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虹の輝く頃  作者: 丸山梓
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第十一話 ぱてぃすりー・えすぽわーる

 家に帰ると父がリビングでソファに座り、新聞を広げていた。成瑠美は冷蔵庫から麦茶を出してグラスに注ぐと、父の前に座りテレビをつけた。夕方のニュースがちょうど始まったところだった。


「どうだい? 開店準備は」


 父は新聞から顔をあげると成瑠美に話かけた。


「うん、まあ」


 父は、成瑠美の夢に当初は反対だった。けれど理が説得した結果、今では応援してくれている。なぜ気が変わったのかは成瑠美には分からないが、ありがたいということに変わりはなかった。


「……お前の実の母親、陽子もケーキ職人だった」


 あまりの唐突な告白に、成瑠美は一瞬思考回路が止まっていた。


「お母さん、陽子っていうの」

 そう言うのが精いっぱいだ。


「そうだ。お前も一度だけこの佐久で会ったことがある。もうずいぶん昔だな。まだお前が小学校にあがる前だったから」

「覚えてない」


 成瑠美の頭の中が、クエスチョンマークでいっぱいになる。私が連れ子であることを知ったことはふみえから聞いたのかもしれないが、なぜ父は急に話す気になったのだろう。なぜ今なのか。


「まあ、小さかったからなあ。無理もない」


 成瑠美は父の冷静な口ぶりに、いろいろ聞くなら今しかないと思った。


「陽子ママはどうして私をお父さんに預けたの? どうして私とずっと一緒にいてくれなかったの?」


 成瑠美は自分の声が少し震えるのが分かった。理とは実の兄弟ではないと知ってから、ずっと知りたいと思っていたのに、いざとなると本当に怖くなる。


 あたしのこと、嫌いになったから。どうでもよくなったから。そんな返事だったらどうしよう。


 父は遠くを見る目をした。やはり聞いてはいけない質問だったのだろうか、と成瑠美は後悔した。


「実はあいつもケーキ店を経営していて、今のお前と同じように充実した忙しい日々を送っていたんだ。そんな日々のなかではお前やおれをを幸せにしてやれない、それがあいつの出した結論だった。おれはそれが正しい選択だと思った。経営者として会社を切り盛りするので精いっぱいで、あいつにとって家庭はいつも二の次だったから」


 そういうと父は目を閉じて上を向いた。涙をこらえているのだろうか。成瑠美には父の気持ちが分からなかった。


 ただもうかつての妻を責める気はないことはその口ぶりから分かった。母にとって父はある意味一番の理解者であったのではないか。成瑠美は自然にそう思えた。


「成瑠美、お前はあいつに会いたいと思うか」

「思わない」


 成瑠美は即答した。成瑠美は両親から注がれる愛情に満足していた。実の母に会っても何も話すことはない。今父から聞いた説明で十分だった。


「そうか。いや、もし会いたいと願ってももう無理だがな」


 成瑠美の胸をずきりと嫌な予感が走った。

「どうして」


「……」


 長い沈黙のあと、功雄は重い口を開いた。


「あいつは死んだ。もともと心臓が悪くてな。ケーキ屋経営で体を酷使しすぎたせいだと思うが、その心臓の持病をさらに悪くして。ちょうど店も繁盛してきていた頃だったと聞いたよ。葬式の席であちらの親族から」


 成瑠美はこれまで父母がなぜ、自分がケーキ屋をやりたいと言うと悲しい顔をするのか分かった気がした。


「これも運命のいたずらかもしれんな。成瑠美がこうまでしてやりたいというんだから、もうおれにはどうすることもできない。自分の責任で最後までやり遂げなさい。でもお前はどうか無理をしないでほしい。店の成功ももちろん祈ってるが、それ以上にお前の体が心配なんだ」

「うん」


 父は、陽子ばかりでなく、成瑠美を失うのが怖かったのだ。その気持ちが今は少しは分かる気がした。成瑠美はもしかしてと思い、一枚の写真を指差した。


 父はそれを見て深く頷いた。リビングに飾られている父母の結婚式の写真には、バックにとても奇抜なデザインのウェディングケーキが写っていた。


 中世ヨーロッパの城のような形をしておりそれだけで十分細部まで細かく、手の込んだ作りになっているのに、さらにそこにてっぺんからから下まで届く大きな飴細工のリボンがかかっている。


 父が頷いたことから察するに、あれは成瑠美の実の母、陽子の手によるものなのだ。成瑠美の今の実力では到底手が届かないレベルの技術だ。実母はケーキ職人の道に没頭するために、父親に成瑠美を託した。


 その事実は、悠司と別れてケーキ職人を志す成瑠美にはどーんと重く響いた。父はそれを見越して今、このタイミングで伝えたのだろう。それより成瑠美には気になったっことがあった。


「そのケーキ屋さんはもうないの?」


「いや、まだあるはずだよ。経営者を変えて続けると聞いた。それ以上詳しいことは知らないが」


「そのケーキ屋さんの名前はなんていうの」


「うーん、確かパティスリー・エスポワールだったかな。古い記憶であまり自信はないが」

「私そこに行ってみたい!」


 成瑠美は思わず叫んでいた。陽子は死んだと聞いて、なんだか無性に陽子が遺した店が気になり始めていた。それに、ウェディングケーキから見てとれるそこにある高度な技術。それをもっと自分の目で見てみたいと思った。


 父は簡単な地図を書いてくれた。同じ長野県内の松本市にそのケーキ屋はあると言う。母の実家がそこにあり、その縁で松本市に店を開くことにしたのだという。


 その頃の父も松本市に住んでいたのだ。知らないことばかりを一度に知らされ、成瑠美は慌てた。いつもいかに自分のことしか考えないで生きているかを思い知らされた気がして、急に成瑠美は自分が恥ずかしくなった。父の歴史にも、もう少し興味を持つべきだった。


 松本市は以前も訪れたことがあった。どーんと松本城がせまってきてそのバックには北アルプスが見え、その迫力に圧倒されたのを成瑠美は思い出していた。


「行ってみたらいい」

 

父はそう言って頷いてくれた。新聞に視線を戻したとき、父は思い出したように行った。


「だが、融資の面接が近いんじゃなかったか。それが無事終わったら行くといいよ」

「そうだった」


 父が衝撃的なことばかり話すから忘れていたが、面接はもう一週間後にせまっていた。店舗にする物件が決まったことで、融資申し込みに必要な店舗見取り図や内装見積もりなどの書類が整ったのだ。


 あとは面談のみだった。融資が決まらないと内装業者に発注も出せない。成瑠美は思わず自分の胃を抑えた。


「ああ胃が痛い。キリキリする。夕飯食べたら胃薬飲もう」

「頑張れよ。そうだ、もし融資が決まったら、今日、お前が見て来た、なんだ、その、なんとかオーブン、父さんが買ってやるよ。開店祝いだ」

「ほんと? じゃあ、頑張らなくちゃ」


 父の優しい言葉を背中に聞きながら、成瑠美は階段を上っていった。階段を三段ほど上ったところで、成瑠美は功雄を振り返った。


「ねえ、お父さんは私がお店やることに反対だったでしょ。なんで急に賛成になったの? あのときお兄ちゃんとあとで話すって言ってたけど、なにを話したの?」


 功雄は新聞をたたみながら答えた。

「理は、俺がそこまで成瑠美の人生に干渉することに何の意味があるのかっていうんだよ。成瑠美はもう成人してて、子どものころから反対されてもまだやりたいっていうなら、もう自分の道を進ませてあげたらどうかと。俺はそう言われて、そうかもなと思った。結局俺は子離れできないだめな父親だったんだな。まあ、母ちゃんとはそのあとでひと悶着あったんだが」


 功雄はそこで苦笑した。成瑠美はあっと思った。八千穂へみんなでバーベキューをしに行った帰り、功雄とふみえはなにか言い争っていた。あれは成瑠美の洋菓子店開店が原因だったのだ。


「理に説得されたおれは、今度はふみえを説得しようとした。けどふみえは、『あなたは結局成瑠美をあの女のようにするつもりなのね。理まで巻き込んで』ときたもんだ。おれはそうじゃないと言ったよ。だけど母ちゃんは頭に血が上って」


 成瑠美は、あのときのふみえの言葉を思い出していた。「もういいです。私、理と一緒に家を出ます」あれは、父の説得の結果出た言葉だったのだ。成瑠美はあのとき母の意外な面を目の当たりにした気がした。いつも穏やかなふみえがあんな風に感情的になるのを見たことがなかった。


 成瑠美が見ているふみえは一面でしかないのだ。成瑠美の実母、陽子に対する激情を成瑠美には決して見せない。妻であるふみえと、母であるふみえじゃ見せる顔が違うものなのかもしれないな、と成瑠美は一抹のさみしさを感じつつ思った。


「理はしょうがないから、ふみえとまた話しあったようだよ」


 そう言って、功雄はため息を吐いた。


「まあ、あれだな、おれの言うべき台詞じゃないが、この家を一つに繋ぎとめてるのは理だな。お前とおれはあいつに感謝しないといけない」


 そう言って、功雄は苦笑いした。やはり父としては、一家の長としてのプライドを保ちたいところだったのだろう。


「そうだね、お父さん」


 成瑠美は、やっぱりお兄ちゃんには頭が上がらないと思い、階段を上っていった。


 階段を上りきったところで理に声をかける。理の部屋は階段を上がってすぐ左、成瑠美の部屋はすぐ右だ。


「お兄ちゃん、いる?」

「ああ」

「今度の面談の練習したいんだけど、今いい?」


 夕飯まではまだ時間があった。今を逃すと、仕事で残業続きの理をつかまえられそうもない。


「ああ、いいとも」


 書類一式を持ってから理の部屋の戸を開けると、この前と同じように理は零戦のプラモデルを手にしていた。前回見たときよりもだいぶ進んだようだ。


「今、お父さんから、実の母親の話聞いて、びっくりしちゃった」


 理のプラモデルを持つ手が一瞬止まった。けれど、何事もなかったかのように平静さを保ちつつ、成瑠美を見る。


「へえ、どんな」

「うんとね、陽子もケーキ屋さんやってたんだって。結婚式の写真、居間にあるでしょ」


 理はどこまで知っているのだろう、とふと成瑠美は思った。けれど、あれほど、父と母が成瑠美の店の開業に反対するのにも動じなかった理だから、きっと全てを知っているに違いない。成瑠美は自分だけが置いてけぼりな気がして、少し寂しかった。


「ああ、父さんと母さんの結婚式ね」

「あの写真のバックに写ってるウェディングケーキ、陽子が作ったらしいよ」

「そうなのか。それは知らなかったな。どんな心境だったんだろうなあ、想像もつかないな」


 さすがの理もそこまでは知らなかったと知り、内心、成瑠美は少しほっとしていた。しかし、理の言葉の意味を考えて、はっとした。もしかすると、ケーキを製作しているとき陽子のおなかにはすでに成瑠美がいたのではないか。成瑠美がいると知っても、陽子は功雄の門出を祝おうとした。陽子なりの形で。


「陽子はきっと父の幸せを祈って作ったと思う、絶対」


 成瑠美が胸を張ってそう言うと、理はくすっと笑って成瑠美の頭をなでた。そこでさらに成瑠美は考える。もしかしたら陽子は、その時点では一人で成瑠美を育てる覚悟をしていたのかもしれない。


 けれど自分の死が近いことを悟って、二歳になった成瑠美を功雄、ふみえ夫婦に託した。そこまで考えるとなんだか辛くなってくる。理はそんな成瑠美の様子に気づかず言う。


「そう思えるところが、成瑠美のいいとこだね」

「そうでしょう。私性格いいもん」


 成瑠美はそう言うと、理と顔を見合わせて笑った。ただの自分の推測だ、何の根拠もないと思い、その悲しい推測を成瑠美は胸の内にしまった。


「さて、じゃあ始めよう」


 理は零戦を慎重に床に置いて、机の引き出しから、ノートを取り出した。今回の開業のためわざわざ作ってくれたノートだ。


「うん」

 成瑠美は理の正面に正座した。


「開業しようと思われたきっかけはなんですか」


「自己資金で一千万あるとのことですが、どのように作られたのですか」


「収益の根拠はなんですか」


「思うように収益が上がらなかったときの対策は何かお考えですか」


 理からは容赦のない質問がとんでくる。理の目はいつに増して鋭くて、成瑠美は思わず、姿勢を正した。きっと仕事のときもこんな厳しい顔をしているのだろうと考えて、理と一緒にこれから店を経営していくのか少し怖くなる成瑠美だった。

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