再幻語り
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「再幻語り」
もう秋も深まる夕暮れの事。相変わらず私は籐椅子に体を預けたまま、ぼんやりとしていた。
昼間は一体どこに影をひそめているのか、正体のわからない虫達が、空気の中に振動のように鳴き声をあげはじめる。
「冷えてきましたね。部屋に戻りましょう」
微かな足音と共に、背後から声をかけてきたのは名も知らぬ男だ。
空は薄紫へと変わってしまって、いよいよ虫の声ばかりが強くなる。男は大抵こういう刻になると、静かに私の背後へとやって来て、露台で籐椅子に身を委ねている私を我に返らせるのだ。
紺絣を無造作に身に纏った彼の正体を私は知らない。
年齢は私よりも遥かに上だろうが、それをきちんと確かめた事もない。単に、物心ついた時から青年の出で立ちで、私の傍に居たからそう思うだけだ。顔立ちが整いすぎているからか、表情というものに乏しいからか、この男の年齢を外見から判断するのは至極困難な事だった。
初対面の人間が、彼を見ると、きっと一種の気味悪さを感じてしまうだろう。
白髪ひとつない黒髪は、艶を持ち肩の上まで静かに流れて、前髪に隠れがちな目は常に冷たすぎる微笑に似た形を留めている、それなのに口元は笑ってはいない。体の方は華奢といえば華奢ではあるが、やはり骨格は男のもので、袖から覗く腕は青白く女のようにきめ細かい肌であっても指は筋張っていてやはり女のそれではない。何より、顔も体つきも一々そつがなくて、全く人間味がないのだ。まるで魂を持った精巧な人形のような男だ。
幼い頃から見ているから、彼の容姿自体には慣れてしまっていたが、それでもふとした瞬間に、言いようのない不可思議な気分を彼に覚えてしまうのはたしかだった。
彼が、何故この家に居るのかは知らない。使用人かもしれないし、親族なのかもしれない。それどころか私は、彼の名前すら知らなかった。
ただ、今更そんな事を彼に聞いた所で、何がどうなるわけでもないし、彼の正体を知ったところで、それに何か意味があるとも思えない……いや、むしろ私はそれを知りたくないのかもしれない、いつだったか秋の夜になると必ず聞こえる寂し気な音色が、単なる虫の奏でる羽音であると知った時の落胆、それと同じ気持ちを彼に対して抱きたくないのかもしれない。
「夕食は?」
「そんなもの、いらない」
「お体に障りますよ」
男の口元は言葉を発するために微かに開くが、その言葉とは裏腹に心配そうな表情は全く見られない。いつもの事だ。
「では、お茶を入れてきます」
ゆっくりと男は私に背を向けて、居間を出てゆく。
物を食べる喜びというものが、私は未だにわからないでいた。
昔はそれでも、朝夕に出される食事を何の感動もなく、そうする意味もわからず受け入れていた。美味しい、なんて感覚も一度も経験した事はない。そういった感覚は、私には欠けているのだろう、いい加減それに気付いてからは、いよいよ食事というものが面倒になった。それでちょうど一年前、十八を迎えた頃から、いちいち規則的に食事をとるという事はやめてしまった。
一体誰が、毎日決まった時間に食事を摂る事を決めたのだろう、きちんと食事をとらずとも人は生きてゆけるというのに。
私の食事の代わりとなるものは、夜に飲む一杯の漢方を煎じた茶と、昼頃に男の用意する果物、それだけだ。それだけで、充分に事足りるというのに、わざわざ長い時間をかけてまで楽しくもない食事をする意味が私には見出せない。
それよりは、今、彼が用意しているであろう苦い茶をひと思いに飲んでしまった方が幾分かましだと思う。実際、私は無駄に体力をつける必要なんてないのだ。一日の大半は籐椅子の上でぼんやりとしているだけ、働く事もなく何の使命もなく、ただ時間が過ぎていくのを何の感慨もなく眺めているだけなのだから。
……そこまで考えて、不意に可笑しくなった。
これじゃあ、あの男の事を人形のようだなんて言えない、むしろ私の方が人形のようだ、と。一日のほとんどを無感動に過ごす私もまた、表情に富んでいるとは思えないのだから。
意味もなくがらりと広い居間には、黒檀のテーブルと、黒塗りの座椅子が一つ、姿見には冬用の帯が掛けられている、そしてその姿見の先に、漆の掛け時計が一つ。テーブルの上には、彼が生けたのであろう、慎ましい色をにじませた白萩の花、その横にきちんと重ねられた本が三冊、これは私が数日前に読んで棄てておいたもの、それっきりだ。
読んだ本の一つは恋愛小説、もう一つは短編集、最後の一つは古典だった。教養と慰みのために、本家からは定期的に大量の書物が届く。暇つぶしには確かになるが、私にとっては、その本に書かれている事すべてがつまらない、全く、人間は何故こんな変な空想をしているのだろう、そういう白けた気分になってしまうのだ。特に小説というものは。
一度、まだ幼い頃、あの男に聞いた事がある。
「ねぇ、ほんとうにこの世の中には、こういう風に忙しなく戦ったり、恋をしたり、幸せだったり、不幸だったりする人間が居るの?」
彼はちらりと私の手元にある本を見て答えた。
「さぁ、どうでしょうね。そういう人もどこかに居るのかもしれませんが、小説なんてものは、ある一人の人間の空想のようなものですからね」
「そう、こんな事空想して、一体何になるのかしら」
全く、私はその頃から、どこに居るのかもわからない人間がどんな生活を送っているのかだけではなく、ましてやそういう人間の空想の世界など、少しも興味を抱けなかったのだ。誰が何処で何をしていようと、そんな存在は私に必要ではなく、またその誰かも全く私の存在を必要としない。そんなものに、興味を持てるはずもない。
教養……というものも私には不可解だった。毎日、言葉を交わすのはこの男だけ、もちろん小説に描かれている世界に私が行く事などないのに、一体小説なんてものから、何を学べというのだろう。
私は、自分に必要のないものに、出来れば何の繋がりも持ちたくはなかった。
「お茶の用意が出来ました」
襖が静かに開き、男が盆を手にやって来た。
盆の上には、松葉色の湯呑と口直し用に冷水の注がれたグラスが載っている。
「そう」
湯呑を受け取って、苦く生温い茶を流しこみ、喉にまとわりつくその不快を冷水で押し流す。広い座敷の中には、硝子戸を破って反響する虫のざわめきと秒を刻む時計の針の音だけ。ふと時計に目をやれば、黒盤に浮かぶ金の英数字の八を、銀の針が指している。
「湯殿に行かれますか?」
私が時計に目をやった事に気付いたのだろう、彼は空いた湯呑とグラスを下げながら、そう言って立ち上がった。
「まだ、いいわ。それより、あの時計をどこかへやってくれない?」
「時計をですか?」
「えぇ、針の音が煩いの」
「不便では?」
「正確な時間を知る必要なんて、ないでしょう。邪魔なだけよ」
男は何も言わず、時計の元へと行った。この家の造りは天井が低いからだろう、彼は腕を伸ばし、いとも簡単にその時計を壁から外す。時計を失った壁は、それでもぼんやりと白く、そこに時計があったという事を示している。それが私を、どことなく嫌な気持ちにさせた。男は、そんな私の気持ちに気付くはずもなく、その時計を脇に抱えて、器用にも逆の手に盆を持って部屋を出て行った。
もう消えたはずの時計の音が、まだ私の耳には残っている。
あの一秒は大きく、次の一秒は微かに小さく感じる、不均衡な音が。
×
座椅子に凭れたまま、しばらく膝の上に頬杖をついていると、彼がまた盆を手に戻って来た。今度は、二つのティカップが載せられている。あぁ、もうそんな時間なのか、と今更気付いた。ティカップの中身は紅茶ではなく、温められた牛乳に洋酒を数滴落としたもので、それを出されるという事は、そろそろ床に就く時間だという事だ。
しかし、今日に限って何故カップが二つあるのだろう?
「今夜は私もご一緒して宜しいですか?」
私の不審そうな顔色に気付いたのか、彼はカップを差し出しながらそう言った。
「いいわよ。珍しい事もあるのね」
彼は私の承諾を得ると、静かに私の向かいへと腰を下ろした。
正面からまじまじと彼を見つめるのは、これが初めてかもしれない。それに、この男が物を口にするのも初めて見る、私は目の前の男がゆっくりとカップを口に運ぶのを見て、そう思う。
やっぱり、正面から見ても、年齢も何を考えているのかも、わからない。ただ、それでも自分よりは大分年輩に見える。それは所作が緩慢で、落ち着いた雰囲気を持つからだろうか。それとも、冷め切ったかのように見える瞳が、何か広漠とした深い闇にも似た中に静かな熱情を秘めたように錯覚させるからだろうか。
それは、人形が次第に魂を持ち、動き回る事はないが実は心を持っているなどと空想した人間の感覚に似ている、ふとそんな事を思った。
「ねぇ、何かお話して頂戴」
単に退屈だったからか、それともこの男に興味が湧いてきたからか、よくわからないまま私はそう口に出していた。
まだ私が幼かった頃、幾度か彼に物語をせがんだ事がある。まだ文字も読めなかった頃の事だ。彼は淡々と色んな話を抑揚なく語った。それは、今考えれば、古典の説話集の一つだったり、外国の童話や民話だったりを、子供向けに簡単に直したものだったりしたように思う。私は、物語の内容よりも、彼の声の方が好きだった。全てを受け入れているのか、全てを拒絶しているのか、そんな曖昧な単調な声色と静かに流れる空気のような喋り方だ。
もう、私は子供ではない。そんな私に、彼はどんな話をするだろう。昔のように、とりとめもない物語を聞かせるだろうか、それとも彼自身の事を……?
「そうですね」
静かに、男は言った。小さな音を立てて、カップがテーブルの上に置かれる。私は、期待とも不安とも言えるような、不思議な気持ちで、彼の話の続きを待った。
「少し、長くなるかもしれませんが」男は静かに前置きを述べる。「ある男の話をしましょう」
――辺鄙な所にある大学に、藤生惣一という学生が通っておりました。惣一は、その大学の農学部で学ぶ極平凡な生徒の一人でした。
そこで平凡な学生生活を送り、四年目の夏を迎えた頃の事です。大学を卒業するためには卒業研究というものをしなければなりませんでした。
その卒業研究のために、四年になるとそれぞれが望む教授の研究室へと入り、その研究室で合同で研究をしたり、あるいは教授の手伝いをしたりするのですが、惣一の入った研究室は、主に教授の研究の手伝いをしてそれを卒業研究に充てるものでした。
その手伝いというものは、指定された地域へと赴き、その地域の農家や農協で簡単なアンケートをとって、それを整理してデータ資料を作成する事です。
大抵の農家は、都会ではなく田舎にあるものです。そういう所は交通の便が悪く、車がなければ到底割り当てられた農家を回る事は出来ないでしょう。そういう事情もあって、数少ない女子生徒や運転免許を持っていない学生は、出来る限り指定地域の中でも近場や交通の便の良いところが割り当てられました。
そして惣一は、免許も車も持っていたので、その指定地域の中でも、一番遠い県の聞いた事すらないような村落を割り当てられる事になったのです。
八月一日の早朝、惣一は出発しました。
その村は、霞野村といって惣一の住んでいる場所から高速道路を使って三時間、そしてそこから更に二時間も車を走らせた所にありました。そこは水田と畑以外は本当に何もない寂しい、しかし緑豊かな村でした。
惣一は始めこそ、美しい緑に心癒される気分で運転していたのですが、次第に緑の美しさよりも舗装されていない泥濘んだ道の悪さの方が気にかかってきました。
それだけではなく、調査もとても困難なものでした。彼の割り当てられた調査対象は、この村の二十ほどの農家です。彼は気楽に、その程度なら一日あれば終わるだろうと踏んでいたのですが、いざ、村にやって来てみると、水田ばかりが続いて小屋はあれど民家は見あたらないのです。やっと一軒の民家を見つければ、その家には誰もいない、それもそうでしょう、農家の方は、このどこまでも続く田んぼか、あるいは山の方にある畑のどこかへ仕事へ行っているのでしょうから。
惣一はいよいよ疲れ果ててきました。朝から何も食べてなかったのですが、この辺りにはレストランどころかコンビニエンスストアすら見あたらないのです。空腹に耐えながら一日中車を走らせ、日も暮れようというのに、彼がやっと調査できた農家はたったの二件だけでした。
その調査自体も惨憺たるもので、どうもこの村の住人は、閉鎖的な傾向があって、あまりよそ者には親切ではないのです。いきなり家へ訊ねてくる見ず知らずの青年に、明らかに警戒をよせて、アンケートにも協力的ではありませんでした。
その上、惣一は人見知りな方だったので、この二件の調査をやっとの思いで終えた頃には、本当に心身ともにぐったりとしてしまっていました。この調子で、すべての調査を終えるには、あとどのくらいかかるのだろう、彼はそう考えると、気分もすっかり重苦しく、路頭に迷った孤児のように、絶望的な気分になってしまっていたのです。
陽はもう落ちてしまっていました。辺りは、外灯もなく薄暗く気味が悪いです。
惣一は諦めて、とりあえずは、もう少し栄えた町まで戻って、そこで宿を探そうと思いました。
急いで車を走らせたのですが、彼は大きな疲れで気が散ってしまっていたのでしょうか、薄暗く何の標識もない不親切な道ばかりなのも手伝って、気付けば、知らない山道へと迷い込んでしまっていたのです。
車一台やっと通れる程のその道の周りは鬱蒼とした木々の黒い影が包み込んでしまっています。道の先はそのせいか暗い闇がぽっかりと口を開けて、惣一を待ち構えているかのようにも見えるのです。木々の合間をぬって、鳥とも獣ともつかない不気味な叫び声も聞こえてきます。
その不気味な感じに、慌てて惣一は道を引き返そうとしました。しかし、この細い道ともいえない道、そして薄暗さ、不幸な事に彼はその道の路肩に溝があることに気付かなかったのです。
車の後輪はそこに大きな衝撃と共にはまり込んでしまいました。惣一は、しばし呆然としてしまいました。車のライトが照らす先は鬱蒼とした木々のざわめきだけです。
携帯電話は勿論圏外で使い物にはなりません。歩いて霞野村まで戻るとしても、あの民家のある場所まで一体何時間歩けばいいのでしょう。それに、その家の冷たい対応を知ってしまっている彼は、そこまで歩いていく気力すら湧いてこないのでした。
しかし、このままでは、どうしようもありません。途方に暮れたまま、何か良い案はないかと考え込んでいる時でした。
暗い木々のその先に、ぼんやりと橙の明かりが見えたのです。
――あそこに家があるのでは?
彼は、藁にも縋る想いでその明かりを目指しました。ただの外灯かもしれない、人魂かもしれない、もしかすると幻覚かもしれない、それでも惣一は、そこに人が住んでいる家があるという可能性に縋って、そこを目指したのです。
その明かりは道の先にあったのではありませんから、彼は木の根に足をとられつつ、蔦や羊歯を必死の思いでかきわけて進まねばなりませんでした。それでも、あんな薄暗い山の中に、一人ぽつんとなす術もなく夜を明かすよりは、と歩き続けました。
果たして、家は在りました。どうやらとても立派な家のようです。その家はぐるりと四方を高い石垣で囲んで、さらにその石垣には蔦が青々と絡み付いています。立派な石門には表札はかかっておらず、ただ石灯籠が赤々と灯りをともしていました。
惣一は、一瞬その何とも威圧的な敷居に竦んでしまいましたが、気を奮い立たせてそれでもおずおずと門から内を覗いてみました。広大な庭は、ひっそりと静まりかえっています。しかしその先にある家の窓は白く明るいので、人が住んでいることだけは分かりました。
勇気を出して玄関の前まで来たものの、その家には呼び鈴がない事に彼は気付きました。
コンコン、と磨り硝子で出来た引き戸をノックしてみても、その分厚い硝子が内側までその音を伝えるとは思えません。
「ごめん下さい」
そう声をかけてみても、戸の向こう側からは物音一つ聞こえません。
どうしたものか、彼は少し考えて、裏手にまわってみる事にしました。
薄暗い庭は、等間隔に備え付けられた灯籠にぼんやりと照らされて、森の中よりは幾分明るいです。庭の木はどれもきちんと手入れされていて、大きな花壇には色とりどりの花が夜の空気を静かに作り出していました。
彼ははっと立ち止まりました。
露台の手摺りに凭れるように立つ、一人の少女を見つけたからです。
少女は、絽の薄紫の着物の袂を風になびかせながら、じっと空を見つめているのです。長い黒髪は柔らかく櫛巻きにされ珊瑚の赤い玉のついた簪で纏められていて、後れ毛がしっとりと夜露に濡れ象牙のように青白い首筋に流れかかっていました。線の細い今にも風に掻き消されてしまいそうな儚い雰囲気を持つ美しい少女です。その表情は、どこか物憂げで、瞳の色はただ寂しげに潤んでいます。
惣一は、石のように固まって、ただその少女に見惚れてしまっていました。まるで、その少女がこの世のものではない、可憐な花の精のように高貴に見えたのです。
どのくらい時間が過ぎたでしょう。少女はふっと空から顔を逸らしました。そして、立ち尽くしていたままの惣一に気付きました。
不意に少女と目が合った惣一は、何か悪いところでも見られたかのように慌てました。
「どちら様?」
少女はきょとん、とした顔でそう問いかけます。
「あ、車が溝に嵌ってしまって」
惣一は、少女の問いに答えるのも忘れて、聞かれもしない弁解を勝手に言い出していました。
「そう、それは大変でしたね」少女は心配そうな目をした後、優しく微笑みました。「じゃあ、家で休んでいかれたら?」
惣一は呆気にとられた気分で、座敷へと通されました。昼に訪れた農家での対応と全く違う事に驚いていました。それに、いくらなんでも、見ず知らずの男を年頃の娘がこんなに簡単に部屋に通してもいいのだろうか、しかし、少女は全く警戒している様子もなく、喜んで彼を家へとあげたのです。
家の中はひっそりと静まり返っていました。少女の他に人が居る気配はしません。座敷は重々しい黒い木の格天井に、白い砂壁には黒塗りの掛け時計、黒檀のテーブルに座椅子が一つと大きな本棚、二十畳はあろうかという広さを持つ立派な部屋には似つかわしくないほど殺風景でした。そして、この大きな屋敷に少女一人しか住んでいないだろう事も、惣一は不思議に思われました。
「お茶が入りました」
静かに襖を開けて、少女が戻ってきました。盆を持つ手はどこかたどたどしく感じます。
明るい灯の下で、少女をまじまじと確認しても、やはり十七、八にしか見えません。十八くらいの年頃だと、別に一人暮らし自体は珍しいものではないのですが、こんな山奥の不便な場所に少女が一人で暮らしているのは、やっぱり変だと思いました。
「ゆっくりしていってね、人が訪ねてくるのは久しぶりだから」
少女は嬉しそうに微笑んでいます。
「君は、こんなところに一人で暮らしているの?」
「ええ、必要なものは使用人が持ってきてくれます。それに自分に出来る事は、自分でしなければいけないし」
どこか含みのある言い方でした。少女は寂しそうに目を伏せて、それからまた笑って言いました。
「それよりも、貴方のお話が聞きたいわ」
唐突にそう言われて、惣一は何を話したらいいのか少女がどんな話をしてほしいのか、全く思い浮かびませんでした。とりあえず、その場しのぎで、簡単な自己紹介と自分が何故この村へと来たのかだけを話しました。
「そう、大学生なの、楽しそうね」
どこか遠くを見つめながらそう言う少女の瞳は、少し寂しそうでした。
「君は学生じゃないの?」
「学校には、行った事ないの」
あまり触れてはいけない話題だっただろうか、惣一は少女の表情が暗くなったのを感じて少し後悔しました。
少しの沈黙の後、少女は寂しげな表情をかき消して言いました。
「私は環、日野環よ。惣一さん」
環は惣一を見つめて、柔らかく微笑みました。
その瞬間、惣一は環という少女に心を奪われてしまったのです。憧れとも愛着とも同情とも執着ともつかない激しい感情が一気に彼の体を満たしていったのです。それは、世間でいう「愛」や「恋」よりももっと強く、抑制の仕方など見当もつかない代物でした。
惣一は、環のためなら全て投げ出してもいいような気がしました。と、いうよりも彼にとって、現実に彼が身を置く世界は一気に色褪せてどうでもいい存在としか思えなくなりました。魂を抜かれてしまったかのように、環以外には一切の興味を失くしてしまったのです。
その時、彼は帰る場所を失いました。失ったと言うよりは捨てたと言った方が良いでしょうか。彼は、自分が大学生であることや卒業研究のためにこの村に来ていた事など、すっかり忘れてしまったのです。最早、自分の居場所は環の所しかないのだ、惣一はそう確信してしまっていたのです。
惣一は、あっという間にその家での生活に馴染んでいきました。とは言っても、そこには惣一と環の二人っきりですから、する事といえば、環と他愛もない話をしたり、食事や夜具を整える手伝いくらいのものですが。
環は不思議な人でした。無垢な子供のように見える時もあれば、時折ふと全ての悲哀を経験しつくした老いた尼僧のように見える時もありました。時折見せるその悲哀に満ちた表情が、惣一の心を特に強く揺さぶりました。
環がそういう表情を見せるのは、決まって露台から暮れてしまった空を眺めている時でした。
「どうしてそんなに悲しそうな顔をしているの?」
惣一はたまらずにそう聞いてしまった事がありました。
「空を見てただけよ。変な事を言うのね」
環は、ふっと笑っていつもはぐらかすのです。
それが惣一をとてももどかしい気持ちにさせました。環が笑って否定しても、彼女に何かしらの暗い秘密があるであろう事は惣一にも明らかでした。例えそれが彼女の『不可思議な魅力』を作り上げているのだとしても、惣一はその魅力が失われてもいいから彼女の事が知りたいと煩悶しました。
可憐な少女のような無垢な笑みが影を潜め、ぽつりと疲れきったように悄然と座りこんでいる環の後ろ姿を見る時など、殊更そういう気分になってしまうのです。
一体、何が環をそんなにも悩ませているのか、解らぬ事に苛立ちにも似た焦りを感じながらも、惣一は為す術もなく意志もなく惹かれるままに環の下に身を寄せる日々を送るのでした。
惣一が、環を不意に包む憂鬱な影の正体を知ったのは、環と暮らし始めてちょうど一月経った頃でした。
季節の変わり目だからでしょうか、九月に入ってすぐに環は体調を崩しました。
元々体は丈夫ではないようでした。食も細いですし、力仕事も向かない、陽射しに長く当たってしまうと眩暈をおこしてしまう、長時間体を動かす事も出来ない、体力のあまり無い人だったのです。
環は力無く床に伏したまま、しおれた花のように弱弱しく萎えていました。惣一は、心を尽くして甲斐甲斐しく環の看病をしていました。環に飲ませる竜胆の根を煎じた茶を運んでいる時でした。静まり返っている家の中にガラガラと硝子戸の開く音が響きました。
――まさか、環が外へ出て行ったのではないか。
惣一は慌てて、玄関へと向かいました。ただでさえ体力の無い環が、病んだ体で動き回ってはいけない、そう思ったからです。
しかし、玄関に居たのは思わぬ人物でした。
中年のかっちりとしたスーツを着こなした知らない男が二人、大きな荷物を抱えて立っていたのです。
「何だ? お前は」
男は惣一を見て意味がわからないという顔をした後に訝しげ問いかけました。
「ここで何をしている?」
もう一人の男は短気なのでしょう、惣一が答えあぐねているのを見て、急に声を荒げて掴みかかってきました。大きな音を立てて、盆に載せていた湯呑が倒れ床へと転がり落ちました。
「何の騒ぎです?」
その音を聞きつけたのか、ゆっくりと壁に寄りかかりながら、環が青白い顔を覗かせます。
「環様ッ、この男は何者です!?」
中年の男たちは、真っ赤な顔をして惣一の紺絣の衿を引っつかんで環の前へと突き出しました。
前のめりになりながら、環を見上げた惣一は、そこにあった彼女の表情にはっとしました。彼女は、氷のように冷たい、拒絶を意味する無表情で二人の男を見据えていました。それは、今まで一度も見たことのない冷たいものでした。
「放しなさい」冷え切った凛とした声が響きました。「この方は、私の大切なお客様です」
「し、しかし」
狼狽して男がそう言いましたが、
「用が済んだのなら帰りなさい」
と、二の句を継げないでいるうちに、ぴしゃりと環に言い放たれて、すごすごと頭を下げて逃げるように去っていきました。
嵐が去った後のように、家の中はしんと静まりかえりました。
しかし、惣一はまだ混乱に心を引き摺られたままで、乱れた着物のまま環をじっと見つめました。
「君は一体、何者なの?」
そう問いかけながらも、惣一は環の返答が裕福な家柄のお嬢様かなにかだろうと予想していました。病身の環を寝間まで支えながら、きっと病弱だからこの田舎の土地に静養に来ているんだろうと、軽く考えていました。
寝間に戻ると、環は何か少し考えこんだ後、静かにこう言いました。
「私、少し体が気持ち悪いわ。でも、一人でお風呂に入るのはまだ大変だから、体を拭いてもらえないかしら?」
唐突にそんな事を言われて惣一は、顔を真っ赤にして慌てました。
「何言ってるの?僕は男だよ、そんな事……」
口ごもりながら、惣一は参ってしまいました。きっと自分の先程の質問をはぐらかすために、このような冗談を言うのだろう、と邪推しました。
しかし、環の表情は至って真面目で、からかっている風もありません。そして寂しそうにしているのです。
「照れちゃいけないわ。私、惣一さんよりもずっと年上なのよ。貴方のお母様と同じ位の歳なのよ」
そう言って環は、するりと紫の帯を緩めて白の寝衣をはだけさせました。そして襦袢をためらう事もなく押し開いて、幾分やつれたかと思われる細い肩、そして胸元を露わにしました。
「何を、冗談はよしてくれ。君はどう見ても僕より年下じゃないか」
惣一は、たじろぎながらも、そう言い返しました。
実際に、環の体はまだ発育途中の少女のように見えました。小さな肩に、華奢な二の腕、青白い肌にはくすみ一つなく、胸元の小さな膨らみも瑞々しい果実のようで、淡い桃色の突起もピンと上を向いています。それをしっかりと確認してしまった瞬間、惣一は気まずそうに目を背けました。
「冗談なんかじゃないわ。ここ、ここを見て」
環は静かにそう言って、ゆっくりと体をひねりました。惣一が堪忍してゆっくりと伏せた目を上げると、石膏の彫刻のような、しかし繊細で柔らかそうな背中、その踏みしめられた事のない新雪のような皮膚に一つだけ、薄紫の痣がそこに散った花弁のように存在を誇示していました。その痣は環の腰の少し右上辺りにありました。親指の爪くらいの大きさでしたが、よく見ると「陸」という漢字に見えました。
「・・・・・・陸? これは?」
惣一は、思わずそう口に出していました。環は、惣一がそれを見た事を知るとゆっくりと襦袢を羽織り直して寂しそうに笑いました。
「私で六人目、私は六番目の環なの」
寝間の窓からは、沈む直前の西日が差し込んで物憂げな淡い影がゆっくりと部屋の中を包み込んでいます。その淡い影に背中を照らされながら、環はいつにも増して、儚く消え入りそうに見えました。
「私の家系は、祟られているのです。先祖は京の公卿だと聞いています。時代の波に揉まれながらも、それでもある程度の身分と財力、名誉は守られていました。そういう由緒正しき厳格な家柄に初めの不幸が起こったのは江戸時代中頃でした。環と名付けられた娘、本家の一人娘で、病弱でしたが美しい娘だったので、親兄弟から大変可愛がられていたそうです。その娘は子の産めない体でした。しかし、それは環にとっては不幸の中でもとても些細な事といえるでしょう。
結婚はせず、本家で養われていた環に、ある疑惑がよせられました。
環は歳をとらなかったのです。はじめは、いつまでも若く美しい女だと可愛がられておりましたが、さすがに環が三十を迎えた頃には、いつまでも十七、八の姿のままなのは、気味悪く思われたのでしょうね。
彼女の親族は手の平を返したかのように、彼女を座敷牢に閉じ込めて冷遇いたしました。そしてそのまま、彼女は座敷牢で悲嘆に暮れて十年という年月の後、亡くなったのです。
それが悲劇のはじまりでした。
彼女が亡くなって一年後、長男の家に産まれた娘、その娘の名前は覚えてはおりませんが、その娘の背中には「弐」という痣が産まれつきあったそうです。その娘も、十八を過ぎた頃からぱたりと成長も老いる事もしませんでした。家の者は、それを奇病か呪いだと思い、やはり気味が悪かったからでしょうか、その娘が三十の時に、毒を飲ませて死なせたそうです。
それから日を待たずに産まれた娘の背中にも、「参」という痣がありました。家の者はその時には薄々、これがかの奇病を持つのであろうと確信しておりました。
当時は、奇病や障害を持つ者は忌み嫌われ差別される時代でしたので、こんな異様な事が外に洩れると家柄に傷がつくと思ったのでしょう、しかし、殺しても「肆」の者が産まれてくるかもしれない、そう恐れて、その娘は産まれてすぐに本家から離れた片田舎に隠棲させる事にしました。その娘もやはり老いる事なく四十で逝ってしまわれたそうです。
この奇病とも呪いとも言える不可思議な現象、その原因はわからないままですが、わからぬからこそ家の者は恐れ忌み嫌ったのです。しかし、一人の娘を犠牲にさえしていれば、他の者には全く影響はないようですから、「肆」、「伍」の娘が産まれても、その娘さえ人目につかない山奥へと住まわせておけばよい、本家は半ば諦めたように、そう結論付けたのです。
そして、私がその六人目の犠牲になりました。
産まれてすぐに背中の文字を知られると、そのままこの屋敷に移されました。この呪いの文字を背に持つ者は、三人目の時から「環」と名付けられるようになっておりました。私も環と名付けられ、親の顔も覚えぬうちに、この静かな屋敷で暮らす寂しい身となりました。幼少の頃は、一人の家庭教師と女中を付けられましたが、その二人とも、私を憐れむというよりむしろ畏怖しているようで、家の中はいつも重苦しく冷たい感じがしていました。
それで私は二十歳になった時、その二人には暇を出して、一人でこの家に住む事に決めたのです。必要なものは大抵、月に一度本家から送られてきます。それで大体は事足ります。
そして私は十八年という年月を……貴方が此処にいらっしゃるまで、一人きりで過ごしたのです」
環の語った内容は、俄かには信じられない事でした。しかし、薄暗い中でも、はっきりと彼女の瞳が真剣で、すこし潤んでいる事が分かり、惣一にはとても環が嘘を言っているようには思えないのです。
「気味が悪いでしょう?私、もう三十八になるのよ。でも、長くてもあと二年生きていればいいんだから、少し気が大きくなってしまったのね。貴方にこんな話をして……」
環は悲し気に微笑みました。惣一は、その言葉にまた新たに衝撃を受けました。
「二年って……どういう事?」
自分の腕がかすかに震えている事にも気づかず、押し殺したように問いかけると
「長くても四十までしか生きられない体なの。背中にこの文字のある人は皆四十までには死んでしまったから、それに……」
その言葉は、全く死を恐れていないようでした。諦めにも似た深く悲しい声調でした。
「話しすぎて、少し疲れたみたい。体を拭くのはもういいわ、少し眠ります」
環は、未だ呆然と座ったままの惣一にそう微笑んで、ゆっくりと床に臥しました。黒髪が柔らかく乱れながら純白の羽枕の上を覆うように流れて、布団の上に横たえられた環の姿はやはり少女にしか見えませんでした。
「惣一さん」横たわった状態で、環は惣一に顔だけを向けて言いました。「貴方と出会えて幸せだったわ。本当は、ずっと一人っきりで死ぬまで誰とも会わないと諦めていたの。この祟られた私に、笑いかけてくれる人なんて今まで一人も居なかった。本当に、最後にとても素敵な思い出が出来たわ。有難う」
ゆっくりと環は目を閉じて眠りにつきました。環は、自分の正体を知って、惣一が環から離れていくであろう事を予期しているようでした。
しかし惣一は、少しも環の傍を離れようなんて思いもしなかったのです。環に刻み込まれた呪いこそ、憎く恐ろしいと思えど、環自身のことをどうして忌み嫌う事が出来たでしょう。
それどころか惣一は環の秘密を知って、より一層環を愛しく感じるようになっていました。環の寝顔を見つめながら、今までは魂を抜かれたかのように環にただ惹かれていたのが、今度は、はっきりとした自分の意思で、彼女にずっと仕えたい、そして守りたいという強い意志が満たされていくのを感じたのです。今まではただ自分は環にしか興味が持てず、居場所はここしかないと確信していたのが、自分は何としても環のもとに居たい、自分の意思で自分はここに存在したい、そう強く思ったのです。それは惣一にとって初めての大きな選択でした。彼は悲しく幸福な道を選んだのです。
夜は明けました。今までとはまた違う新しい生活が始まりました。環は枕元に惣一が居る事に気付いた時、心から幸せそうな笑顔を浮かべました。秘密を共有しあった二人は、その残酷な運命の苦しみを二人で分かちあって、限られた二年という月日を静かに幸せに送るはずだったのです。少なくとも惣一は、そう望んでいました。
しかし現実は違いました。新しい生活、二人の絆は強く結ばれはしたものの、環の体は快復に向かうどころか日を増すごとに悪くなってゆくのです。家の中を少し歩くだけで、彼女には重労働になっていました。少し歩いては立ち止まり、そしてまた歩いては立ち止まる。庭の花の世話も、隣に惣一が居なければ上手くこなせないようになっていきました。
「最近は、あまり目が見えなくなって」
困ったように笑う環の瞳は、傍から見れば少女のそれと変わらず、どこも悪くはないように見えるのです。
惣一は漠然とした不安を胸の奥に感じながらも、やはり環の傍に居られる事は幸福でした。運命の残酷さから神を憎む気持ちと環に巡り合えた運命を神に感謝する気持ちが混在して、彼自身複雑な心境でした。
九月の中頃に入って、残暑も次第に影をひそめた頃、環は惣一の支えなくしては歩けなくなってしまっていました。
窓際に置かれた籐椅子に、人形のように座っている事が多くなりました。
惣一は、その傍に寄り添い他愛もない会話で笑いあったり、もう目のほとんど見えなくなった環のために本を朗読したりしました。本の朗読をはじめると柔らかい日差しが心地良いのか、環はよく居眠りをはじめます。惣一はそのあどけない寝顔に気付くとあまりにその顔に苦痛の影がないので、はっとして掌で環の寝息を確かめてしまいます。そしてきちんと息をしている事を確認すると、ほっと息をついてこっそりと笑みを漏らして飽く事もなくその寝顔を確かめるのです。
ある時、ふと環は籐椅子に腰掛けたまま言いました。
「きっと、外見が衰えない分、体の中は他の人よりも早く衰えていくんだと思うの。私自身、この奇病がどんな原因かは知らないけれど、四十までしか生きられないってそういう事だと思う。体の中っていうよりも、脳ね、きっと。多分、脳の機能が他の人よりも早く衰えちゃうんじゃないかしら。今はね、視力だけじゃなくて、耳もあまり良く聞こえないし、それに体も思うように動かせなくなってきているから」
惣一は、たまらなく切なくなって、環の華奢な手を握りました。
「あぁ、感覚はどんどん失っていくものだと思ったけど、目も耳もダメになっても、触覚だけはまだきちんとあるのね。惣一さんの手、温かい」
握り返された手の温もりと弱弱しさに、思わず惣一は涙が溢れてきました。時間というものが怖ろしくなったのです。残された時間は、ただ静かに幸せに過ぎてゆくのだと思っていたのに、まさかその時間が緩やかに環を殺していくなんて、そしてそれを隣でなす術もなく見守るしか出来ないなんて、彼は信じたくなかったのです。
「生きるって寂しい事だったのね。私、ずっと一人で暮らしてきて、何でも諦めて受け入れていたつもりだったけれど、ずっと心の中で早く死にたいと思っていたの。時間は長すぎるんだもの。でも私が生きても死んでも、誰もそれを知らない、家族だって私の事「六番目の環」としか知らない。誰も本当の私の存在なんて知らない。そう思うととても苦しくて、侘しかった。それって、今考えれば寂しいって事だったのね。惣一さんを初めて見た時、すごく嬉しかったわ。「六番目の環」なんかじゃなくて、ただ一人の私の存在を見てくれる人に会えたと思ってすごく嬉しかった。それだけでもすごく満足してたのに、私の秘密を知っても傍に居てくれて、本当に生きていてよかったって思えたの。でも、私にはもう時間がない。あれだけ長いと思ってた時間が、もう後少ししかないの。それが寂しい。変ね、今、幸せなのに寂しいの」
環はゆっくりと惣一の手を握ったままそういいました。
惣一は、もう何も言えなくなっていました。優しく笑う環は、親の愛情も、友情も、恋愛も、普通の人々が経験する様々な事を全く知らない、それなのに深い寂しさだけは誰よりも知っているのです。それが惣一をたまらない気持ちにしました。
残された僅かな時間を少しでも環が幸せに送れるように、惣一はそのためなら何でもしよう、と思いました。
しかし、その残酷な時間さえ神は満足に与えませんでした。
その年の秋も深まる頃、環は眠るように静かに息を引き取ってしまったのです。
惣一は、深い悲しみと絶望と生きる居場所を失った事で、茫然自失としていました。いっその事後を追って死んでしまおうかとも思っても、その気力すら失ってしまっているのです。
いつも静かだった室内は、突然の訃報で慌しく、惣一は露台でぼんやりとしていました。環の密葬が終われば、惣一はこの家を追い出されるでしょう。でも、それも惣一にとってどうでもいい事でした。環の居ない家にも世界にも何の興味もないのですから。
山の木々は赤く変わり、送り火のように見えました。庭の花々は相変わらず美しく咲き誇っています。
惣一は何気なく環がよく立っていた露台の手摺りへと近寄りました。そこにはぽつりと小さな灯籠がおかれています。薄紫の紗が張られたそれは、生前、環がよく使っていたものでした。その灯籠を手に取ると、笠の下に小さな布袋が結び付けられていました。
惣一は、急に意識が戻ってきたような気分で、その袋を開けました。袋の中には丁寧に折りたたまれた薄紫の紙、それは環から惣一へと宛てた最初で最後の手紙でした。
『惣一さん、指が思うように動かなくて、雑な字でごめんなさいね。
私が死んでしまったら、きっと七番目の環が産まれてきます。私は惣一さんに会えてとても素敵な思い出が出来ました。感謝しています。
けれど、七番目の環の事を考えると可哀想でなりません。勝手な事を、と思うかもしれませんが、惣一さんにその子の事をお願いしたいです。でも、惣一さんは、とても素敵な方だから、こんな家には居ないで、素敵な方と出会って幸せになって欲しいとも思っています。
どちらにしても、貴方が一番幸せだと思う道を選んでくださいね。きっと上手くいきますよ。最後に、私と出会ってくれてありがとう。
環』
それは、とてもたどたどしい字でした。惣一は、それを読み間違えないように、慎重にゆっくりと、何度も読み返しました。
惣一にとって、それは唯一、環が存在した事を示す、本当の環の言葉だったのです。
なぜなら、環が死んだ瞬間、惣一は環の姿を全く思い出せなくなってしまっていたのですから。
環と過ごした時間、話した内容、寂しそうにしていた事、それらはきちんと覚えてはいるのに、何故か環の顔立ちだけはぼんやりと霞におおわれたかのように、全く思い出せなくなってしまっているのです。ただ記憶に残るのは、彼女の身に纏っていた薄紫の着物だけ――
遠い目をして語っていた男が、一度目を伏せてそれからゆっくりと私に視線を戻した。
「終わり?」
「ええ、疲れましたか?」
どの位、時間は経ったのだろうか? 壁の時計は無くなってしまったのだからわからない。
目の前の男は、語り終えた後、今まで見た事もない寂しい微笑を浮かべた。
この微笑が彼の正体なのかもしれない。
「正体なんて、知らない方が良かったのよ」
私は半ば自分に言い聞かせるように言っていた。それは秋の夜に響く音色の正体、籐椅子で一日を過ごす自分の正体、私がいつも感じている空虚な感覚の正体、目の前に座っている男の正体、その全てのような気がした。
夜はまだ深く何かを考えていなければならないような気分にさせる。そうしなければ濃い夜の影に引き込まれてしまいそうな憂鬱な気分だ。でも、私が何を考えたところで、そんな小さな事は意味がなく、朝が来ればまた空白に戻るのだ。
たとえ何かを考えて結論を導きだしたとしても、それは自分の中だけの事で、それが他の何かに影響を与えるわけでもなく、全ては認識されず空白と同じになる。私が私自身の存在を確認しても、誰も私の事など知らない事と同じだ。
「お前は、私の事も忘れると思う?」
六番目の環の顔を惣一が忘れたのは単に大きな悲しみからだろうか、それとも「環」の名が与えられたものは、そういう運命にあるのだろうか。
「忘れはしませんよ。貴方が居た事は」
男は、じっと私の顔を見つめる。男はいつもの無表情に戻っていた。私は彼の瞳が環の面影を探しているようには見えない事に一種の安堵を感じてゆっくりと立ち上がる。彼は、忘れはしないだろう、私が存在した事は。たとえ私の顔を思い出せなくなったとしても。今はその事に満足しなければならない気がした。
大抵の人間は、忘れ去られてしまうものなのだ。それは仕方のない事。
それを虚しく感じるのは愚かな事で、足掻くだけ無駄なのだ。人の本当の存在なんてものは幻と同じなのかもしれない。この世から消えてしまえば、その存在が確かにあったのかなど、証明のしようもない。外面上の存在は、戸籍や遺品で証明出来るだろう。ただ、その存在の中身、核となる部分は幻でしかない。
結局、真実とは幻なのだ。
私は、六番目の環のように、本当の自分を知る者がそばに居る事を感謝せねばならないのかもしれない。それでも、私は全てを拒絶する事は出来ても、受け入れる事は出来ないでいる気がした。
私の中に、六番目の環と惣一に対する、そして二人は経験しなかったであろう一つの寂しさが生まれてしまった事に、気付いてしまったのだから。
「もう夜も更けました。休みましょう」
男は静かにそう言って、私の手を引く。彼はその彼自身の正体を私に話した。そして環の本当の存在を私に語った。六番目の環の幻は、少なくとも私に伝わったのだ。
それが私を余計に寂しくさせた。
唯一、私の事を知る目の前の男も、いずれは死んで全ては幻としてしか存在できなくなるのだから。
そして彼が私の幻を誰かに語る事がなければ、私は「七番目の環」としてしか、存在しなかった事になるのだ。
了
どうしようもなく長い話になってしまいましたorz
最後まで読んで下さった方、本当にお疲れさまです。
自分の筆力と表現力の無さを身に沁みて感じる結果となりました。
何とかめげずに精進して行きたいと思っております。
悪いところの指摘やわからない所があったら教えて欲しいです。
では、最後までお付き合い下さって、本当に有難うございました。