第十七話 一人で大丈夫?
台風一過でよく晴れた秋の空が広がっていた。今日も気持ちがいいくらい商品が次々と売れていく。この分なら二時前には売り切れるだろうから、明日の仕込みに早く入れる、などと成瑠美が内心計算していたところ、ふと三十代くらいの女性と目が合った。
思わず会釈すると女性が近づいてくる。名前までは知らないが、いつもチーズケーキを買ってくれる常連さんの一人だった。
「いつもおいしく頂いてます、こちらのケーキ」
「あ、はい。いつもありがとうございます」
「あの、今日は店長さんに折り入ってお願いがあるのですけど」
「はあ」
店長と言われてもこの店には成瑠美一人しかいない。慣れない呼ばれ方に少し戸惑う成瑠美だった。
「私、市の職員をしてます竹内と言います。来季から始まるケーキ作りの講座で講師をしていただける先生を探しているのですが」
「はあ」
「来季はぜひこちらのお店のメニューを講座でご紹介いただけないかと」
成瑠美は一瞬何を言われているのかよく分からなかった。
「もちろん、市から謝礼が出ます。月一くらいのペースで半年間、なのですが、いかがでしょうか」
それを聞いて、成瑠美はようやく理解した。つまりは、お菓子作りの先生になってくれないかと言っているのだ。しかし、佐久市には洋菓子店も多くケーキ職人が沢山いる。そのなかでどうして私なのだろうか。
「ほかにも職人さんは沢山いらっしゃると思うんですけど。私なんて独学の素人ですし」
「うーん、まあいろいろな方に声をおかけしたんですが、多忙を理由に断られまして」
それを聞いて、成瑠美はこれはチャンスかもしれないと思った。お菓子教室をきっかけにこのお店をもっと多くの人に知ってもらいたい。そうすれば、さらに安定した経営ができ、理に心配をかけることもない。
公開するレシピも店でいつもやっているのより、もう少しシンプルなものにしよう。そうすれば一般の人にも親しみやすいし、なにより店の味を完全に再現することはできなくなる。
「私にとっても勉強になりそうだし、お引き受けしたいと思うのですけど。具体的に会場や流れなどを教えてもらえますか」
竹内と名乗った女性は、それを聞いてぱっと表情をほころばせた。
「本当ですか、うれしいです。私、本当にここのお菓子大好きなんです。私も講座に一回は参加させていただきますので」
そう言って竹内は意気揚々と帰っていった。
その夜、成瑠美は理にお菓子教室の講師の依頼があったことを告げると、理はあからさまに嫌な顔をした。
「え、成瑠美、それ、引き受けたの」
「うん。だって私にとっても勉強になりそうだと思ったから。なんで? お兄ちゃんは反対?」
「うーん。だって、今だってお店忙しいのに。せっかくの成瑠美の休日がなくなっちゃうよ」
理は成瑠美の健康状態を心配しているらしい。朝早くから仕込みとして、帰りは深夜という自分の生活のハードさを自覚していた成瑠美は、うーん、と一瞬考えたが、瞬時に首を横に振っていた。
「大丈夫だって。講座は月に一回を半年だけ。休めるときは休むから、ね、いいでしょう」
「しょうがないなあ」
成瑠美は気合いを入れて講座の準備に取りかかった。竹内の希望も考慮しながら、メニューを決め、参加者分の材料を揃える。調理器具は講座の会場となる市の文化センターの調理室にほとんどそろっていたので、特に成瑠美の方でなにか用意する必要はなさそうだった。
そして、講座第一回を迎えた。成瑠美はこの回で、お店でもやったことのない、佐久名産のプルーンを加えたベークドチーズケーキを作ってみることにした。
生徒は作り方を学ぶことができるし、成瑠美は最後の試食で、生徒の反応を見ることができる。この日のために、成瑠美は何度も試作を繰り返してきたので、もちろん味には自信があったが、それを気に入るかどうかは、食べる人の好みもある。成瑠美は本当に緊張していた。
「大丈夫ですよ。リハーサルの通りに」
竹内が、成瑠美の肩をぽんと叩く。成瑠美は深呼吸しながら、生徒たちが全員そろうのを待った。この日集まった生徒は十名ほどだった。若い人も数名いるが、ほとんどは、育児を終えた中高年世代だ。先生が思ったよりも若いので、驚いた顔をする参加者も少なくなかった。
「パティスリー・ラ・メール・ルージュから来ました佐藤です。よろしくお願いします。今日は皆さんと一緒にチーズケーキを作りたいと思います」
成瑠美は、ケーキ作りの手順をまずホワイトボードに書きながら、説明していく。成瑠美が板書を始めるとみんなが一斉に小さな手帳を出してメモを始める。
ざっと説明を終えるといよいよケーキ作りだ。成瑠美が一工程ずつやってみせて、それを生徒たちに後を追ってやってもらうことにした。
ケーキを焼くオーブンは台数が限られているので、二人一組で一つのケーキを作るよう、予め決めておいた。生徒たちは、お菓子作りに興味のある人たちが集まっただけあって、手なれた手つきでボールのなかのチーズ生地をまとめていく。成瑠美がどうやらなんとかなったみたい、と安堵していると、焼く段階になって奥の二人組から、なにやら言い争いらしい声が聞こえて来た。
「ちょっと、さっきからあなたばかりやってるじゃない。最後くらい私にもやらせてよ」
「さっきから見てるけど、あなたの手つきじゃ心配で」
「なんですって。もう一度言ってみなさいよ。私の方が上手にできるに決まってるじゃない」
成瑠美が近づいていってみると、二人は四十台後半くらいの女性だった。あとは、混ぜた生地を焼き型に流しいれるだけのようだ。二人のエプロンのネームプレートには、それぞれ菅沼、大原と書いてある。
成瑠美の脳裏に、数日前、お店でお客さん同士でもめごとがあり、理に間に入ってその場を収めてもらったときのことがよぎった。もう理にばかり頼っているわけにはいかない、私なりに強く生きていかなくちゃ。成瑠美は、覚悟を決めた。
「この段階まで来れば、あともう少しですよ。大原さん、じゃあ、生地を半分だけ型に流し込んでください」
大原は、私にもやらせてと不満を顕にしていた女性だ。成瑠美に言われて、さっそくシリコン製のヘラで型に生地を流し込み始める。
「菅沼さん、そしたら半分に切ったプルーンを、その上に並べてください。はい、いいですね」
菅沼は、大原では手つきが心配と言った女性だ。しぶしぶ、成瑠美の言われた通りにやる。
「はい、そしたら、そこに大原さん、残りの生地を全部入れちゃってください。そうそう、とてもお上手です」
今まで作業を見ていただけだった大原は、型に流し込む作業ができて満足のようだった。一方の菅沼も、一応プルーンを並べることはできたし、先生が見ているから大原がやっても失敗する恐れはないし、ということで不満はないようだった。
「そしたら、みなさん、オーブンに入れましょう。最初は百七十度で五分です」
そう言いながら成瑠美は、大げさだが、何か大きなものを一つ、乗り越えたような気がしていた。これからももめごとに出くわすことはあるだろうが、こうして一つずつ問題をクリアしていけばいいと思えた。トラウマは簡単には治らない。けれど、不安に思うことは一つもないのだ。
そして、ケーキは無事に全グループ分焼きあがった。最後の試食会も好評で成瑠美は心から安堵した。次の講習では何を作りますか、また教わりたいです、と聞いてくる生徒もいて、成瑠美は嬉しかった。この講座は一回で完結だ。次はまた新たに生徒を募集する。成瑠美は確かな手ごたえを感じていた。
最後に竹内と反省会をして会場を出ると、もう辺りは真っ暗だった。暗い夜道を駐車場まで歩いていくと、車に乗り込んで念のため携帯を確認すると一件の着信通知があった。曽野子からだった。講習の最中で気づかなかったようだ。成瑠美は、珍しいなあ、と思いながら電話をかけた。
「もしもし、成瑠美ですけどお電話いただきましたか?」
「ああ、成瑠美ちゃん。悪いわね、忙しいところ」
「いえ。今ちょうど講習が終わったところで」
「そうなの。初めてね、こうして電話で話すなんて」
曽野子は、なかなか本題を切り出さない。どうしたのだろう。成瑠美は、何か悪い知らせなのだろうか、と一抹の不安を覚えた。
「そうですね。曽野子さん、何かあったんですか。この前送った虹色のチーズケーキに何か問題でも」
この商品の開発にあたっては、曽野子にもいろいろとお世話になった。一度は食べてみてほしいと思い、先週送ったのだった。
「ううん。そうじゃないの。チーズケーキはおいしくいただいたわ。本当関心するくらいの完成度だった」
曽野子はそう言ったあとで、ひと呼吸ついた。成瑠美はいよいよ本題かと身構えた。
「実はちょっとあなたにお願いがあって」
「お願い、ですか」
「そう。ちょっとね。本来なら私からそちらに出向かなきゃいけないんだけど、今ちょっと事情があって無理なの。だから、成瑠美ちゃんの都合のつくときでかまわない。ちょっと松本まで出て来れないかしら?」
成瑠美の頭はクエスチョンマークでいっぱいになる。なぜ曽野子がこちらに出向くことができないのか。それに会って話さなければならないこととは一体何か。それでも曽野子にとってはとても大事な話なのだろう。成瑠美は、一瞬考えてから、言った。
「じゃあ、来週の定休日に行きます。火曜日ですけど大丈夫ですか」
「ええ。店番は代わってもらえばいいから問題ないわ。ありがとう、成瑠美ちゃん、恩にきるわ。お礼にあなたがきっと喜ぶだろうものを見せてあげるわね。楽しみにしてて」
意味深なことを言って、曽野子は電話を切った。成瑠美は首をかしげながら、自宅に戻った。
待ち合わせ場所は、松本駅近くの小洒落たカフェだった。曽野子は、窓際の席に座っていた。成瑠美を見つけると笑顔で手を振ってくる。
「早いですね」
「まあ、私が呼び出したんだから当然よ。道迷わなかった?」
「ええ。なんとか」
実はカーナビに表示されないお店で、ネットの地図を頼りにどうにかたどり着いたのだったが、それは言わないでおく成瑠美だった。
「そう。よかった。何か飲む? 私のオススメはね、レモネード。産地直送のレモンをここで絞ってるからおいしい」
「じゃあ、それで」
成瑠美はメニューを見ながら、パフェも追加で頼むことにした。注文したものが来る間、ひとしきり沈黙が続いた。いつも饒舌な曽野子が、今日は窓の外を眺めている。曽野子の前に置かれたコーヒーも一向に減る様子がない。
成瑠美が気を使って、今日はいい天気ですね、などと当たり障りないことを言っても、一言、そうね、と返すだけだ。成瑠美は、誰だってこんな気分のときがあるものだ。曽野子が話す気になるまで黙っていようと決めた。
パフェが来て、長いスプーンで一口、二口、三口、と口に運んだところで、ようやく曽野子が口を開いた。
「あのね、私この前健康診断を受けたの」
「はい」
ようやくしゃべってくれた、と成瑠美は安堵した。
「眼圧が異常に高いって出て。でもそれがいつものことだからって気にも留めなかったんだけれど、念のために精密検査を受けたの。そしたらね」
成瑠美のスプーンは、ちょうど真ん中の抹茶ゼリーに到達しようとしていた。つやつやして透明で緑色。絶対これはおいしいはず。成瑠美の意識は抹茶ゼリーに完全に向けられていて、心あらずで生返事してしまう。
「はい」
「重度の緑内障だって。進行を遅らせる薬はあるけど、近いうちに完全に視力を失うのは避けられないって言われたわ」
成瑠美は、抹茶ゼリーをスプーンに乗せたまま動けなくなった。
「え? だってお店が」
あるじゃないですか、という言葉を飲み込む。そんなことは曽野子だって真っ先に考えたことだろう。
「そこなのよ。問題はそれ。今日わざわざ来てもらったのはね、視野欠損で運転が危うくなってきてることに気づいたから。それに成瑠美ちゃんに大事なお願いがあって」
成瑠美はどうして曽野子の様子がおかしかったのかやっとわかった気がした。目が見えなくなるということは、今までの生活を全て見直さなければいけないことを意味する。そのショックといったらないだろう。
もし自分が明日から目が見えなくなるよと告げられたら。お店は私の全てだ。そのお店が続けれなくなる。それは成瑠美にとって全ての希望を失うことに等しかった。
曽野子にとってもそれは同じことなのではないだろうか。目の前が真っ暗になる。
「私の店を継いでくれない? きっとそしたらあなたのお母さんもきっと喜ぶと思うわ」
成瑠美は驚いて、手に持っていたスプーンをテーブルの上に落としてしまった。抹茶ゼリーも飛び散る。おしぼりで拭く気にもなれない。
「別に松本でなくてもいいわ。今あるあなたの店をぱてぃすりー・えすぽわーるにして、今うちでやっているメニューを出すのはどう? 姉が始めた店をこんなことで潰したくないのよ。あなたなら適任だと思う、ほかの誰よりも」
成瑠美の脳裏に、蔵のなかの、あの素敵な光景が浮かんだ。あのお店は松本の中町通りでやるからこそ価値があるのだと思えた。約三十年、あの場所で愛されてきた洋菓子店だ。
あの味を愛している地元の人たちも沢山いることだろう。ぱてぃすりー・えすぽわーるの移転は現実的ではない。むしろ、移転するならパティスリー・ラ・メール・ルージュの方だろう。
「少し考えさせてください」
成瑠美の脳裏には真っ先に理の顔が浮かんでいた。松本でおばさんの店を継ぎたいと言ったら、理はどんな顔をするだろうか。
成美が考え込む一方、曽野子は言いたいことを言ってすっきりしたようだ。にっこりとほほ笑んで言う。
「ええ、期待して待っているわ」
帰りの車のなかで、成瑠美の気持ちは揺れていた。やってみたい、でも怖い。あんな立派なお店の切り盛りが私にできるの。でもやってみたい。陽子の開いた店、ということもあるけど、それより何より、成瑠美はあのお店の品揃え、内装、立地、雰囲気、そうした全てのものに憧れていた。
理はなんて言うだろう。きっとあの温厚な性格の持ち主でも、素直に賛成とはいかないだろう。
大きな交差点で長い信号待ちをしながら、成瑠美はつくづく思った。
——陽子にとって自分の店を構えることは、人生最大の夢だったはず。その夢が本人の体を蝕み、最後には命まで奪ってしまった。その夢を引き継いだ曽野子さんも失明。えすぽわーるはフランス語で希望だ。でも、現実はその反対の絶望。夢を持つことってそんなに悪いことなのかな。神様がもしいるなら聞きたい。夢に向かって一生懸命、死に物狂いでがんばることはそんなに悪いことですかって。
死してなおも、ふみえは陽子を毛嫌いしている。そしてそのことが、我が家でも揉め事の元となり暗い影を落とす。理がいなければ、とっくに分裂していたかもしれない我が家。陽子はただ自分の夢を追いかけただけだ。若き日の陽子はどうしても自分と重なってしまう。
家に帰って、インターネットで緑内障の原因について調べてみた。睡眠不足、下を見る動作が多いことなどが挙げられていた。お菓子作りはどうしても下を向いて作業することが多い。成瑠美は、車のなかで考えていたことと相まって、余計に重苦しい気分になった。




