第二十一話 離れていても心はそばに
それから一年はあっという間に過ぎた。お菓子教室の講師を務めたおかげか、店を訪れる客の数も増え、店を開けた途端すぐさま完売する状態が続いた。店を移転するという張り紙に、寂しがる客も多かった。
「松本のお店で同じ商品を出しますので、よかったら来てください。ちょっと遠いですけどね」
もうこの店はなくなってしまうの、と悲しげに聞いてくる客に、成瑠美はいつも笑顔でそう答えるようにしていた。
曽野子は、松本でぱてぃすりー・えすぽわーるを継ぎます、だから一から全部教えてください、という成瑠美の言葉に純粋に喜んだ。この一年の間、ファックスで成瑠美に商品のレシピを毎月一品ずつ送ってくるようになった。松本に来てからちゃんと教えるけれど試しに作ってみなさい、ということのようだ。
「修行の道は厳しいけれど、後から振り返れば楽しい時間よ」
そう曽野子は成瑠美を励ますが、理想通りの出来にならないこともあり、成瑠美は大いに苦しんだ。分からない箇所は電話したり、直接、松本へ教えを請いに行くこともあった。
そんな成瑠美を理はただ黙って見ていた。
「お兄ちゃん、そんな悲しそうな顔しないでよ。私まで気持ちが沈んでくるよ」
「そうだよなあ。分かってる。分かってるんだけど」
兄の心中は複雑なようだ。
そして、パティスリー・ラ・メール・ルージュの営業最終日を迎えた。日曜日を最終日にしたこともあって、お客がひっきりなしに来ては、商品を買い求めていく。
成瑠美は、今までお店を続けることができた感謝の気持ちをこめて、丁寧な接客を心掛けた。最初は動悸すら感じていた接客も今では多少の余裕をもって対応することができるようになっていた。もちろん、まだ得意です、と胸を張って言えるほどの自信はないのだけれど。
商品を無事、全部売り切った辺りで、理が来た。
「お、もう完売か、早いね」
「うん」
成瑠美は改めて店内をぐるっと見まわした。連日早朝から深夜までの仕込み作業にへとへとに疲れたこと、売上が一時期下がってもう続けられないんじゃいないかと思った地獄のような苦しみ、早く新商品開発をという焦り、売り切ったときの喜び、本当にこの場所にはいろいろな思い出がつまっている。
「お兄ちゃん、今まで本当にありがとう」
成瑠美が頭を下げると、理は照れたように笑った。
「おれはただ、金出しただけだよ。あとは成瑠美の実力さ」
「ふふふ。うれしいこと言ってくれるね」
本当はそうじゃないことを、成瑠美はよく分かっていたが、黙っていた。決算書の作成や、税務署への確定申告、そういった事務方の作業をやってくれたのはすべて理だった。
「ここ閉めたら、ドライブに行かない? 片づけなんてまた明日から頑張ればいいさ」
「珍しいこと言うね。じゃあ、ちょっと待ってて」
成瑠美は最低限の片づけだけして、理の車に乗りこんだ。車はどんどん山道を登っていく。望月地区を抜け、立科町に入った辺りで視界が急に開けた。県道の両脇には耕した畑が一面に広がる。どうやら蓼科高原へ向かっているようだ。
成瑠美の店で出しているお菓子はほぼこの周辺で絞られた牛乳を使用している。その品質の高さにいつも成瑠美は脱帽するしかなかった。
――この大地、ここで働く人たち、ここの牛がいなかったら、今の私はきっとなかった。
途中、道の脇に見晴らし台のようなものを見つけたので、車を停めて登ってみた。
「うわあ、いい景色」
遠くまで連なる山々と、谷の深さ、木々の緑の濃さに成瑠美は思わず声を上げてしまう。遠くの空には虹がかかっているのが見え、自然の雄大さをより一層、鮮やかに浮き上がらせていた。
「あそこ、虹ができてる」
理が虹を指差す。
「あ、本当だ。すごくくっきり見えるね。きれい」
虹色のチーズケーキを売り出すときに勉強したことだが、虹の配色の順番は、その色がもつ光の波長によりいつも決まっている。上から赤、だいだい、黄、緑、青、藍、紫の順番になっているのが主虹、逆の順番になるのが副虹だ。
主虹の上に副虹ができると虹の帯の幅が広くなり、とても見事な虹になる。しかし、今日見えているのは主虹だけのようだ。それでもとても鮮明に見える。
「ねえ、成瑠美、虹ってどういう風にできるか知ってる?」
「光の屈折でしょ」
光の波長の長さによって、屈折率が変わるので、人の目に見える色も変わる。それが七色の虹になるのだ。と成瑠美は、新商品を発売したときに調べた、にわか仕込みの知識を得意げに披露した。
「うん。そう。正確には、水滴に入った光の光線が、水滴の中で三回屈折してできるんだよ。一回目の屈折は光線が水滴に入ったとき。二回目は水滴の反対側にぶつかったとき。そして最後はその光線が水滴から出ていくとき。逆に言えば、三回屈折しないと、あの綺麗な虹にはならないんだ」
「へえ、知らなかった。」
成瑠美はただ単純に関心して聞いていた。
理はお店の看板商品が虹のチーズケーキだったから、こんなことを言うんだろうかとも思う。しかし理の思惑は別のところにあったようだ。
「今度、成瑠美が引き継ぐ松本の店も同じさ。まず陽子さんが店を開いて、それからそれを曽野子おばさんが引き継いで、今度は成瑠美に。きっとお店は引き継ぐ度に、少しずつその形を変えていくだろう。だけど、だからこそいいんじゃないかな」
「私の番で、虹のように輝くってこと?」
成瑠美が茶化すように言うと、理は笑いもせず頷いた。
「うん。おれはそう信じてる」
成瑠美は、そんな兄が好きだと思った。いつも成瑠美を信じて、好きなようにやらせてくれる。成瑠美に対する絶対的な信頼がいつもそこにはあった。
「最初にも言ったけど、正直寂しいよ。とても寂しい。成瑠美を支えることがいつも間にか、おれの生きがいみたいになってたんだって改めて気付かされたよ。成瑠美を見守って支えるって大義があったから、今までおれも頑張って来られたんだと思う。ほんと感謝してる」
「うん。ありがと。ほんとになんてお礼を言ったらいいか分からないくらい私もお兄ちゃんには感謝してる。でもこれからは、お兄ちゃんはお兄ちゃんの人生を歩けばいいんだよ。自分を信じて、自分の好きなように」
理に幸せになってほしい、と成瑠美は心から思った。自分とは違うレールの上を理は歩いている。それはきっと生まれたときから決まっていることなのだ。いつも一緒だったから、たまにこれからもずっと同じ人生を歩いていくんじゃないかと錯覚してしまうけれど。
――愛している。
唐突に生まれてきた自分の感情に成瑠美は驚いた。そして、兄を見上げると、兄の目にも同じ感情を読み取ることができて、成瑠美はさらに驚いた。驚きつつも、ずっと前からそうであることを分かっていたような気もした。
――お兄ちゃんも、きっと私を愛している。
そう確信して、成瑠美は笑いながら泣いていた。理の愛情を確認できたことは嬉しいが、離れ離れに暮らすことは心が裂けるように悲しい。
笑い声と嗚咽は似ている。目をつぶって聞いているだけなら、どちらなのか分からないほどだ。それはもしかしたら、笑いと悲しみはクッキングシート一枚ほどの薄さしか違いがないからなのかもしれない。
これから先もし悲しいことがあったら、クッキングシートをめくるようにその悲しみをめくってみよう、そしたら、自分の泣き顔のあまりの不細工さに吹き出すように、案外簡単に笑えるポイントが見つかるかもしれない。
涙を拭きながら、成瑠美は言った。
「離れててもずっと気持ちはそばにいる。ね、お兄ちゃんならこの気持ち、分かってくれるでしょう」
私たちは戸籍上兄弟だから、普通の恋人のように暮らすことはできないのだ、成瑠美はこの現実を重く受け止めた。恋愛して、結婚して、子供を産んで、育てて、共に老いていくということができない。
でもだからこそ、お互いを尊重し、清く美しい関係でいられるのでは、という気もした。それは思わず笑ってしまいたいほど、嬉しいことだ。
「ああ、分かるよ」
理もまた泣きながら笑っていた。
「ずっと、祈ってる。成瑠美の幸せを」
理の後ろの虹の色がさっきよりも薄まっていた。今は一番上に見える色は黄色になっている。成瑠美には、それがカラシ色に見えた。
――カラシ色、全ての始まりになった色、私に勇気をくれた色。




