視しないようにしてきたのかもしれなかった。
水面から三十センチのほど下で、魚が優雅に泳いでいた。最初は淡水には定番の鯉だろうかと思ったが、目を凝らすと体の表面に黒い斑点がある。どうやらニジマスらしい。
「ほかの池も見てみよう」
そう言って悠司は、成瑠美の手をとり歩き出した。ほかにも濁池、銚子池、湧池、出口池、鏡池、菖蒲池と名前のついた池がいくつもあった。
観光用に作られたという中池は、水深がほかの池より格段に深く、そのなかには沢山のニジマスが泳いでいた。ほかにも種類の違う魚がいるようだ。
悠司は特に中池が気に入ったようで、デジカメのシャッターを何度も切る。成瑠美は少し離れたところからその様子を眺めていた。それにしても長い。待ちくたびれた頃、悠司が戻ってきた。
「悪い。つい夢中になっちゃって。少し休もうか」
成瑠美は頷いた。少し歩いたところに公園がありなかにベンチがあった。二人でそこに座る。成瑠美はぼんやりと目の前に広がる茅葺屋根の家々を眺めていた。悠司は中池で撮った写真をデジカメの画面でパラパラ見ている。しばらく沈黙が続いたあとで、唐突に悠司は話し出した。
「あのさ、俺今度、今勤めてる整備工場の責任者になるんだ。今の工場長は定年で辞めるんだって。そしたらさ」
成瑠美は、さっぱり次の展開が読めなかった。そしたら何だと言うのだろう。悠司は自分を落ち着かせるように大きく深呼吸した。
「そしたら、俺達、結婚しないか」
成瑠美は、唖然とした。男と女ではなぜこうも考えることが違うのだろう。成瑠美はこの旅の終わりに別れ話を切り出そうと思っていた。けれど、悠司は悠司でこの恋愛に全く別の方向から一つの区切りをつけようとしていたのだ。成瑠美は、ああ、ついに決着をつけるときがきたと覚悟を決めた。
「悠司は私が洋菓子店を開くことに反対なんでしょ?」
成瑠美が恐る恐る聞くと、悠司は大きく頷いた。
「ああ。できれば結婚しても今の仕事、続けてほしい」
成瑠美の心のなかで、ほらやっぱり予想通り、という気持ちと裏切られたような気持ちが交錯する。今まで悠司には何度も洋菓子店開店の夢を語ってきた。
でも、それでも悠司はその夢を話半分にしか聞いていなかったようだ。成瑠美は大きく息を吸って、一息で言った。
「私の夢は洋菓子店を開くこと。それも二十代のうちに。仕事もそのうち辞めるつもり。悠司にこれを言うのは初めてじゃないよね」
悠司は驚いた様子だ。
「本気なのか」
「もちろん。悠司はいつもわたしの話を聞いてくれないよね。わたしはいつだって真剣なのに」
悠司は、困った顔をして成瑠美を見た。
「ごめん。別に悪気があったわけじゃないんだ。そんなに本気だなんて思わなかったから。洋菓子って、たかがお菓子だろ。そんなの佐久にはいっぱいあるよ。俺が工場長になったら好きなだけ買ってやれる。だからわざわざ、成瑠美が作って売る必要なんてないじゃないか。やるにしても趣味でやるとか」
たかがお菓子。趣味。その言い方に成瑠美は納得できなかった。逆鱗に触れるとはこういうことなのだろうと思いながら、成瑠美は思わず声を張り上げていた。
「いやなの。私はそんなの嫌。自分でお店をもつことに意味があるの。分かってくれないならもう悠司とはやっていけない」
こんなに自分の想いをはっきり口にしたのは何年ぶりだろうか。成瑠美は、声に出して言ってみて、自分の本心を口にするのはなんて爽快な気分になるんだろうと驚いた。
――そうだ。私ずっと自分の想いを口にできないでいた。言ってしまえばもう戻れなくなるって分かってたから。でももう我慢なんかしなくていいんだ。もう私は終わりにするんだから。
悠司は呆然として言葉を失っていた。しばらくの沈黙のあと、悠司は呟いた。
「俺には分からないな」
「分からなくていいよ」
成瑠美が投げやりに言うと悠司は首を横に振った。所詮、成瑠美の夢など悠司にはどうでもいいのだ。
「いや、どうして俺達が別れなきゃならないのかが分からない」
悠司はじっと成瑠美を見つめたが、成瑠美にはその視線が痛かった。
「どこかに妥協点があるはずだ。それを二人で探そう」
「つまり、このままの付き合いを悠司は続けたいってこと?」
成瑠美はしゃべりながら混乱していた。妥協点を探すってどういうこと? 成瑠美は絶対に夢を諦める気はなかった。では悠司が考えを変えてくれるというのか。よく分からないがどんな結論が待つのか見てみたいような気もした。悠司は白黒はっきりしないと気が済まない性格だが頑固者ではない。
帰りの道は渋滞していた。特に河口湖大橋の辺りの渋滞がひどくなかなか前へ進めない。成瑠美は黙ったまま、夕日に染まった河口湖をぼんやりと見ていた。
――河口湖はお兄ちゃんみたい。
成瑠美は無意識のうちにそう考えてしまって、なぜ今ここでその名前が出てくるのだろうかと自分でも不思議だった。
けれど大きな太陽をまるごと飲みこもうとする目の前の湖は、本当に見つめれば見つめるほど、寛大でおおらかな兄、そのものだと思えてくる。
絶対に勝てない大きな大きな存在。いや、そもそも勝とうとしてはいけないのだ。理はいつも全力で成瑠美を守ってくれる。その心地良さに包まれているだけで十分に幸せなのだから。成瑠美はただ無言で遠くに沈む夕日を見つめていた。