第十四話 母の形見
いよいよ、明日が開店となり、成瑠美はすべての準備が整ったのを確認してから、松本市へと向かった。実の母が経営していたパティスリー・エスポワールを訪れるだめだ。
お店が始まったらきっと、それどころではなくなる。商品が売れても売れなくてもその対応に追われることだろう。行くなら今しかないと思った。
佐久から松本へは電車が直接は通っていないので、成瑠美は一人車を飛ばして蓼科経由で松本へと向かった。途中の霧ヶ峰高原ではどしゃぶりにあって大変だった。そういえばそろそろ台風の季節だ。
松本には着いたものの、ここから先は車を降りて歩いて探した方がよさそうだった。知らない街の市街地を運転するのは危険だ。
あまりいいことではないのは承知していたが、市役所の駐車場に一旦車を駐車し、歩くことにした。父の書いてくれた地図を見る限りでは、目指す洋菓子店は、中町通りのなかにあるらしい。
中町通りとはなまこ壁と呼ばれる白壁と格子模様の蔵の町並みが美しい通りだ。歩いていくとその通りはすぐに分かった。蔵シック館という建物の横には昔ながらの井戸があり、子供が水を出して無邪気に遊んでいた。
そのほかにも民芸品店、味噌屋さんなどが並んで元気に商いをしている。活気のある町だなあ、と成瑠美は思いながらも、きょろきょろと歩いていると、中町通りは終わってしまった。
振り返っても洋菓子店らしき店は見当たらない。うーん、と呟きながら成瑠美はゆっくりと元来た道を引き返した。もう一度よく見てみることにしたのだ。父の地図上で確かこの辺と思える辺りできょろきょろと辺りを見回してみる。
その場所はどう見ても蔵なのだった。白塗りのなまこ壁がまぶしい。地図の間違いだろうと思ったが念のため、その蔵の入り口とおぼしき場所に近付いてみた。
入り口横に小さく看板がある。まじまじ見るとひらがなで「ぱてぃすりー・えすぽわーる」とあった。その字もデフォルメされて、とてもおしゃれではあるが、かなり読みづらい。
「え、ほんとにここなの」
成瑠美は信じられない思いで、そうっと扉を押した。そこには思ってもみない光景が広がっていた。
大きな梁を渡した昔ながらの天井の下には、まるでパリの邸宅を思わせるようなヨーロッパのアンティーク家具が贅沢に置かれており、その下に広がるふかふかの絨毯もまるでフランス映画に出てくるような立派なものだったからだ。
細かな装飾が施された白と金のシャンデリア、壁際に置かれた足の先が優雅に曲がった飾りテーブル、深紅のベルベット地が鮮やかな円形のソファ、そのどれもが、洗練された趣味を感じさせるものであり、蔵という和の空間と一体となって不思議な異世界の雰囲気を醸し出していた。
「いらっしゃいませ、どうぞ」
店員の優しい声が響いて来て、成瑠美は声がしたほうを向いて会釈した。
「あら、あなたいつかの」
そう言われて、成瑠美も店員の顔をまじまじと見た。どこかで見かけたことのある女性だ、と思ったが、どこで会った人なのか思い出せない。成瑠美が考え込んでいると女性がヒントをくれた。
「佐久の本屋で会ったわよね。あなたは世界一おいしいチーズケーキを出すお店をオープンさせたいと息巻いた」
そう言って女性はふふふ、と笑う。成瑠美を小馬鹿にしているようでもあり、全てを受け入れてくれているようでもあるその笑いに、成瑠美は大いに戸惑った。
けれど同時に、あ、と思った。そうだ、カラシ色のジャケットを着ていた女性だ。あの一件以来、カラシ色は、成瑠美にとってとても大事な色になったのである。
「今日は観光かなにか?」
「いいえ、自分のルーツを探しにきたんです。パティスリーをオープンする前に、自分の目で自分のルーツを知っておきたいと思って」
言いながら、成瑠美はそうだ、と改めて思った。
――私は自分がどこから来たのか知りたかったんだ。それを知らないとこれから向かう場所も分からない気がして。
それを聞いた女性もはっとした顔になる。
「自分のルーツ? ということは、あなた、もしかして成瑠美ちゃん?」
「は、はい。そうですけど。あなたは」
単にパートできている店員さんかと思っていたが、違うのだろうか。なぜ私の名前を知っているのだろう。
「私は、あなたのお母さんの妹よ。二歳まであなたは、今私の住んでいる家で育ったの。心臓がいよいよ悪くなって、姉はなくなく、あなたのお父さんに親権を譲ったのだけど。だから私、小さい頃のあなたを知ってるのよ」
成瑠美はそれを聞いて言葉を失った。陽子に病状を打ち明けられ、成瑠美を頼まれたとき、功雄はそれを好意的受け取った。けれどふみえは、それを非常識だと捉えた。なんて冷酷で自分勝手な女なんだろうと。成瑠美にはそのときの状況が手にとるように分かる気がした。
しかし、あの時のカラシ色のジャケットの女性が、実は陽子の妹だったとは。
「じゃあ、あなたが母の店を継いだんですか」
父からはただ親類がお店を引き継いだとしか聞いていなかった。
「そうよ。私は岩崎曽野子。あなたにとってはおばさんね。今日は平日でお客もそんなにいないからゆっくりしていきなさいな」
そういって曽野子は、成瑠美にショーケースの脇にあるアンティーク調のベンチを進めてくれた。こうすれば曽野子は接客しながらでも、楽に成瑠美と話せる。
このお店では持ち帰りとイートインどちらも可能なようで、少し奥まったところにイートインスペースがあり、そこでも数組のお客がケーキを食べながら談笑していた。
「姉のお葬式で会って以来だけど、お父さんは元気?」
「ああ、はい。元気です。お店の開店準備で忙しかったので、最近あんまり話もできてないですけど」
曽野子は、ショーケースの向こうで手を動かしながら言う。
「あなた本当にお店を開く気なのね。ご両親は反対されなかった?」
「うーん、まあ、最初は反対でしたねえ」
「でしょうねえ」
「でも最近は応援してくれてます。特に父は」
成瑠美は、功雄がオーブンを店のために買ってくれたことを話した。
「そう。それはよかった。お店を出すってほんとにお金がかかるものねえ。少しでも助けてもらえるとうれしいわよね。で、どんなお店なの? どこに出すの?」
曽野子との会話は尽きることがなかった。成瑠美が自分の店の説明を終えると、曽野子は成瑠美に、曽野子がお店を継ぐことになった経緯を聞かせてくれた。成瑠美の実母、陽子がこの店を開いたとき、曽野子は、同じ松本市内でアンティーク家具の店を夫とともに夫婦で経営していた。
陽子が病に倒れたとき、曽野子はアンティーク家具店を夫に任せ、ぱてぃすりー・えすぽわーるを継ぐ決心をしたが、その時点ではお菓子作りは全くの素人だったと言う。
「え? そうなんですか」
成瑠美は、ショーケースに並ぶ見事にデコレーションさせたケーキを眺めて、信じられないと思った。
「そうよ。姉さんが教えてくれたのは数カ月間だけ。だからあとは、姉さんの残したレシピノートを見てひたすら研究した。安定して同じレベルのケーキを作れるようになるのに三年くらいかかったわね。なにしろ、姉さんはたった一人で全部やっていたから、聞ける人がいなくて」
「苦労されたんですね」
エネルギッシュで、悩み知らずのようにみえる曽野子にも、大きな苦労があったと知り、ただただ驚く成瑠美だった。
「この素敵な家具は、旦那さんの店のものですか?」
「そうよ。旦那がやっている家具屋から安く譲ってもらったの。姉さんが、店をやっているときから少しずつ増やして」
「お姉さん、あ、いえ、母もこういうアンティーク家具が好きだったんですね」
「ええ。姉妹そろって、こういうのが好きでね、二人でよくデパートの家具フェアなんかにも出かけたものよ」
曽野子が教えてくれる話はどれも成瑠美の知りたいことばかりで、成瑠美は目を輝かせて曽野子の話を聞いていた。
「不思議ね。奇跡としか言いようがないわ。あなたと本屋で会ったとき、どこかであなたに会ったことがあるような気がしたのよ。私、滅多に知らない人に声なんてかけないんだけど、あのときは、どうしても声をかけなくちゃいけないような気がしたの」
成瑠美はそれを聞いて意外な気がした。誰にでも声をかける気さくな人柄の女性としか思えなかったからだ。
「でも、あのとき曽野子さんがかけてくれた言葉に私すごく励まされました。人がなんて言おうと自分を信じるの。自分が信じられないのに、それが現実になるわけないでしょって言葉、いつも大事なときに思い出してます」
成瑠美は真剣に言ったのに、曽野子はそれを聞いて笑った。
「はは。あの言葉ね。半分、自分に言い聞かせていたようなものよ。私、離婚したばかりだったの、あのとき。でも一人でやっていけるか自信がなくて。ちょうどこのお店の資金繰りも難しくなっていたころで」
成瑠美は驚いてしばらく声も出なかった。やっとのことで呟く。
「こんなに繁盛してるのに」
「今はね。でもあのころは本当に厳しくて、こんな売上ならもう、って昔からお付き合いのあった銀行に融資の継続を断られたのよ。だから、あの本屋で融資関係の本を探していたの」
成瑠美はなるほど、と思った。成瑠美はあのとき開業するためのマニュアル本を探していたのだが、あのコーナーは経営に関する本、全般が置かれており、資金調達のハウツー本もあの一角にあったのだ。
あのときの曽野子は間違いなくエネルギーに満ち溢れていた。しかし、そんなに厳しい状況の元で自分に声をかけてくれていたのかと思うと、成瑠美は改めて曽野子に感服してしまう。
そんな状況なら自分のことで精いっぱいで、赤の他人に声をかける余裕なんて、自分ならとてもないだろう。
「佐久市はなにをしに来ていたんですか」
「ちょうど自営業者向けのセミナーがあってね、それで来ていたのよ。あのころの私はとにかくお店を続けるために必死になっていたから、何かヒントになりそうなものがあれば藁にもすがる思いで飛びついた。姉の店をどうしてもつぶしたくなかったの。だからあのタイミングであなたに会って、やけくそ気味で言葉にしてみたのね。自分を信じなさいって。ちょっとへそ曲がりな言い方だったかもしれないけど」
そう言って曽野子はくすりと笑った。成瑠美もつられて笑ってしまう。
「あのあと、松本に帰ってきてすぐ、新しい融資先が見つかって、事なきを得たんだけれどね」
「そんな風には全然見えませんでした、もっと人生をエンジョイしてる素敵な女性に見えました」
「私が? 全然。今だって毎日が必死。明日のことはさっぱり分からないわ。でもね、最近は分からないことを楽しみたいと思うのよ」
「分からないことを楽しむ、ですか」
「そう。誰しも明日のことは分からない。だけど、そこが楽しいんじゃない。先の分からない人生を毎日わくわくしながら生きたいの、私は」
成瑠美には、曽野子のもつ生命力の強さが眩しいほどだった。私も年をとったらこんな風に生きられるだろうか。
「そうだ。これ、よかったら食べてみて」
曽野子が差し出したのは、丸く型抜きされたレアチーズケーキだった。しかもその上にはプリンアラモードのようにフルーツが沢山乗っている。
「うわあ、なんだかきれい」
成瑠美が思わず感嘆の声を上げると、曽野子は笑う。
「あのときあなたがチーズケーキと言うので、ピンと来たの。今までもあなたのお母さんのレシピでチーズケーキ出してたんだけど、人気が今一つだったのよね。だったら思い切ってフルーツてんこ盛りにして華やかにしたらどうかって思ったの。狙いはぴったり。女子高生や主婦に受けて人気商品になったのよ。成瑠美ちゃんのおかげね」
「いえ、そんな。これ、おいしいです。フルーツとレアチーズの相性もぴったりで」
「研究したからね、いろいろ」
「あの、よかったらこれ、うちのお店で真似していいですか」
「いいわよ。私から成瑠美ちゃんへの開店祝いね。でもレシピは秘密。これを食べて自分でいろいろ研究してみて」
優しさのなかにも厳しさのある女性だ、と成瑠美は思う。甘やかしたりは絶対しない。けれど、そこに成瑠美を一人前の菓子職人として認めてくれているからこそ、レシピは教えないのだ、という気もして、成瑠美はなんだか嬉しかった。帰ったらいろいろ自分でも試してみようと思った。
成瑠美は曽野子の言葉に神妙に頷いた。
「はい」
急に雷の音が聞こえてきて、成瑠美は思わず天井を見上げた。
「私、帰らないと」
時計は午後四時を指していた。明日は朝早くから仕込みだ。早く家に帰って寝なくてはならない。
「そう。じゃあ、またおいで。私もいつかそちらのお店にお邪魔させてもらうわね。これはお土産。お父さんによろしく。それと、困ったことがあったらいつでも電話してね」
曽野子はやさしくほほ笑みながら、成瑠美にお土産の袋を手渡してくれた。
大雨のなかを運転しながら、成瑠美は今日ここに来れてよかったと思った。信号待ちの時間に曽野子がくれたお土産をそっと開いてみた。
そこには数種類のケーキが並んでいた。どれも洗練されたデザインで、眺める人の心を奪う。曽野子がアレンジを加えたケーキもあるだろうが、今あるケーキの半分以上はまだ母のレシピそのままに作っていると曽野子は言っていた。
「母の形見、だよね。これ」
成瑠美は、雨のなか車をゆっくり発進させながら、思わずそう呟いていた。こんな素晴らしい作品を遺した母の血が自分にも流れていると思うと少し誇らしい気持ちになる成瑠美だった。




