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虹の輝く頃  作者: 丸山梓
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第四話 カラシ色

 土曜日の午前中の小海線は空いていた。臼田駅から乗ると車窓にはいつもと変わらぬ田園風景が広がる。進行方向の右手奥には浅間山の雄大な姿がみえた。山頂から出る少しの噴煙と相まって、秋空によく映えている。


 浅間山はたまに小規模に噴火している。二○○九年に噴火したときには、佐久地方に広く火山灰が積もった。ああやって少し煙が出ているくらいが、噴火する兆候がなくて安心なのだと、成瑠美は昔から聞かされて育った。いつもは車で来てしまうけれど、たまにはこうして電車に乗るのもいいものだと、成瑠美は思う。


 佐久平駅で降り改札を出ると、右手に大きな建物が見えた。いつくものテナントが入った大型のショッピングセンターだ。成瑠美はここでいつもセールの洋服を買ったり、ケーキ用の食材を揃えたりしていた。

 

 でも今日はそこには寄らずに駅のロータリーを出て左に向かって歩いた。少し行くとなじみの洋菓子店、アンリがある。そこで新しい種類のベークドチーズケーキを販売し始めたと聞いて、今日は休日にも関わらず頑張って早起きしてやってきたのだった。


 自動ドアをくぐるとショーケースの向こうに立つ定員と目があった。年は二十代前半だろうか。若くてかわいらしい雰囲気の子だ。


「いらっしゃいませ」


 成瑠美は軽く会釈をして、目的の商品はどこかと探した。一番左側のショーケースにそれはきれいに並べられており、成瑠美は安堵した。


――よかった。まだ売り切れてなかった。


 成瑠美は軽く手を上げて定員に声をかけた。


「すみません。これ四つ下さい」


 成瑠美の家は四人家族だ。成瑠美の両親と兄の理で四人。できれば猫のぶーちゃんの分も買っていきたいところだが、猫に甘いものは体に毒なので我慢した。家に帰って三時になるのを待ち、お茶にしようと、全員に声をかけ、紅茶を淹れた。


「なんだ、今日はうまそうなものがあるじゃないか」


 父功雄が目を細めて言う。功雄が座った席の後ろには、功雄とふみえの結婚式の写真が飾ってある。二人の右サイドには大きなウェディングケーキ。お城のような奇抜なデザインだ。


「まあ、おいしそうなケーキ」


 母ふみえも嬉しそうだ。


「うん、佐久平のアンリで買ってきたの。チーズケーキ始めたんだって」

「あ、おれ、紅茶だけでいいや」


 そう言ったのは、理だ。


「えー、せっかく四人分買ってきたのに」


 成瑠美はふくれてみせた。でも本当は理が自分に譲ってくれているのだというのを成瑠美は分かっていた。


 成瑠美のケーキ好きは今に始まったことではない。成瑠美がケーキを買ってくる度に、理は甘いものは苦手と言って成瑠美に二つ食べるように言うのだった。

 

 成瑠美はそれを心得ていて、一つは何も考えずおいしくいただき、もう一つは研究用にじっくり味を吟味して食べた。その材料が何で構成されているかを考えるのが楽しかった。


 特にチーズケーキはお店の看板商品にしたいので、これでもかというほど試作を繰り返してきた。


 成瑠美はアンリのチーズケーキの前評判の良さを聞きつけ、これは絶対に口にせねば、そして自分のケーキ作りに活かせるのであれば、真似したいと思っていた。


 父が一口ほおばり、うんうんと嬉しそうに頷くのを尻目に、成瑠美は、チーズケーキをそうっとフォークで一口分すくい口へ運んだ。


「!」


 なんともいえない衝撃が成瑠美を襲った。この味はなんだろう、いまだかつて経験したことのない濃厚さだ。しかも一口目はこんなにも濃厚なのに後味はとても軽い。


 使用している卵が新鮮なのか、クリームチーズが特殊なのか。それとも焼き方に工夫があるのだろうか。分からない。でも間違いなくおいしい。噂どおりだ。普通のベークドチーズケーキじゃない。成瑠美はケーキ二つをあっと言う間に食べきって、思わず呟いた。


「この味、絶対真似したい」


 それを聞いた功雄は厳しい顔になる。


「成瑠美、まさかケーキ屋をやりたいなんで言わないよな?」


 功雄の一言で、この場の空気が凍りつくのが分かった。しまった、でももう遅い、どうする、と成瑠美は心の内で焦りまくる。ちらりと横目で理を見ると理は、なぜか穏かな、それでいて覚悟が決まったような顔をしていた。


 理と練りに練った洋菓子店開業の計画は、まだ両親には話していなかった。両親はなぜか成瑠美が洋菓子に関わることを毛嫌いしている節がある。けれど、その理由が成瑠美にはさっぱり分からなかった。ふみえも功雄の言葉に重ねるように言う。


「ケーキ屋さんなんて、私たち許さないわよ。それは昔からの約束よね」


 父と同じく、洋菓子が絡むと、いつも優しく穏かなふみえの顔が一変するのを、成瑠美は幾度も目にしてきた。製菓学校に通うのもダメ、洋菓子店スタッフとして働くのもダメ。とにかくその徹底ぶりには目を見張るものがある。


 成瑠美はフォークを置いて、神妙に頷いた。


「お父さん、お母さんの気持ちは分かってる。でも私」


 成瑠美が、あとは野となれ山となれという気持ちでさっと顔を上げると、その瞬間、隣で理が口を開いていた。


「いいよ。あとはおれが説明する。成瑠美の洋菓子店はおれも出資して出します。店の運営に関してはおれも関わるんで安心してください。見込みがなければこんなことしません。信じてください。お願いです」


 しばしの沈黙のあと、功雄が口を開いた。


「理、この話はまたあとで相談しよう」


 ふみえはまだ何か言い足りなそうに功雄を見たが、さらに成瑠美たちを追及しようとはしなかった。三時のお茶はそれでお開きになった。


 その夜、成瑠美は悠司の携帯に電話した。


「今日ね、すごいケーキ見つけちゃった」

「へえ、どんな」


「それがね、食べたことないチーズケーキなの。今度、悠司にも買ってってあげる」

「ふうん。舌の肥えた成瑠美が言うんだから、きっとすごいんだろうな。ところでさ、前言ってた旅行の話、いつがいいかな?」


 悠司の言い方はとても淡々としていて、成瑠美はがっかりしたが、悠司が話題を変えたので、成瑠美はしぶしぶ、それに合わせた。


「ああ、ええとね」


 悠司は理の高校の同級生であり親友でもある。理が高校生のとき悠司が、家に遊びに来たのが縁で、二人は付き合うようになった。


 もう七年目の付き合いだが、なんだか最近二人の間にすき間風が吹いているように思え、成瑠美にはそれが辛くて仕方なかった。かといってそれは兄には言えないことだった。


 言ったら、いつも成瑠美の肩をもつ兄が、悠司になんというか分かったものではない。成瑠美は悠司の話に適当に相づちを打ちながら、心のなかでため息をついた。


 翌日は明美と会う約束をしていた。明美に会ったらその帰り道、チーズケーキの材料を買って帰ろうと決めていた。あの味を絶対に再現するのだ、そう思うと成瑠美は胸のわくわくを抑えることができなかった。


 チーズケーキには三種類ある。一つはスフレ。ふわっとした軽い口当たりが特徴だ。二つ目は昨日食べたベークドチーズケーキ、三つ目はレアチーズケーキだ。どれもそれぞれ持ち味がありそれぞれにおいしいが、成瑠美はなかでもスフレが大好きなのだった。もしお店を出すことができたら、店の看板商品にしたい。


 待ち合わせ場所の市役所前に行くと明美はもう来ていた。


「なんだか今日はとても浮かれてるね」


 明美は成瑠美に呆れたようすで言う。成瑠美は笑顔で大きく頷いた。明美のお気に入りのレストランで食事をする間も成瑠美はチーズケーキのことばかり考えていた。


 ナスとモッツァレラチーズのパスタを口に運びながら、スフレにはやはり生クリームではなく水切りしたヨーグルトがいいだろう。ヨーグルトの方がさっぱりするし、カロリーも抑えられる。それならヨーグルトのメーカーはどこにしようなどとケーキ作りばかりに思いを巡らせていると、いきなり明美が大声を出した。


「もお、聞いてるの? 真面目な話なんだけど」

「あ、ごめん、ごめん。えっと、何だっけ?」


 明美は美容師だ。遠藤さんという先輩が新しいお店をオープンするので、主力のスタイリストとしてお店を手伝ってもらえないかと頼まれているらしい。けれど、今いる所にも不満があるわけではなく、明美は本当に迷っているのだった。


「成瑠美ならどうするって聞いてたの」


 成瑠美は一も二もなく即答した。

「ああ、うん。私なら遠藤さんを信じてついていくよ」


 明美の勤める美容院に成瑠美は客として通っているので、その先輩とは面識があった。筋肉が隆々としていかにも体育会系です、という雰囲気なのに、笑顔がとても人懐こく年上という感じがしない男性だ。


 遠藤さんというその男性はついに独立して自分の店を開くのだった。遠藤のあの人柄なら、きっとその人柄の惹かれた客が引きも切らないのではないだろうか。


「いいなあ、私も早く自分のお店を持ちたい!」


 成瑠美がうっとりして呟くと、明美は急に冷たい声で話しだした。


「いいよね、成瑠美はなんていうか、単純で。よく言えば純粋だけど。自分のお店を開いて維持するってそんなに簡単じゃないよ。独立した結果、うまくいかなくて結局お店たたんだ人知ってるし。成瑠美はうまくいった場合しか考えてないでしょ。閉店に追い込まれるリスクだってあるんだよ。もし、そうなったとき、困るのは自分。そういうこと考えたことある?」


 成瑠美は思わずうつむいていた。そうだ。明美の言う通りだ。アンリのチーズケーキを食べて浮かれていたが、現実はそんなに甘いものじゃないんだった。そんな成瑠美を見て、明美は慌ててフォローする。


「ごめん、言いすぎた。でもこれで気持ちの整理ついたかも。私は遠藤さんにはついていかない。今の職場で頑張るわ。なんだかんだいって、私は今の会社に守られてるの。お店の売上が落ちたって、県内に複数の店舗があるから毎月のお給料は保証されてる。それに私は今の職場の明るい雰囲気が好き。成瑠美と話してよくわかった。ありがとね」


 そう言って、明美は笑ったが、成瑠美はうまく笑い返すことができなかった。成瑠美は繊細な性格で、明美の竹を割ったようなストレートな物言いに深く傷つくことがある。


 明美のことは好きだけど、これからもうまくやっていけるだろうか、と成瑠美は心の中で大きくため息をついた。


 明美と別れてから、本屋で独立や開業に関するコーナーの前に立って、役に立ちそうな本はないかと物色していると、一人の中年の女性が成瑠美の隣に立った。


 カラシ色のジャケットに紺色のスカート、先のとがった紫パンプスを履きこなしている。その都会的な着こなしに成瑠美は思わず見とれた。こんなファッションセンス豊かな女性はこの佐久周辺にはそうはいない。


 その女性も同じコーナーに興味がある様子だ。成瑠美はその女性の邪魔になってはいけないと思い、立ち読み中の本を持ちながら、女性のいる側とは反対側へ一歩よけた。ふいに女性はこちらを見て会釈してくる。


「どうもありがとう」


 成瑠美は、よけたことに対してお礼を言う人に未だかつて会ったことがなかったので、少し面食らい、静かに頭を下げた。極度に人見知りする成瑠美は、面識のない人と会話をするのが苦手だ。なるべくならあまり関わりたくない。


 そんな成瑠美の気持ちをよそに女性は成瑠美をしっかり見て話しかけてくる。


「あなた、何かお店を開きたいって思ってるの」


 成瑠美が手にしていた本のタイトルは『これ一冊で簡単・開業早わかりマニュアル』だった。女性はそれを見て言っているのだと成瑠美は思った。


「あ、はい」

「何のお店? コンセプトは?」

「洋菓子店です。コンセプトは世界一おいしいチーズケーキを出すお店」


 成瑠美は言いながら自分で恥ずかしくなった。世界一なんて本当にそんなことが可能なのか。さすがに大風呂敷を広げすぎなのではないだろうか。その女性は成瑠美のそんな気持ちを見透かすように言う。


「あなた、今自分で言って恥ずかしくなったでしょう。だめよ。それじゃ。人がなんて言おうと自分を信じるの。自分が信じられないのに、それが現実になるわけないでしょ」


 女性の言い方は毅然としていた。でも目はにこやかにほほ笑んでおり、成瑠美は厳しいことを言われたのに、その表情になぜか安らぎを覚えていた。初対面の人と話すとき、いつも相当な緊張が走るのだが、こんなに安心感を覚えたのは初めてだ。


「はい」


 成瑠美も無意識のうちに笑顔で頷いていた。しかし、この人は一体何者なのだろうか、という思いも一方で脳裏にかすめた。


「でも、あなたのように夢に燃えている若い人を見るとうれしいわ。私も頑張らなくちゃって思える。負けないわよ。ふふ」


 笑いながら、女性はしばらく本棚を見つめたあと去っていった。カラシ色のブレザーが遠ざかっていく。


――あの女性もきっと何か目標を持って生きているんだ。


 そう思うと成瑠美はなぜだか強く勇気づけられた気がした。強く生きている人のそばにいると、なんだか自分まで強くなったように錯覚してしまう。それにしても書店で他人に話しかけられるなんて滅多にないことだ。成瑠美は珍しいこともあるものだ、と首を傾げながら家路に着いた。


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