1話
人間は主に、生者と死者に分けられる。
「…嫌だ」
死者は死んでからも霊として数か月は現世に留まることができる。
「…やめてくれ」
だが、悪霊や妖に転じてしまうことは少なくない。
「来るな…!」
本来ならば天界に行っていなければいけないのだ。
「まだ行けない、行けないんだ!」
死者になり、行く方法が分かっていても来ない霊たちは危険に晒される。
「頼む!…五分だけ待ってくれ!」
悪霊になることは滅多にないが、妖になることは可能性が高い。
「…つ、妻が帰ってくる時間なんだ」
奴らは仲間を増やすことにも貪欲だ。
「せめて一目見てからに…」
だが、目の前の死んだばかり死者の霊はそれを知らない。
壁際にまで後ずさった男はつい五日前に殺され、死者になり、霊となった。
死因は頭部打撲の出血多量だった。
現世で増えつつある通り魔の犯行で犯人は捕まっている。
「家族は兄が一人と妻のみ、か…」
手帳を片手で捲りながら男の霊の人生を視る。
「頼むよ、あんた、死神なんだろ…?」
死神という言葉にわざとパタンと音をたてて閉じる。
男は俺を、現世のファンタジー小説でお馴染みになりつつある“死神”だと思っているらしい。
被っていた黒のロングコートのフードを取った。
久しぶりに覆いから出られた髪が揺れる。
「俺は死神様じゃない」
そう、死神様のような者じゃない。
「神の使い、忌狩りの一期生№0だ」
「い、みがり…?」
聴きなれない単語に男は大量の疑問符を浮かべているが、俺が問うのは一つ。
「神がお待ちだ、早く手を取れ。抵抗すれば強行する。」
右手を差し出して男を窺う。
さっき妻に会いたいと言っていたのだからこの手は取らないだろう。
(だが、警告は規則だからな)
「もう少しだけ…頼む!この通りだ!」
額を床に押し付ける。
この男は今、どんな気持ちなのだろう。
急に見知らぬ奴に出張先で殺され、歩き以外の移動手段を持たない死者となった。
ほぼ休まず歩き続けてやっと辿り着いた我が家で、妻に会いたいが為に額を床に押し付けているのだ。
(理不尽だ、不条理だ、なんでこんなこと…か?)
「ダメだ」
しっかりとした声で突きつける。
「なんで…!?」
男の泣きそうな顔に視線がぶつかる。
(お前には規則というのとは別の理由がある…)
悲しみを背負わせたくない。
幸せな記憶のまま、知らないまま。
「…死んでから現世に留まるのは本来ありえないことだからだ」
震えそうになる声を押さえつけて答えた。
お前はもう死者なのだ、と。
この世界の時間から弾かれたのだ、と。
何回やっても現状を突きつけるのがつらい。
(償いをしたいと願ったのだからこの痛みは受け入れなければならないのに…)
「本当に後数分なんだ!頼むよ!!」
縋り付いてくる男を俺は拒めない。
他の忌狩りだったら、どうするのだろうか。
俺を異質だと避けている連中は何も言わず強行するのだろうか。
(一目見せてやるか?いや、でも…アレは…)
自分と享年が十歳も年の離れていない男の心の強さを量りかねていた。
(いや、量っている場合ではないな)
怨まれるのには慣れている。
してはいけないことをしてきたのだから。
「神の意向に沿わず残留を望む者、今此処で我が刃に裁かれよ!」
また唱えてしまった、強行開始のこの言葉を。
縋り付いていた男は態度を一変させた。
「嫌だっ!!」
俺の言葉に男は拒絶した。
さっきまでしがみついていた足を押し飛ばして玄関の方へ逃げようとしている。
(霊なら壁の通り抜けが出来る、というファンタジー小説が現実でなくて良かったな)
倒れる前にバランスを崩しかけた体を片手をつくことで持ち直す。
「待て!」
静止を呼びかけたがドアを開けて出て行くところだった。
(やるしかねぇのか、くそっ…!)
舌打ちしながら追いかける。
強行開始とは言ったものの、武器を使わずにいたかったが逃げられれば問題になる。
相棒の回転式拳銃を構え、
「熾色!」
名を呼ぶと銃が光る。
呼ぶことで何かがあるわけではない、それなのに応えるように光る。
(不思議な銃だよ、お前は)
そのまま俺は男の足を一発で撃ち抜いた。
生前も銃は得意だったのだ。
ホルスターに戻している間、男は体を引きずりながらまだ逃げようとしていた。
霊になり、死者であっても生者と同じ痛覚なので痛みはある。
「…叫ばない、か…」
男の先にしゃがんで覗き込むと、呻き声を我慢しているのが見てとれた。
「話さないでいてやる方が幸せかも知れないんだが、お前は覚悟できるか…?」
その必死な姿に独り言を呟いた。
「…なんのことだ」
鋭い眼とぶつかる。
「お前が見ようとしている未来だ」
「未来…?」
本当に言ってしまっていいのだろうか、と迷った。
絶望や悲しみなど、負の感情は妖に転じてしまう可能性があるらしい。
今までのリストで転じた魂は居ない為、知識でしかないが。
「何を知っていると言うんだ……まさか、妻に何かあったのか!?」
痛みで這いつくばったまま、想い人の心配をする。
(神は多くのことを知っているのだ)
「お前が死んだ時点で、色々変わってしまうものだからな」
本当にこれだけはどうしようもないのかもしれない。