魔王様は死を覚悟する
生まれてこの方ずっと、最弱の魔族として生きてきた。他の魔族と特に接することもなく。
ずっと、きっと塵となって消えるまでひとりきりで過ごすのだと思っていた。
魔族は弱肉強食。自分のような弱い魔は、捕食されるか隷属させられるかの二択。
食べられるのも、隷属させられるのもいやだった。だからひとりでいることを選んだ。
餌を取れずに植物から生気を分けてもらって生き延びた。
体は小さいままで、魔力も殆どないままで。
誰とも接することなく、静かに、ただひっそりと。
ずっと、ずっとこのまま生きていけると思っていた。
あの、恐ろしく忌まわしい魔王が滅びる日まで……
『断罪者が魔界の門をくぐった』
その第一報が魔王城の執務室に届けられた時、魔王は書類の山に埋もれてながら、必死でサインと捺印をしている最中であった。
「あ。そう」
一瞬だけ手を止め、すぐまた書類に意識を戻して作業を再開する。
「それだけですか」
陰険鬼畜眼鏡と魔王が内心呼んでいる青年は、氷の如き美貌を僅かに歪ませることもなく、しかし口から紡いだ言葉は、微かな嘲りが滲んでいる。
「そいつがここにくるまでに、最低限必要な書類は片づけておく、それでいいだろう?」
魔王は顔も上げず、淡々と尋ねる。
「ええ、それで結構です。では私はこれで」
青年は形ばかりの、しかし美しい所作で一礼すると、相変わらずの無表情で執務室を後にした。
完全に扉が閉じたのを確認してから、魔王はちらり、と、扉の方へ視線を向ける。
青年が戻ってこないのを確認すると、深いため息をついて羽ペンを転がし、肩肘をつく。
「断罪者、か……。まあ、今まで持った方が不思議だったんだから仕方ない」
魔王は、紐で無造作にくくられた自らの黒髪を一つまみすると、その毛先を目の前でふらふらと揺する。
一切の光を吸収する完全な闇。瞳と同じ色のそれは魔王の証たる始原の黒。
宝珠により選ばれ、その心臓に宝珠を宿す者。それが魔王。
今代の魔王は完全な人型であった。
鋭い牙も切り裂く爪ももたず、魔力も宝珠に拠る力のみ、という魔界史上最弱の魔王。
力がすべての魔族において、魔王として現在君臨できている理由はあるけれど、それももうじき意味をなくす。
断罪者。または選定者、代行者ともいう。
外道に堕ちた魔王を滅するため、神により人界に使わされたモノ。
それは人間の女の胎を借りて、人界に生れ落ちる。
その兆しは五界を貫く虹光によって現れる。
人の姿をしながら、それは人に非ず。
神の代行として魔界を司る王を殺す力を与えられた神界の使徒。
……と書けばかっこいいのだろうが、いかんせん人の胎を借りて生まれるだけに、最初は赤ん坊である。
更に成長速度は人間と同じなので、ぶっちゃけ断罪者としての力を正しく行使できるようになるには、成人するまで待つ必要がある。
しかも今回の断罪者は、人界に生まれてから既にもう二十五年が経過している。過去の例と比べると格段に遅いご登場である。
普通の断罪者は、早ければ十七年程で魔界の門をくぐる。なので、魔王は数年前から覚悟をしていただけに、むしろ「やっとかよ」という思いの方が強い。
魔界には、断罪者を妨害するような愚かな魔族はいない。
アレは魔族の天敵だ。侯爵級以上の魔族なれば互角に戦い得るだろうが、生憎と魔王のために命がけで戦うような物好きはいない。
魔王は魔界を司る王である。一応。
存在することで魔界の魔力が安定し、四季も恙なく廻り続ける。
しかし、魔族が魔王に大人しく従うとは限らない。例えば、先ほどの青年のように。
たとえ相手が宝珠により選ばれた魔王だとしても、それに従う義理はないのだ。
力こそすべて。
それが魔族の大義であり、存在意義だ。
自分より弱い魔王など、仕えるに値しない。
そんな彼が、一応、臣下としての礼をとるのは、一応玉座に在るから。それだけだ。実にくだらない理由である。
とりあえず、誰でもよかったのだ。
断罪者に滅ぼされるためだけの、中継ぎの魔王。
そのためだけに生かされている自分を、魔王はよく知っていた。
勿論、魔王とて死にたくはない。
だがしかし、自分が弱いのは事実であり、この魔界では弱いものは目立たずに隠れていなければ生きていけない。
こんな弱い自分が、魔王などと論外なのだ。
本来、魔王はそれなりに実力がなければ玉座にはたどり着けない。
宝珠を取り込んだ後、自ら城に赴き、玉座に至る。それが魔王の正式な即位である。
宝珠を取り込んだだけでは魔王と認められない。力なき魔王は玉座にたどり着く前に殺される。
それは魔王となるための儀式であり試練である。
当然のことながら、現魔王もその儀式はクリアしている。あれをクリアした、といっていいものであるのなら。
そりゃ一切妨害がなけりゃ玉座までいけるよね!!!!
断罪者が、あのタイミングで生まれなければ、自分は宝珠を取り込んだ直後、『不適格』として殺されていただろう。間違いなく。
将軍が先代魔王を斃した全く同時刻、断罪者誕生の兆しが五界を貫いたのだ。
これには、魔族全員が困惑した。
断罪者は魔王を斃すまで天に帰ることはできない。
しかし断罪者が斃すべき魔王を、うっかり先に斃してしまった。
斃されたとは知らない断罪者は、間違いなく次の魔王を斃しに魔界にくるだろう。いや、標的が違うとわかっていたとしても、天に帰るには魔王を斃すしかないのだから、斃されるべき非がなくとも魔王は斃さなければならない。
断罪者が大人になって魔界にやってくるまでの、確実に短期間の在位。
そんな殺されるとわかりきってる魔王位に就きたいと思う魔族は誰もいなかった。
だが、先代魔王が斃された時点で宝珠はその骸から飛び出し、次代の選定を始める。
そこに魔族たちの意思は欠片もない。
そうして・・・選ばれたのは哀れでか弱い魔族。
本来なら玉座どころか確認され次第抹殺されていたであろうその存在は、皮肉にも断罪者への生贄として魔王城に連行された。
色々な意味で不本意な結果になった責任は、先代魔王を斃した将軍とその悪友たる宰相に押し付けられ、断罪者がくるまで暫定的に、彼らが後見につくという条件のもと、現魔王の執政が始まったのである。
本当に、不本意ながら…
魔界の門をくぐったとして。転移を使えば城まで一瞬だが、宝珠による特殊な結界が施されている関係上、魔族もしくは魔王と契約した者以外は門から直接城には転移できない。
とはいえ、魔族からの妨害は一切ないので、断罪者が城につくまで三日とかからないだろう。
魔王は不眠不休で一日半かけて必要な書類をすべて処理し、後は自身の身辺整理に時間を充てることにした。
とはいえ、どうせ死ぬ身だとわかっていたので、私物はそんなにない。
元々が弱小魔族だったのだ。身一つで魔王城に連行されて、一応体裁だけは整えろとそれなりの品は揃えてもらったが、どれもこれも高級すぎて性に合わなかった。
結果、シンプルイズベスト。余計な飾りは一切身に着けず、部屋の中の装飾は可能な限り質素に抑え、着るものも動きやすい軽装で、一応マントを羽織っているものの背がそんなに高くはない(むしろ低い)のでマントに着られている感がぬぐえない。
このため当初、余計周囲に侮られる羽目になったのだが、魔王は特に気にしなかった。
ただ、実害があって、更に宝珠付の魔王より弱い相手に対しては、容赦なく報復に出た。
そうしないと侍女にすら侮られるのだ。これは生活していく上で非常に問題があった。
かつて、仕事を放棄して嘲る侍女を、宝珠の力を用いて四肢を潰した。
「確かに、私は魔王としては最弱だ。だがそれでも、『今はお前より強い』ということを忘れていないか?」
頭を踏みつけ、容赦なく圧力をかける。この侍女は四肢を潰されても死にはしないが、さすがに頭を潰されたら死ぬ。
泣きながら赦しを乞う侍女を、死ぬ寸前で解放し、一部始終を見ていた衛兵に医務室へ連れて行くよう命じた。
彼らは、弱い魔王がそのような真似をしたことに驚いていた様子だったが、宝珠の補正を思い出したのか、衛兵は敬礼すると命令通りに侍女を連行した。
そのうちに、少なくとも貴族級未満の下位魔族たちは魔王に従うようになった。
魔王は無駄に高い天井と延々と続く廊下を、ぼんやりと歩いていた。
(捨てておくべき物はどれだっけかなあ…自分が死んだ後のことなんてどうでもいいけど、黒歴史は抹消したい)
頭の中で私物の整理方法をあーでもないこーでもないと考えつつ、何気に気配を感じで振り返る。
「いよぉ、陛下。とうとう年貢の納め時だなぁ」
にやにやと実に嫌な嗤いを口許に浮かべた偉丈夫が、何もない空間から現れた。
なんだ脳筋男か。と魔王は思ったが口には出さない。
「そうだな。そのためにも身辺整理をしなければならないので失礼するよ。時間があまりないのでね」
会話する時間も惜しい、とばかりに魔王は視線を前へ向けた。
男はチッと舌打ちすると、魔王の後ろに続く。
「断罪者が来ても助けてやる気はないからな、せいぜい無様な死にざまを晒して嗤いモノになるんだな」
魔王にとっては当たり前すぎることを言われても、特に何とも思わない。本当に、今更だ。
「別に期待してないし、自分が死んだ後なんて興味ないからどうでもいい」
どうでもいい癖に、身辺整理しようとするなんて矛盾してるな、と、魔王は内心自分にツッコミをいれたが、当然男にはわからない。
「てめぇ、本当にいいんだな。てめぇが断罪者に斬られて血塗れで助けを求めても絶対たすけねぇからな。むしろ指さして嗤ってやる」
背後で一瞬にして怒気が膨れ上がったが、それに怯えることもなく、魔王は飄々としている。
「それは無理だね。断罪者が城に入った時点で私は城を閉ざすから」
被害を最小限に抑えるために、断罪者が城に入った時点で、宝珠は結界の質をかえ、断罪者と魔王以外を城の外へ追い出し、拒絶する。
これは魔王の意思とは関係なく発動する。この世界の理の一環である。
魔族ならば常識なのだが、男は失念していたのか、動揺のためか怒気が一瞬揺らぐ。
「遅くとも、明日には断罪者が城にくる。それまでの我慢だよ将軍」
魔王は、振り向かずに手をひらひらと振ってみせた。
将軍と呼ばれた男は、自らの背の半分ほどしかない魔王を見下ろしながら睨みつける。
魔王が小柄なせいもあるが、男が大きすぎるので仕方がない。
小さくて弱い魔王は、それでも、ぴんと背筋を伸ばして視線を前に向けている。
最初に会ったばかりの頃は、男に怯えて震えて目も合わせなかった筈なのに、いつからか開き直って、生意気にも対等に意見を述べるどころか、軽くあしらうようになった。
それでも、その姿もこのままだとこれで最後だ。
明日には断罪者がくる。そして魔王を斃し、天に帰る。
魔界は新たな魔王が即位するまで、再び戦乱の世となるだろう。
男は、自分より弱い魔王の即位を認める気はなかった。
だから次の宝珠が自分を選ぶまで、魔王候補を殺し続けるつもりだ。
この眼前の、非力で小さな魔王が、滅ぼされた後の世界で
「……惨めに助けを乞うなら、今のうちだぞ陛下」
無意識に拳を握りしめ、唸るように問う男に、魔王は淡々と答えた。
「そんな無駄なことはしないよ。たとえ断罪者に殺されなかったとしても、次代の座を狙う輩に結局殺されるだけだしね」
魔王は、自分が非力だということを知っている。
断罪者の存在によって、生贄として生かされているだけだと知っている。
仮に断罪者が殺さなくても、結局、他の誰かが魔王を殺すのだ。
魔族は弱いものには従わない。よって必ず弱い魔王は弑される。
魔王に傍に、圧倒的に強い味方でも傍にいない限り。絶対。
魔界の摂理。望みもしないのに、しかし選ばれてしまった以上、逃れられない宿命。
自嘲しながら、ふと魔王は何かを思い出したか、ぽつりと呟いた。
「……シスの花を、見損なったな」
それは魔王が即位した後、魔王城内が殺風景すぎる、と、魔王自ら小さな花壇をつくり世話を始めた花だ。
花が咲き、実を結び、そして種となり…小さな花壇は、その範囲を徐々に広げていた。
淡い銀青の花弁のちいさなシスの花は、孤独な魔王城での日々の、ささやかな癒しだった。
あと数日で咲くだろうと、楽しみにしていたのだが。
恐らく、もう咲くことはない。自分が死ねば、魔界は戦乱の世となる。その争いに、あの小さな花は耐えられない。跡形もなく消し飛ばされるだろう。
「シス・・・? ああ、あのちっぽけでみすぼらしい花か」
ふん、とバカにしたように男はその花を思い出した。魔王が執務室からたまに抜け出しては、世話をしていた後ろ姿と共に。
「なあ将軍、一つ頼みを聞いてくれないか?」
まず無理だろうがな、と思いながら魔王は口にした。
「私の代わりに、花が咲き終わるまで守ってくれないか。散ってしまったら、あとは破壊するなり好きにするといい」
「……何をやってるんですか、陛下」
絶対零度の視線と共に問われた魔王は、作業の手を止め、泥だらけな顔で振り返った。
「このままだと、咲く前に散らされそうだから、せめて他の場所に植え替えておこうかと…」
陰険鬼畜眼鏡が仁王立ちして睨みつけている姿を確認し、また花壇に視線を戻す。
結局、予想通り男には断られた。そして何故か逆切れされた。
「んなもん知るか! 守りたかったらてめぇで守れこのくそ莫迦魔王!」
てめぇで守れ、とか無茶を言う。明日殺される身でどうやって。
悩んだ結果、蕾を安全な場所に植え替えることにした。時間がないので、思い立ったら即やらねばならない。
せっせせっせと根っこを土ごとくるんで移動用の箱に移す作業に精を出しているところに、やってきたのが青年だった。
相変わらず神経質な顔つきをしているが、今日は何故か一段とイラついている印象を受ける。何故だ。
「ちゃんと急ぎの書類は決裁しただろう。後は私の自由時間だ。好きにしてもよかろう」
二十年前、ふと思いつきでつくった花壇は、魔王の想像以上に広がっていた。
順調に育った証でもあるが、何故だろう。今になってから疑問が浮かぶ。
魔王もちゃんと手入れはしていた。していたが、自分にここまで植物を育てる才能があったとは思えない。即位前の、ただの一魔族だった頃の自分を思い出す。
自分が食べるための野菜等を確かに作ってはいたが、正直農業の才能があるとは言い難かったのだ。
ううむ。と唸りながらもスコップで土を掘り返す手を、白手袋に覆われた手によって掴まれた。
「そのやり方では根を悪戯に傷つけます。全く、あなたは花を生かしたいのか枯らしたいのかどちらですか」
「ああっ」
スコップを取り上げられ、あさっての方向に放り投げられる。
「花のことは庭師に任せておけばよろしい、さあ、いきますよ」
ちょっとまて。庭師などという存在が、魔王城にいたっけか?
青年に問答無用で小脇に抱えられた魔王は、腕が腹に食い込んでつらかったので、その疑問を口にする代わりにうめき声をあげた。
連行された先は、魔王が自ら封印していた衣裳部屋であった。
理由は、揃えられた服の趣味が悪すぎたからである。
「その格好ではみすぼらし過ぎて、断罪者に魔王と認識されない可能性が非常に高い。せめて衣裳だけでも魔王らしくなさるがいい」
ぽい。と無造作に放り投げられた魔王は、軽く一回転してから起き上がった。
本当に、魔王に対する態度は容赦ない。この青年の辞書には敬意という言葉は存在しないらしい。
魔王らしく、と言われても……
無駄に金ぴかとか、謎の髑髏とか爪とか牙とかが装飾されている実に悪趣味なこれらを着ろと。
元より威厳なぞないが、これでは確実に道化者である。
「宰相」
「何です?」
「本気でコレが私に似合うと思うのか?」
もしそうだとしたら、是非眼鏡の修理と視力矯正をおススメする。
といってもこの青年の眼鏡は伊達というか、正確には封印呪具の一種である。視力が悪いわけではない。
そうですね、と、青年は眼鏡の位置をくい、と正して、真顔で答えた。
「非常に面白い見世物になると思います」
何故自分にはこいつを殺すだけの力がないのだろう、魔王はこのとき本気でそう思った。
「まあ、それはそれとして、その普段着で断罪者と相対するのだけは、絶対に阻止させていただきます。魔族の沽券に係わりますので」
泥だらけなのでまず湯浴みをさせられてから、なんだかよくわからない角の生えた動物の髑髏を頭に被り、何やら銀やら金やらじゃらじゃらする装飾品を大量に身に着けさせられ、髑髏杖まで装備させられた魔王だった。
正直重くてまともに身動きがとれなくなった魔王をわざわざ大広間に連行して玉座に放り投げると、青年は、軽く一礼して出て行った。
気が付けば、衛兵や侍女達の姿は見えない。既に皆逃げ出したらしい。
断罪者が城に一歩踏み込めば結界が発動し、城内の存在は魔王以外すべて外にはじき出される。
その際、安全への考慮は欠片もないと知っている魔族たちは、そうなる前に城を抜け出すのが常識であった。
「身動きできない状態で、飲まず食わずで一晩ここで過ごして断罪者を迎えろってか……」
もっとも、宝珠から湧きだす魔力のおかげで、飲まず食わずでもそう簡単に死ぬことはない。単に…精神的につらいだけで。
死なないからといって、空腹を感じないわけではないのだ。
「拷問か、拷問だろこれ。断罪者に『殺してください』って自分から懇願するように仕向けてんのかあの陰険鬼畜眼鏡」
やっぱりあいつ最低だ。最期の夜くらい静かに物思いに耽らせろってんだ莫迦野郎。
結局、静かに物思いに耽るどころか、一晩中青年に対する恨みつらみを延々呪詛の如く呟き続ける魔王の姿があった。
身動きできぬまま玉座で転寝していた魔王が覚醒したのは、その心臓たる宝珠による結界発動を感じ取ったからであった。
「ああ・・・やっときたか」
とりあえず、殺される前にまずこの無駄に重い装飾品一式を叩き斬ってもらうようお願いしてみよう・・・話が通じる相手なら。
なんでこうなった。
それが魔王の正直な感想であった。
目の前にいるのは断罪者、神の代行者にして魔王を斃すもの。
金髪碧眼で清廉潔白の美丈夫な騎士。
……で、間違いないんだよな?これ?
魔王は断罪者と対峙した折、駄目元で本当に装飾品の切断を頼んだ。
断罪者は条件付きでそれを承諾した。その条件が
「わかった。かわりになんか食い物よこせ」
…だった。
とはいえ城内には今魔王と断罪者の二人きりである。
仕方なく彼を食堂の厨房につれていくと、彼はさっさと食糧を漁り始めた。
その姿をみているうちに、自分もそういえば一晩絶食していたことを思い出し、結局二人で直ぐに食べられそうな食糧を山積みにして、向かい合わせで食事をしているという、よくわからない状況になっていた。
腹が満たされると心に余裕ができるのか、二人はどちらからともなくぽつぽつと雑談を始めた。
「そらな、俺は魔王を斃すのが役目だけどさ、何の罪も犯してないのに屠るわけにもいかんのよ」
そういわれてみれば、非常にもっともな話なのだ。
前魔王はともかく、今の魔王は断罪者に滅ぼされるほどの悪行をした記憶はない。はっきりいうと、するほどの力もない。
魔王は地道に仕事をして、魔界の機能を回復させることを最優先にしてきた・・・筈だ、そのつもりだ。
そもそも最弱魔王の呼び名は伊達ではない、悲しいことに。魔法なしでも武官の拳一撃で死ねるだろう。それくらいか弱い。
「とはいえ、ずるずると人界に居続けることもできなかったんだよなあ」
「なんでまた」
「魔王を斃すのが役目なのにその役目を全うしないから、変な方向に勘ぐられたみたいでな。ものすごい勢いで装備その他を整えられて追い出されたよ」
「うわあ。ひどい」
「だから仕方なく魔界にきたんだが、別にお前さんを無理に殺す気はないって説明をしにここへきたら、結界が発動したというわけだ」
「この結界、自分の意志で発動するわけじゃないから…」
はあ。と、二人同時に嘆息する。
「そんなわけで俺は君を殺さないから安心してくれ」
「うぅむ。でも、どっちみち殺されるのなら一思いにやってもらったほうが楽かなぁ」
断罪者に殺されなかったとしても、結局魔族に殺されるしかない。
魔族相手だとあっさり殺してもらえるとも思えないので、ならばいっそ…と、断罪者のもつ神剣にちらりと視線を送る。
「どっちみちって…なんでまた?」
不思議そうに首を傾げる断罪者に、魔王は端的に事情を説明した。実力至上主義の魔族の思考が理解できるか疑問だったが、あっさり納得された。
「はぁ~。難儀だねぇ、魔王様。確かに魔王の割には魔力とか格段に弱いよな。いくらなんでも、宝珠の底上げがあるんだからもうちょい強いはずなんだが…」
秀麗な眉をしかめて、断罪者は魔王を凝視した。
「……てか、もしかしてさあ、ソレ、本来の主食を食べてないから、力がでない、とかじゃね?」
その指し示す先には、魔王が今食べているモノ…丸のままのキャベツがあった。
キャベツは新鮮なものを丸かじりすると甘くてうまい。というのが魔王の持論である。
「……まあ、それもあるんだが……色々と事情があってな」
非常に歯切れの悪い返事に、断罪者はすっと目を細めた。
「ふぅん? まぁいいんだけどね。それよりさ、魔王様。お互いの立場は確認できたことだし……俺たちは協力しあえると思わないか?」
ぶらん、と襟首を掴まれ片手で吊るされてる魔王と、吊るしている断罪者が、結界の中からひょっこり現れた。
何故か魔王は両手両足を力なく垂らし、されるがままにだらんとぶら下がっている。傍からみれば、まるで死体のように。
けれど、それはありえない。魔王の肉体は死と共に宝珠に取り込まれて消失する。即ち、器が存在している時点で魔王はまだ生きている、ということだ。
何故か全身ボロボロではあるが、とりあえず魔王は生きているらしい。
断罪者はそのまま城門をくぐると、ふと前方に気配を感じて足を止める。
「へっ、公衆の面前で嬲り殺したぁ、天神の癖にいい趣味してんじゃねぇか」
緋色の髪と瞳をもつ偉丈夫が、陽炎の中からゆらりと現れた。
「そんなつもりじゃないんだけどね、あまりにも抵抗するから仕方なく…ね?」
抵抗するに決まってるだろうがああああああ!!? と内心叫びたかった魔王だが、既に精も根も尽き果てている。もう勝手にしてくれ、と投げやりになっているともいう。
「んなこたぁどうでもいいんだよ、断罪者。お前が斃すべき相手は俺が斃した。お呼びじゃねぇんだよ。城内で殺しそこなったってんなら、ソレを置いてとっとと消えろ。ソレの始末はこちらでつける」
殺す気満々だな脳筋男め。
既に指一本動かすのもだるいので、悪態は脳内に留めている魔王であった。
何故か妙に威嚇してくる脳筋男に、断罪者は実に胡散臭い笑顔で答えた。
「ああ、始末されちゃ困るんだよねぇ。一応、俺の契約主だからさぁ?」
一応か。嫌がる私を力ずくで契約させておいて、何を。
だらんと力なくぶら下がりながら、魔王は遠い目をした。
向こうの提案を拒否したら、全力で追いかけ回された挙句……だめだ精神衛生上よろしくない。思い出してはいけない。封印しよう。
「契約ぅ? そのヘタレ魔王と一体何を契約したってんだよ?」
ヘタレ扱いとかふざけんな脳筋め。報復が怖いから悪態は心の中限定だけどな!
「ふふん、まあ俺は今後、魔王様だけの騎士としてココに留まることになるんで、一つよろしく?」
キィン!
べちゃっ
金属の衝突音と、何かが地面に叩きつけられた音。
前者は剣と剣の鍔迫り合い、後者は……反射的に地面に打ち捨てられた魔王が落ちた音だった。
「うう…」
断罪者と脳筋男が、互いに凄まじい笑顔を浮かべながら激しい剣戟の響きと共に姿を消す。神速で戦っているため視認できないのか。見てるだけで肝が冷える光景だが、魔王はソレすらできなかった。顔面がいまだに地面と友達だからだ。
指一本動かすのも億劫であるというのに、自力で立ち上がれとかなにこの苦行。
一応魔王なんだけどな。うん、まあ所詮最弱だから仕方ない。
疲弊しきった体に鞭打って、なんとか両手を地面につけ、ぷるぷると上半身を起こす魔王。その姿は、生まれたての小鹿を連想させた。
「何をやっているんですか、全く」
ひょい、と襟首を掴まれてそのまま持ち上げられる。猫の子のような扱いもいつものことだ。魔王は既に諦観している。
「……逃げ疲れた」
何処か焦点の合わない虚ろな眼差しで虚空を見詰める魔王の姿に、陰険鬼畜眼鏡こと宰相はその秀麗な眉をわずかに顰める。
「あの男は、あなたと契約したと言いましたが、何故逃げたのですか」
答えずにすむ方法はないかと思考を巡らせたが、現状で宰相に逆らうことは得策ではない、とはいえ正直には非常に言いづらい、ので。
「……契約方法、が……いやで」
「契約方法ですか。まさか真名を捧げたのですか?」
ヒヤリ、と宰相の纏う空気が鋭くなる。あ、やばい怒っている。何故こいつが怒るか謎だが。
だが、逃げた理由はそれだけじゃない。真名の交換だけならまだよかった。そう、それだけならば。
「ところで陛下。少し気になることがあるのですが」
声の温度は低いままだ。魔王は襟首を掴まれ吊られた状態のまま、戦慄した。なんだろう、嫌な予感がひしひしと。
「もしかして、成長されてませんか? 少し重くなっておられますが」
太ったとでもいいたいのだろうか。むしろ絶食させられたんだが。魔王はジトりと宰相を睨み付けたが、驚いたことに宰相は真顔だった。
本当に太ったのかと愕然とする魔王の頬を、伸びてきた宰相の手が撫でる。
「間違いありませんね、少しですが成長なさっておられます。それに魔力も増幅しているようですね。一体、何が」
全く心当たりがない、そう言いかけて、魔王はふと先程封印したばかりの嫌な記憶を思い出す。封印の意味がない。
だが、それをここで口にする訳にはいかない。断罪者にはバレてしまったが、こいつらにだけは隠し通さねばならない。
バレたら、色々と終わる。決して終わってはいけない何かが。そんな恐ろしい予感がひしひしと魔王を襲った。
そんな魔王の想いをせせら笑うかのように、断罪者の声が響いた。
「はっ、そりゃそうだ。弱くて当たり前、正規の食事をしてなかったんだからな。主食をたんまり取れば、そいつはもっと美しく強く……っと!」
殆ど力のでない魔王が必死で投げた石を、当然ながら断罪者は軽く避けた。
将軍も既に剣を納めている。断罪者の発言に食いついていた。
「どういうこった? 陛下はちゃんと飯を食ってた筈だが」
「あれは主食じゃない。代替食料だ。だから魔王様は力がでない。成長もしない。生きるためのエネルギーを摂取するのが精一杯だったんだろうさ」
今すぐ断罪者の口を塞ぎたかった魔王だが、宰相に口を押さえられた挙句がっちりと抱きしめられているので苦情どころか身動きも不可能だった。
「そういえば、陛下の種族は不明でしたね……人型で、経口食料以外を主食とする種族……そしてこの様子だと、少し摂取した、ということは」
宰相の眼鏡がキランと光り、腕の中の魔王は戦慄してぷるぷると震える。
周囲の視線が魔王に集中する。よせ、やめろ。そう言いたくとも口を塞がれてて「もごもご」としか発音できない。
「まあそれはそれとして。魔王様離してくんない? ほら俺のご主人さまだからさ一応。他の野郎に抱きしめられてるとか、すっげぇ不愉快」
にっこりと、異性も同性もまとめて魅了する笑顔を浮かべて、断罪者は宰相に抱きかかえられた魔王に近寄る。
「そのコは、俺がじっくり時間をかけて育ててやるよ。歴代最弱どころか、最強無比と讃えられる位にね」
居場所が欲しい、そう断罪者は言った。
彼は人界にも神界にも、その居場所はないのだという。
神の代行として魔王を断罪する、その為だけの存在。それ自体が、そろそろ苦痛になってきたのだと。
だから、これはちょうどいい機会だった。
力を持たない最弱魔王と、居場所を持たない最強の断罪者。
魔王を守る代わりに居場所が欲しいという願いに関して、魔王は異論なかった。その気持ちはよくわかるから。魔王もずっと一人だった。
だから、手を組むのは吝かではない。ただ、問題は。
「真名を交わすだけじゃだめなのか?!!」
その契約条件だった。
「うん。互いの体液の交換が必要。大丈夫、互いに唇を噛んで血と唾液を混ぜ合わせたものを交換すればいいだけだから」
さらりと、とんでもないことをいう代行者。
「幼女愛好家か貴様……っ!!」
「えー? 別にえっちぃことをしようとは言ってないじゃん。裸をじっくりねっとり撫でまわさせてとも言ってないし、うん。やっていいならするけどさ」
「駄目に決まっているだろう!!?」
魔王は別な意味で戦慄した。まずい、これはもう色々な意味でまずい。この男は間違いなく、魔王の天敵だった。
握り拳で立ち上がって拒絶を叫ぶが、相手はどこ吹く風だ。
「それにさ、幼女というけど魔王様、俺より年上だよね? 俺が生まれた時には既に魔王だったんだろ?」
「魔族と人間の成長速度を一緒にするな!」
一応年齢的には成人してるけどな。と、心の中で魔王は呟く。でも口に出したら最後な気がした。
「大丈夫大丈夫、問題ないって。それから魔王様の主食も探そうよ。そしたらきっと成長できるし、育ったら俺も遠慮なく手を出せるし」
「冗談じゃないっっっっ」
激昂する魔王をみて、このままだと交渉決裂と見て取った断罪者は、実力行使を決行した。
それも、逃げ惑う魔王をわざとぎりぎりな状態を維持して追い回し、精魂尽き果てて身動き取れなくなったところを捕まえて、おいしくいただいた。
そして思わぬ反撃を食らったのである。
「はぁ?! 淫魔だったのかよ陛下!!」
とりあえず、ここではなんだからと場所を城内の執務室に移動し、断罪者と宰相と将軍に囲まれた魔王は、強制的に自身の正体(種族)を白状させられた。
そして魔王の場所は何故か椅子に座った断罪者の膝の上だ。どうかんがえても愛玩動物扱いをされている。
何度も逃げようとするが、そのたびに捕獲されて膝上に戻されるので、いい加減諦めたが、喉を撫でるのはやめろ。
「そ。契約の口付けをしたら、凄い勢いで生気を奪われちゃってさぁ。慌てて離れたけど、結構持ってかれたよね。まあそれも全部自身の成長に使ったようだけど」
そんなことを言われても、魔王には自覚がないのでよくわからない。
生気を奪ったことも、その生気を成長に回したことも、淫魔としての本能が勝手に行ったことだ。
「成程。道理で常に魔力が枯渇状態だった筈です。経口食料では、生命維持に必要な最低限の生気しか摂取できなかった筈ですからね」
魔力不足で成長できず、常に瀕死。魔王が時折魔力を行使できるのは、その身に宿す宝珠から供給されているからだ。それも大部分を生命維持に使われている。
「莫迦だろう陛下、淫魔がまともな餌を取れないとかそりゃ死ぬぞ普通」
「し、仕方ないだろう、食事方法がどうしても生理的に受け付けないというかなんか嫌というか怖いというか!」
「何処の処女のセリフだよ、淫魔のいうことじゃねぇよそれ!!」
将軍の言うことは至極もっともだった。淫魔がその行為に拒否反応を示すとか自殺行為に等しい。
けれど、魔王はそうやって生きてきた。宝珠さえ宿らなければ、いつか力尽きて滅びる日まで、ずっとそうするつもりだったのだ。
「初心な淫魔とか初めて見たわ俺。希少な存在だよね魔王様。可愛いよねぇ」
魔王の艶々した黒髪の中に顔を埋め、思う存分すりすりする断罪者。やめろうざいきもいと叫ばれても無視である。むしろ可愛いので逆効果ともいう。
黒髪黒目のガリガリに痩せた少女、それが魔王の外見だった。
ろくな魔力もない小さな痩せた体、細い手足、こけた頬、全てを諦めきった目、その全てが将軍や宰相を苛立たせていた。
だから、こんな魔王は知らない。
ムキになって断罪者の手の内から逃れようとする少女は、昨日以前と比べて明らかに"生きて"いた。
ああ、面白くない。
「まあ、そういうわけで。俺と魔王様はもう契約も済ませたし、運命共同体だから。彼女の敵は俺の敵ってことで」
居場所が欲しいだけならそこまでする必要ないだろうと説得したのだが、魔王が死んだら自分の居場所もなくなると主張され、契約を強行された。
「気にくわねぇ。なんだそれ。神の犬は大人しく神界へ帰れっての」
明確な敵意を表して威嚇する将軍を、断罪者は楽しそうに拒絶する。
「無理だね。俺が帰るためには魔王様を殺さなきゃいけない。こぉんな可愛いのに、そんな非道な真似できるわけないだろ? ああ、お前なら別だがな」
わざと見せつけるように、魔王の頭頂にキスをする。もっとも、された本人は全く気付いていない。
激昂して立ち上がる将軍に応じて、断罪者も膝上の魔王をポイと放り投げる。可愛がっているように見えて、実はずいぶん扱いがひどい。
「喧嘩なら余所でやってください二人とも。部屋を荒らしたらあとで掃除させますよ?」
絶対零度の宰相の視線に晒され、二人は大人しく部屋をでた。喧嘩は続行する気らしい。後で城の被害状況を確認せねば、と宰相は嘆息してから、床にぺっちゃりと座り込んでいる魔王の襟首を掴みあげた。
「私は猫の子じゃないんだが」
魔王の苦情は無視して、そのまま椅子に戻ると何故か、また膝上に座らされる。
断罪者の膝上では感じなかった重圧を感じる。だって相手は宰相、陰険鬼畜眼鏡だ。どんな目に遭わされるのか、魔王は内心怯えていたが、表情には出さなかった。
「私はね、陛下」
白魚のような、という表現がこれほど似合う手はないだろう、と男相手でも形容したくなるような美しい指先で、つい、と顎を撫でられる。なんだろう、怖い。
「弱い魔王の下に仕えるなど、言語道断です。陛下は期間限定だからと我慢していましたが、断罪者の登場で無期限になりましたしね」
ゆっくりと、顎から喉元へと指先が滑る。今貫かれたら死ぬな確実に。
昨日までは死を覚悟して生きてきたのに、一度生の希望を知ると、途端に死が怖くなるのは何故だろう。
「けれど、彼はあなたを最強無比の魔王に育てると言った。私はね、陛下」
つい、と顎を上に向けられ、宰相と視線がぶつかる。
「強いモノには従う意思があります」
だからとっとと育ちなさい。そう告げると、宰相は自分の生気を強引に魔王に供給した。
そう、断罪者と同じ方法で。
淫魔の癖に意外と貞操観念が高い魔王様は、同じ日に二人の男に唇を奪われたショックで、三日ほど寝込む羽目になった。
後世の伝承にて。
比類なき美貌と歴代最強の魔力を併せ持つ淫魔王は、その美貌で己を滅ぼしにきた神の代行者すら虜にし、自らの下僕としたとうたわれている。
それらは全て、もはや他に知る者もない、遥か遠き昔の物語。