第二話 今は忍耐
成瑠美は、銀行のATМコーナーから出てきて通帳を一瞥するとにんまりとしていた。こつこつと貯めて来た貯金が、やっと今月の給料で目標の五百万円に届いたからだ。
「これでお店が開ける」
成瑠美は、銀行の駐車場で一人呟いた。わくわくする気持ちを抑えることができなかった。家に帰ってそのことを、リビングでテレビを観ていた兄の理に告げると、理は振り向いて笑顔で言う。
「おめでと、成瑠美。だけど、それだけじゃあ、お店は開けないよ」
成瑠美は、大好きな洋菓子店のモンブランのクリームが、栗ではなくさつまいものペーストでできていると知ったときのような大きなショックを受けた。四才年上の、頼りになる兄、理の言うことだからなおさらだ。
今までのこの涙ぐましいまでの節約はなんだったのだろうか。服、バッグ、靴、それに化粧品、とにかくほしいものすべて我慢して今まで頑張ってきたというのに。成瑠美はきっと理を睨んだ。
「どうしてよ」
理は、リモコンでテレビを消すと、至極当然とばかりに言う。
「だって、実家暮らしとはいえ、何かと日常的に出ていくお金があるだろ。歯医者行ったり、薬買ったり、車にガソリン入れたりするだろ。だとしたら、自分用に使えるお金も貯めておかなきゃ。最低あと百万くらいあれば安心だな、うん」
思案気に頷く理を尻目に、成瑠美は、うーん、なるほどと唸った。それでもなんだか無性に悔しくて言い返す。
「だって、お兄ちゃんが言ったんだよ。洋菓子店開業には五百万あれば大丈夫って」
「ごめん。ごめん。言葉が足りなかったよ」
なんだかんだで妹に甘い理は、ぽりぽりと頭を掻いた。
「おれも出資するからさ、許してよ」
しゅんとする兄を横目に成瑠美は考えていた。あと百万円貯めるのに一体何カ月かかるだろう。五百万貯めるのに五年かかっていることを考えると……。
「ああ、あともう一年」
成瑠美は一瞬しゅんとしてから、えい、と一声気合いを入れた。一年くらいすぐ来る。
「その間にできることから始めるもん。まずお店の名前でしょ、それからケーキのラインナップを考えて、それにお店の物件探しも!」
その元気な声に理も思わず口元を緩ませる。
「そうこなくちゃ、成瑠美」
成瑠美は、ふんっと腕まくりして自分の部屋のある二階へと上がっていった。
成瑠美がお菓子屋さんを開こうと思ったきっかけは、小学生のころから始めたお菓子作りだった。
内気で人と話すのが苦手な成瑠美にとって自分が作ったお菓子を人に食べてもらうことは、自分にできる数少ないのコミュニケーションの手段だった。家族を始め、家に遊びに来た友達も成瑠美の作ったお菓子を食べるとその出来栄えに誰しもが驚いた。
ホットケーキから始めて、クッキー、ゼリー、シフォンケーキと段々レベルアップしていき、中学三年にはシュークリームを見事に膨らませた。お菓子作りでは挫折しらずだった成瑠美が、高校に入って苦戦したのはアップルパイだ。
何度も試作を重ね、やっとパイが膨らんだときには嬉しかった。お菓子作りは手をかけただけおいしい味になる。その一方で当たり前だが、少しでも手を抜けば、すぐに味に出てしまう。そんなお菓子の正直なところも成瑠美は好きだった。お菓子は嘘はつかない。とても誠実で正直だ。
高校卒業後は絶対に製菓学校に進もうと思ったのだが、父親の反対にあい、それは叶わなかった。いつも成瑠美に甘い父だったが、そのときだけは、なぜか強く反対した。理由を聞いても安定しない職業だから、としか言わなかった。
このご時世に安定した職業と言えば公務員くらいじゃないかと思いながらも、地元の短大を出て、地元の企業に事務としてしぶしぶ勤め始めた。本当は地元の大きなパティスリーに勤めたかったが、はやりこの時も父の反対にあい、挫折した。
正直言って事務の仕事は、成瑠美にはさっぱり楽しくなかった。上司から頼まれた仕事をただ延々とこなすだけ、でもやってやれなくはない、という程度。
成瑠美は開き直って、ここで働いた給料はいずれ洋菓子店を開くときの資金にしようと決めた。大切な資金稼ぎであり、時間の無駄ではないのだ。
製菓学校に通えなくても、パティスリーで働くことはできなくても、いつか自分の作ったお菓子で、人を笑顔に、幸せにしてみせる。それが成瑠美の夢だった。兄の理はそんな成瑠美の一番の理解者だ。地元の銀行に勤める理は、成瑠美のよきアドバイザーでもある。
成瑠美は二階の自室で、ケーキのデザイン案を書いていると、そこに理が顔を出した。
「話があるんだけど、いい?」
なんだか今までにないほど、改まった理の様子に成瑠美も椅子に座ったまま背筋を伸ばした。
「うん」
「おれ、成瑠美の洋菓子店に五百万出すよ。だから成瑠美の五百万とおれの五百万、あと政府系金融機関から五百万借りて、全部で千五百万。これだけあれば、テナント料や店舗の改装費、設備費なんか含めても、極端に凝った造りにしたり、贅沢しなければなんとか足りると思う」
成瑠美は理の言葉にじーんときた。確かに今までもおれも出資するとは言ってくれていたが、具体的な数字を言ってくれたのは今日が初めてだ。
五百万、それは理にとっても決して小さな額ではないはずだ。理も成瑠美のためにこつこつと貯金してきていたのだった。
そういえば、理がここ数年、何かに大金をはたいたところを成瑠美は一度も目にしていない。車も中古車だし、大好きな戦闘機のプラモデルも滅多に買わない。買うならネットオークションで購入して安くあげていた。
成瑠美が感動のあまり目を潤ませ、何も言えないでいると、理は成瑠美の頭をやさしく、こつんと小突いた。
「洋菓子店、儲かったらちゃんと返してくれよな」
「もちろん」
成瑠美は大きく頷いた。夢が少しずつ現実に近づいてきている。成瑠美にはそれが手に取るように分かって、少し心臓がどきどきした。