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七人で入った心霊スポットの廃ホテルから、僕だけが帰ってきた

作者: 江合 花果
掲載日:2026/10/14

目を開けると、車の天井が揺れていた。


フロントガラスの上を、ワイパーが行ったり来たりしている。雨が屋根を叩いていた。


「透、起きた? ずっとうなされてたよ」


隣の席の女の子が、ガムの包みを差し出してきた。肩までの髪を耳にかけていて、笑うと目尻が下がる。


「ミントのガム、いる?」


受け取ると、銀紙が指の中でかさりと鳴った。


透、と呼ばれた。僕の名前ではなかった。


「美緒、そいつにばっか優しくすんなよ。俺も眠いんだけど」

「健太は運転してるんだから起きてて」


運転席の男がバックミラー越しに口を尖らせ、後ろの席で誰かが笑った。


健太。美緒。


知っている名前だった。三日前に古本屋の百円の棚で見つけて、昨夜、布団の中で最後まで読んだホラー小説の登場人物だ。


『山荘ホテルの七人』。


大学のオカルト研究会の七人が、山奥の廃ホテルで一晩を過ごす。七人のうち六人が消えて、語り手の青年だけが、夜明けに非常階段から逃げ出す。


その語り手の名前が、透だった。


窓ガラスに顔を寄せると、暗いガラスに知らない男が映っていた。二十歳くらいで、前髪が目にかかっている。僕が瞬きをすると、その男も瞬きをした。


「ねえ、ほんとに大丈夫?」


美緒が、僕の袖を引いた。


大丈夫ではなかった。あの本で、この美緒は最後に消える人物だった。


◇


助手席の眼鏡の男が、膝の上でクリアファイルを開いた。正俊だ。印刷した紙の束が挟まっていた。


「着く前に、もう一回確認しとくぞ。部長が持ってきたネタなんだからな」


部長というのは、どうやら僕のことらしかった。


「山荘ホテル。平成三年の冬に閉館。最後の冬に、二〇七号室に泊まってた家族四人のうち三人が、一晩でいなくなっ た」


正俊は、紙を読み上げる声まで平らだった。


「残った母親が、警察にこう話してる。『夜通し、娘に呼ばれていた。廊下からも、扉の向こうからも、二〇七号室の内線からも。声は確かに娘だった。でも、懐中電灯を向けると、顔が見えなかった』」


誰も、何も言わなかった。ワイパーの音だけがした。


「で、ネットだと、約束事が三つあることになってる」


正俊が、指を折った。


「暗いところで呼ばれても、返事をするな。扉の向こうの声に、扉を開けるな。顔が見えなかったら、昔のことを聞け。あれは、声と姿は真似るけど、思い出までは真似できない」

「出た、オカ研の好きなやつ」


後ろの席の大柄な男――大輔が、スマホを構えて笑った。


「大輔、また動画投稿するの?去年も撮って、結局、再生数十六だったじゃん」


隣のショートカットの女の子――沙希が、黄色いヘアピンを留め直しながら言った。


「正確には十四な。二回は俺」

「自分で回してんの」


助手席の真後ろ、美緒の向こう側では、小柄な女の子が、窓に頭をあずけて眠っていた。優衣だ。正俊が振り返らずに手だけ伸ばして、ずり落ちかけた膝掛けを、優衣の肩まで引き上げた。


僕は笑えなかった。


その三つは、あの本の第一章にも、まったく同じ言葉で出てくる。そして本の中の六人は、一人ずつ、そのどれかを破って消えていく。


透だけが、三つとも守った。最後に、非常階段で美緒の声に呼ばれたとき、透は振り返らずに二人の想い出的な出来事を聞いた。声は答えられなかった。だから透は、それを置いて逃げた。


約束事を守れば、助かる。


僕が知っている中で、確かなことはそれだけだった。


◇


「引き返そう」


僕が言うと、健太がハンドルを握ったまま笑った。


「透が言い出したんだろ。今さら何だよ」

「嫌な予感がするんだ。今日は、やめよう」

「出た。部長、ビビってんの?」


後ろの席から、大輔がスマホを僕の顔に向けた。沙希が「やめなよ」と言いながら、自分も笑っていた。


「でも、この雨だしね」


美緒が言った。


「無理して行くことないよ。健太、ちょっと止めて考えよ」


健太は大げさにため息をついて、道の端の、少し広くなったところに車を寄せた。ハザードランプの音が、かちかちと車内に響いた。


「で、どうすんの。戻んの? ここまで二時間かけて来たんだけど」

「戻ろう。お願いだから」


正俊が、地図アプリの画面から顔を上げた。


「まあ、確かにこの雨はちょっと――」


そのとき、後ろで、低い音がした。


地面の底を、何か大きなものが擦っていくような音だった。車が、かすかに揺れた。


全員が、後ろを振り返った。


さっきまで走ってきた山道が、後ろのブレーキライトの赤い照り返しの向こうで、ゆっくりと動いていた。山側の斜面が、木ごと、道の上へずり落ちてきていた。めりめりと木の裂ける音がして、それから、どん、と腹に響く音がした。


静かになった。


雨の音だけが戻ってきた。


ハザードが点滅する光の中に、泥と倒木の壁があった。僕たちが二時間かけて上ってきた道は、その下に埋まっていた。


誰も、何も言わなかった。


あと一分、止まるのが遅かったら。あと一分、早く引き返していたら。


健太が、ゆっくりとハンドルに額をつけた。


「……前に、行くしかねえな」


「ホテルで、朝まで待つしかないな」


正俊が言った。あの本の、第一章の終わりと同じ台詞だった。


◇


ホテルは、山の斜面にへばりつくように建っていた。四階建てで、傾いた看板の「山荘」の文字だけが、雨の中に白く浮いていた。


玄関のガラス戸は割れていた。懐中電灯の光がロビーの床を這うと、泥で黒くなったカーペットの上に、誰かの古い足跡が乾いていた。どれも、奥へ向かっていた。


戻ってくる向きの足跡は、ひとつもないように見えた。


ロビーの正面に、二階へ上がる広い階段があった。踊り場から上は、光が届かなかった。振り返ると、割れたガラス戸の向こうで、雨が車のヘッドライトの中を斜めに落ちていた。外のほうが、まだ明るかった。


受付のカウンターの奥に、鍵を掛けておく板があった。部屋番号の札がついた鍵が、小さなフックにずらりと下がっていた。


一つだけ、フックが空いていた。


二〇七。


「うわ、マジで出そう」


大輔が、大きな体を縮めて言った。言いながら、スマホのライトであちこちを照らしていた。


沙希が、受付の奥の扉の前にしゃがみこんでいた。


「ねえ。この下、地下があるよね」


扉の隙間から、冷たい風が吹き上がってきていた。


「シッ」


沙希が、指を立てた。


みんなが黙った。雨の音の向こうに、何かが聞こえた。


扉の、ずっと下のほうからだった。


小さな子どもが、泣いていた。


ひっく、ひっく、と、しゃくり上げる声だった。それから、かすれた声で、こう言った。


「おかあさん」


背中じゅうの皮膚が、粟立った。


閉館した最後の冬に消えたのは、家族四人のうちの三人だった。母親を呼んでいた娘も、その中にいた。


あの本では、ここで沙希が地下へ降りる。そして、戻らない。


「……誰か、いるんじゃない?」


沙希の声は、震えていた。でも、怖がっている声ではなかった。


「肝試しに来た家族とか。子ども、置いてかれたのかも」

「この雨の中、こんなとこに子ども連れてくるか?」


健太が言うと、沙希は振り返らずに答えた。


「だから、余計にまずいんじゃん。保育の実習でさ、迷子の子って、ああいう泣き方するんだよ。声が出なくなる手前の」


沙希は、懐中電灯を握って立ち上がった。


「ちょっと見てくるだけ。すぐ戻る」

「待って」


僕は、沙希の腕を掴んでいた。


「行かないほうがいい。あれは、たぶん――」


たぶん、何だと言えばいいのか分からなかった。本で読んだから、とは言えなかった。


「じゃ、透も来て。部長でしょ」


沙希は、僕の手を振りほどかなかった。そのまま、引っ張った。


「俺も行くわ。撮れ高ありそうだし」


大輔が、スマホを構えてついてきた。


仕方なく、僕は、沙希に引かれるまま、扉をくぐった。


◇


コンクリートの階段が、下へ続いていた。一段降りるごとに、空気が冷たく、重くなった。黴の臭いの中に、鉄錆のような臭いが混じっていた。


子どもの声は、もう聞こえなかった。


降りきった先に、まっすぐな廊下が延びていた。両側に、番号のない鉄の扉が並んでいる。三本の光が、廊下の奥を探った。光は、五メートルほど先で、闇に食われて消えていた。


光の外側が、怖かった。光の届かないところに何かがいても、僕には見えない。向こうからは、光を持ったこっちが丸見えなのに。


「おーい」


大輔が、奥へ向かって呼んだ。


「いきなり大声で呼ぶなよ!」


僕の声は、悲鳴に近かった。暗いところで呼ばれても、返事をするな。逆にこっちから呼べば、何が返事をするか、知れたものじゃない。


大輔は、肩をすくめた。


そのとき、大輔のスマホのライトが消えた。


「は? まだバッテリー八十はあったんだけど」


大輔が画面を叩いている間に、廊下の奥で、ごとん、と音がした。


沙希が、走り出した。


「沙希!」


沙希の光が、廊下の奥へ跳ねていった。追いかけようとして、僕は立ち止まった。振り返ると、大輔の影が、真っ暗な階段の前で、スマホを振り回していた。


足が勝手に、沙希の光を追っていた。


◇


ボイラー室だった。太い配管が天井を這い、壁際に、錆びた機械が並んでいた。


沙希は、部屋の真ん中に立っていた。懐中電灯を、部屋の隅に向けたまま、動かなかった。


光の先には、誰もいなかった。古い木箱と、子ども用の、片方だけの赤い長靴が転がっていた。


「……沙希」


沙希の肩が、小さく跳ねた。


ゆっくり、振り返った。


僕の光が、沙希の顔に当たった。


沙希は、僕を見た。


そして、悲鳴を上げた。


喉が裂けるような声だった。沙希は、僕から目を離さないまま、後ろの機械に背中をぶつけ、そのまま横へ逃げた。


後ろだ、と思った。


僕の後ろに、何かがいる。


振り返ることが、できなかった。首が、動かなかった。沙希の目は、僕の肩のすぐ上あたりに、まっすぐ止まっていた。そこに何がいるのか、僕には分からない。分からないまま、うなじの毛が逆立っていくのだけが分かった。


沙希の悲鳴が、途切れた。


かわりに、聞こえた。


開いたままの扉の外の、真っ暗な廊下から。


ひた、と。


裸足で、濡れたコンクリートを踏む音だった。


扉のあたりだった。


ひた。


部屋の中に、入ってきた。


僕は、動けなかった。懐中電灯は、沙希を照らしたままだった。光の中で、沙希は機械に背中を押しつけて、口を両手で塞いでいた。目だけが、僕の肩の上を見ていた。


ひた。


すぐ後ろだった。


首筋に、何も触れなかった。息も、かからなかった。それなのに、そこに何かが立っているのが分かった。僕の背丈より、ずっと低いところに。


沙希の目が、ゆっくり動いた。


僕の肩の上から、僕の右の腰のあたりへ。そこから、床を這うように、部屋の奥の暗がりへ。


僕には、何も見えなかった。足音も、もうしなかった。


沙希の目が、部屋の奥の暗がりで止まった。


それから、また、戻ってきた。


僕の顔に。


沙希は、僕を見つめたまま、震える指で、自分の後ろの壁を探っていた。


その先に、扉があった。


沙希が、その中へ転がり込んだ。


「沙希!」


扉は、半分開いたまま、揺れていた。


扉の向こうの暗がりから、誰かが、浅く速く息をする音がした。


「……沙希?」


答えはなかった。


扉に、光を向けた。


扉の陰に、誰かがうずくまっていた。沙希の服だった。短い髪に、黄色いヘアピンが光っていた。


顔は、見えなかった。膝のあいだに、深く埋めていた。


「沙希。顔、上げて」


うずくまったまま、それは首を振った。


「お願い。顔、見せて」


顔が見えなかったら。


正俊の声が、頭の中で言った。


それが、顔を上げ始めた。


僕は、見なかった。見られなかった。懐中電灯を放り出した。


◇


真っ暗な廊下を、壁に手をついて走った。階段の一段目に、すねをぶつけた。這うようにして上って、扉の外へ転がり出た。


ロビーの床に、両手をついた。膝が笑って、立てなかった。


健太と正俊が駆け寄ってきた。美緒が、僕の背中をさすっていた。何か聞かれたけれど、歯が鳴って、答えられなかった。


大輔が上がってきたのは、ずいぶん経ってからだった。スマホのライトは、また点いていた。


一人だった。


「……沙希は」


健太が聞くと、大輔は、濡れた床を見つめたまま、首を横に振った。


◇


食堂は、ロビーの奥にあった。長いテーブルに、椅子が逆さに載せてある。僕たちは、その一角に固まって座っていた。


正俊が、受付の床に転がっていた懐中電灯を見つけてきて、僕の前に置いた。置いて、すぐに手を引っ込めた。


「透。お前、さっき二階にいなかったか」

「いない。ずっと地下にいた」

「見たんだよ。お前らが降りてったあと、二〇七号室の窓に、お前が立ってるの。こっち見て、手、振ってた」


背中が、冷たくなった。


あれは、知っている人の声で呼ぶ。姿も、真似る。


「それ、僕じゃない」


自分の声が、うわずっていた。


「本当に、僕じゃない」


優衣が、立ち上がった。厨房から探してきたらしい、黄ばんだタオルを、僕に差し出した。


「濡れてる。拭いて」


受け取ると、優衣はほっとしたように、ほんの少し笑った。


席に戻ってから、優衣は、そっと言った。


「透くん。ひとつだけ、聞いていい?」

「うん」

「去年の夏、みんなで海に行ったでしょ。透くん、波にさらわれて、何か失くしたよね。……なんだった?」


みんなが、僕を見ていた。


僕は、知らなかった。去年の夏の話なんて、あの本には一行も出てこなかった。


「……財布?」


優衣の顔から、色が抜けた。


美緒が、口元を両手で覆った。健太が、テーブルの上の懐中電灯を、自分のほうへ引き寄せた。正俊は、椅子を一つ分、後ろへずらした。


「違う。待って。思い出せないだけで」


僕が身を乗り出すと、五人が、椅子ごと下がった。


五人は、厨房へ移った。誰も、来いとは言わなかった。


僕は、一人で食堂に座っていた。


僕には、透の思い出がない。去年の夏も、合宿の夜も。


暗い窓ガラスに、懐中電灯を持った男がぼんやり映っていた。僕はそれを見ないように、テーブルに目を落として、両手で顔を触った。


額も、目も、鼻も、ちゃんとあった。


◇


厨房の扉の向こうで、ひそひそと声がした。


「……返事しちゃ駄目だよ。名前、呼ばれても」

「扉も、開けないで」


美緒と、優衣の声だった。


◇


建物に電話の音が鳴り響いたのは、それからすぐだった。


じりりりり、と、古いベルの音が、真上から降ってきた。


電話なんて、とっくに繋がっていないはずだった。


厨房の扉が開いて、大輔が飛び出してきた。


「出てみる。沙希かもしんないだろ」


あの本で、二人目に消えるのは、大輔だ。この電話に出て、受話器の向こうの声に呼ばれていく。


「駄目だ、大輔。出たら駄目だ」


腕を掴もうとしたが、大輔は、もう階段を駆け上がっていた。


追いかけた。追いかけたくなかった。二階の廊下は、ロビーよりずっと暗かった。ベルの音が、廊下の奥で鳴り続けていた。


二〇七号室の扉が、開いていた。


ベルが、止まった。


部屋の中に、大輔がいた。ベッドの脇に立って、受話器を耳に当てていた。こっちに背中を向けていた。


僕は、戸口で足を止めた。


受話器の向こうから、かすかに声が漏れていた。


女の子の声だった。


何を言っているのかまでは、聞き取れなかった。大輔は、受話器を耳に押しつけたまま、じっと聞いていた。


大輔の肩が、固くこわばっていった。


大輔が、ひとりごとのように言った。


「……沙希だ」


声が、かすれていた。


「寒いって。地下、真っ暗で、寒いって。子どもの声が、ずっと、そばで笑ってるって」


受話器の向こうで、声が大きくなった。


「……『大輔くん、今、二〇七にいるでしょ』って」


受話器の向こうの声は、まだ続いていた。


大輔は、しばらく黙って聞いていた。それから、ほとんど息だけの声で、言った。


「『後ろ、見ないでね』って」


大輔の震えが、止まった。


止まったまま、動かなくなった。


僕は、戸口に立っていた。懐中電灯の光が、大輔の背中を照らしていた。大輔の影が、壁に長く伸びていた。


その部屋に、大輔と僕のほかには、誰もいないはずだった。


光を、部屋の隅へ向けたかった。ベッドの下も、カーテンの陰も、照らして確かめたかった。でも、光を大輔の背中から動かしたら、その瞬間に何かが起きる気がした。


大輔の腕が、ゆっくり下がった。受話器が指から離れて、ベッドの上に落ちた。


受話器の向こうの声は、それでも、まだ何か言っていた。


大輔が、振り返らないまま、口を開いた。


「……透」


小さな声だった。


「そこにいるの、お前だよな」


暗いところで呼ばれても、返事をするな。


喉まで出かかった声を、僕は飲み込んだ。ここは暗い。大輔の背中の向こうで、受話器が、まだ何かを囁いている。この部屋で今、返事をしたら、何が起きるのか分からなかった。


大輔は、待っていた。


僕も、待っていた。


天井のどこかで、雨漏りが、ぽたん、と落ちた。


「……答えろよ」


大輔の声が、裏返った。


ベッドの上の受話器から、小さな笑い声がした。


子どもの、笑い声だった。


大輔が、弾かれたように動いた。振り返らずに、横歩きで壁を伝い、顔を壁に向けたまま、僕の脇をすり抜けて、廊下へ飛び出していった。


「大輔!」


追いかけた。


廊下の奥へ、スマホのライトが、跳ねるように遠ざかっていった。奥には、従業員用の階段がある。本の扉の見取り図に、そう描いてあった。手すりの半分が、とうの昔に外れて落ちている階段だ。


「大輔、そっちは駄目だ!」


ライトが、角を曲がった。


僕も、角を曲がった。


ライトが、消えていた。


かわりに、長い悲鳴が、下へ下へと遠ざかっていった。


どさり、と、ずっと下のほうで、重いものの落ちる音がした。


僕は、階段の縁に膝をついて、懐中電灯を下へ向けた。光は、二階分ほど下の暗がりで、何も照らさないまま消えた。


本の中の大輔は、呼ばれて、廊下の奥へ静かに歩いていく。こんなふうに、落ちたりはしない。


何かが、違ってきている。


僕の知っている本と、少しずつ。


◇


二〇七号室に戻ると、受話器はベッドから落ちて、コードの先で床に転がっていた。


拾い上げて、耳に当てた。


何も聞こえなかった。


いや。


ずっと遠くで、誰かが、こっちの息を聞いていた。


僕は、受話器を、そっと元に戻した。


◇


食堂に戻ると、誰もいなかった。


テーブルの上に、食べかけのチョコバーと、ペットボトルが残っていた。椅子が二つ、倒れていた。


ホテルのどこかで、扉の閉まる音がした。ばたん、と一つ。少し離れて、もう一つ。


みんな、隠れたのだと思った。


僕も、隠れた。


ロビーの横の、リネン室だった。古いシーツが積まれた棚の陰に、膝を抱えてもぐりこんだ。懐中電灯は消した。光は、自分の居場所を教えるだけだ。


暗闇の中で、自分の心臓の音を聞いていた。


家に帰りたい、と思った。


狭いアパートの、六畳の部屋。布団と、本棚と、小さな電気スタンド。あの部屋で、明かりをつけたまま、この本を読んでいたのだ。昨夜。たった一晩前に。


帰れるのだろうか。


本の最後のページまで、生き延びれば。


廊下を、誰かが歩いてきた。


靴の音だった。迷うように、ところどころで止まった。止まるたびに、扉を開ける音がした。一つずつ、部屋を確かめている。


リネン室の前で、足音が止まった。


僕は、息を止めた。


扉の向こうに、誰かが立っていた。


「……透?」


健太の声だった。


扉一枚向こうから、名前を呼ばれた。


暗いところで呼ばれても、返事をするな。扉の向こうの声に、扉を開けるな。


僕は、口の中を噛んだ。血の味がした。


「透。いるんだろ」


健太の声は、震えていた。


「美緒が、いないんだ。お前、美緒、見てないか」


返事をしなかった。


「さっき、上の階で、お前の声がしたんだ。美緒を呼んでた。……あれ、お前か?」


僕は、膝を抱えた腕に、爪を立てた。


僕は、ずっとここにいた。


「透。お前、本当に、そこにいるのか」


ドアノブが、回った。


ゆっくりだった。きし、きし、と、錆びた音を立てて、半分まで回って、止まった。


リネン室の扉に、鍵はついていなかった。


扉の下の隙間から、細い光が差し込んでいた。その光の中に、靴の影が二つ、並んでいた。


影は、動かなかった。


ノブも、半分回ったまま、動かなかった。


扉の向こうの誰かは、開けるかどうかを、決めかねているのだと思った。


それとも、待っているのか。僕が、何か言うのを。


息を、止めていた。止めているのが苦しくなって、鼻から細く吐いた。その音が、この狭い部屋じゅうに響いている気がした。


ノブが、元に戻った。


隙間の光が、ふっと消えた。


靴の音は、しなかった。


扉の向こうは、真っ暗になった。そこにまだ誰かが立っているのか、もういないのか、僕には分からなかった。


僕は、暗闇の中で、膝を抱えたまま、泣いた。声は出さなかった。


あれが本物の健太だったら、と思った。


本物の健太が、美緒を探して、一人でこの暗い建物を歩いているのだとしたら。


僕は、そのまま、長いあいだ動かなかった。


リネン室の扉を開けたとき、廊下には、誰もいなかった。


三階へ上がる階段の途中に、腕時計が一つ落ちていた。健太がしていたのと、同じ時計だった。ガラスにひびが入って、針が止まっていた。


拾い上げた時計は、まだ少し温かかった。


◇


三階の廊下を、一人で歩いていた。


美緒を探していた。


すぐ横の客室の扉の向こうから、すすり泣く声がした。


三一二号室。


本の中で、優衣が消える部屋だった。恋人の正俊の声に呼ばれて、優衣はこの扉を開ける。


扉の前に立った。


すすり泣きが、ぴたりと止まった。


「……優衣?」


返事はなかった。


扉の向こうで、衣擦れの音がした。それから、ずいぶん経って、囁くような声が返ってきた。


「……正俊?」


すがるような声だった。


「僕だよ。透」


扉の向こうが、しんとした。


ドアノブを回した。鍵がかかっていた。


部屋の中で、重いものが床を擦る音がした。ずず、ずず、と。さっきより速かった。誰かが、家具を扉の前へ押してきている。


押し終えても、まだ足りないというように、もう一つ、何かを引きずる音がした。


それから、息を詰める音がした。扉の、すぐ向こうだった。木の板一枚を隔てて、その気配が、手のひらに伝わってくるほど近かった。


「お願い……」


優衣の声だった。泣いていた。


「お願いだから、透くんの声で、しゃべらないで」


優衣は、僕を、あれだと思っている。


違う、と言いたかった。でも、何をどう言えば信じてもらえるのか、思いつかなかった。昔のことを聞かれたら、僕はまた答えられない。


それでも、ここに置いていくわけにはいかなかった。


「優衣。聞いて」


僕は、扉に額を押しつけた。


「海のことは、本当に思い出せない。でも、優衣に、扉を開けてほしくないんだ。誰に呼ばれても。正俊の声でも」


扉の向こうで、ひゅっと、息を吸う音がした。


「開けなくていい。朝まで、そのままでいて。誰が来ても。……大丈夫。今、助けるから」


掠れた叫びが返ってきた。


「来ないで!」


その声に、別の声が重なった。


「優衣」


廊下の、奥からだった。


正俊の声だった。


「優衣、俺だ。開けてくれ」


本の場面だった。


正俊の声に呼ばれて、優衣が扉を開ける。そして、消える。


「開けるな、優衣!」


僕は、扉を叩いた。


「それは正俊じゃない! 開けちゃ駄目だ!」


部屋の中で、優衣が悲鳴を上げた。扉の前の家具が、がたがたと揺れた。窓のほうで、ガラスの割れる音がした。


廊下の奥の声が、もう一度、言った。


「優衣、そこにいろ。今、行く」


靴の音がした。速かった。廊下の奥から、こっちへ走ってくる。


光を向けた。光は、途中で闇に呑まれた。その先から、足音だけが、まっすぐ僕に向かってきた。


僕は、扉の前から逃げた。


◇


二階の踊り場で、足を滑らせた。手すりにしがみついて、そのまま、うずくまった。


上から、足音は追ってこなかった。


三階へ戻ったのは、手の震えが、どうにか止まってからだった。


三一二号室の扉は、開いていた。家具は、内側から押しのけられていた。


部屋の中には、誰もいなかった。窓が割れて、雨が吹き込み、濡れたカーテンが窓枠に張りついていた。


床に、優衣の白いカーディガンが落ちていた。


その横に、眼鏡が一つ。片方のレンズに、ひびが入っていた。


本の中の優衣は、扉を開けて消えた。


ここの優衣は、扉を開けなかった。


それなのに、いなかった。


◇


四階の廊下は、ほかの階より、ずっと寒かった。


並んだ扉の一つ一つに、真鍮の部屋番号が残っていた。突き当たりが、四〇九号室。非常階段のすぐ手前の部屋で、本の中で、美緒が最後に消える部屋だ。


窓の外は、まだ真っ暗だった。


まだ、間に合う。


歩き出してすぐ、どこかの扉の向こうで、笑い声がした。


僕は、足を止めた。


「大輔、それ去年も撮って、再生数十六だったじゃん」

「十四な。二回は俺」

「自分で回してんの」


沙希と、大輔の声だった。


車の中で聞いたのと、一字一句同じだった。


声は、四〇五号室の扉の向こうから聞こえていた。扉の下の隙間は、真っ暗だった。


「着く前に、もう一回確認しとくぞ」


正俊の声がした。紙をめくる音までした。


「美緒、そいつにばっか優しくすんなよ。俺も眠いんだけど」


健太の声がして、誰かが笑った。優衣の、小さな笑い声だった。


雨の音と、ワイパーの音まで聞こえた。


扉一枚向こうで、あの車が、まだ走っていた。


僕は、扉の前を通り過ぎた。声は、ついてこなかった。四〇五号室の中だけで、楽しそうに、同じ会話を続けていた。


四〇七号室の前まで来たとき、背中のほうで、会話が途切れた。


全員が、一度に黙った。


それから、四〇五号室の扉のすぐ向こうで、誰かが言った。


「透、起きた?」


美緒の声だった。


僕は、走った。


四〇九号室の前で振り返ったとき、廊下は、しんとしていた。どの扉の向こうからも、もう何の音もしなかった。雨の音さえ、聞こえなかった。


懐中電灯の光の中で、自分の息だけが、白かった。


扉の向こうで、小さな物音がした。


「……誰?」


美緒の声だった。


泣き疲れたような、かすれた声だった。


◇


ドアノブに、手をかけた。鍵が、かかっていた。


「美緒。僕だ。透だ」


扉の向こうで、息を呑む音がした。


長いこと、何も聞こえなかった。


やがて、扉のすぐ向こうで、美緒が言った。


「……昔のこと、聞いていい?」


声が、震えていた。


「うん」

「車の中で。透が起きたとき、私、何あげた?」


覚えていた。


それは、僕の思い出だった。この世界に来て、最初に起きたことだったから。


「ミントのガム」


扉の向こうが、静まり返った。


長い沈黙だった。


やがて、扉のすぐ向こうで、しゃくり上げる声がした。泣くのを、必死にこらえている声だった。


「……もう一回、言って」

「ミントのガム。僕が起きたとき、美緒が、ミントのガム、いる?って」


美緒の泣き声が、一度だけ、大きくなった。


金属の触れ合う音がした。鍵だった。指が震えているのか、かちゃかちゃと何度も空回りした。


一度、音が止まった。


僕は、扉に手を当てて待った。


もう一度、かちゃかちゃと鳴った。


かちり、と、鍵の外れる音がした。


扉が、細く開いた。


懐中電灯の光が、隙間から部屋の中へ差し込んだ。


美緒が、立っていた。


美緒のパーカーを着ていた。肩までの髪を、耳にかけていた。片手に、くしゃくしゃの銀紙を握っていた。


光が、顔の上に来た。


顔が、なかった。


髪の下に、目尻の下がる目は、なかった。笑うと上がる口元も、なかった。光を当てているのに、そこだけ、光がどこにも引っかからなかった。


なだらかな、何もない丸みが、僕のほうを向いていた。


その丸みのどこからか、美緒の声がした。


「……透?」


◇


窓の外が、白んでいた。


雨は、上がっていた。山のどこかで、鳥が鳴き始めていた。


四〇九号室には、誰もいなかった。


廊下にも、誰もいなかった。もう、誰の声もしなかった。扉の向こうからも、受話器の向こうからも。


本の最後のページと、同じだった。


――非常階段の扉を開けると、山の向こうが白んでいた。僕は、ひとりで階段を下りた。誰の声も、もう僕を呼ばなかった。


六人とも、いなくなった。


僕は、生き残った。


歩き出そうとすると、膝ががくがくした。手のひらが、ぬるぬるしていた。汗をかきすぎたのだと思った。


非常階段の扉の手前に、小さな洗面所があった。


扉の内側に、鏡がついていた。


僕は、その前で、立ち止まった。


一晩じゅう、鏡を見ないようにしてきた。


僕には、透の思い出がない。


鏡の中を覗いたら、そこに、顔がなかったら。


息を吸って、顔を上げた。


顔が、あった。


前髪が目にかかった、二十歳くらいの男の顔だった。車の窓に映っていた、あの顔。目も、鼻も、口も、ちゃんとあった。


僕が瞬きをすると、鏡の中の男も瞬きをした。


膝から、力が抜けた。洗面台の縁に、両手をついた。


「……よかった」


やっと、息ができた。


「僕は、僕のままだった」


鏡の中の男も、心の底からほっとしたように、笑った。


髪の先から胸元まで、べったりと血に濡れたまま、頬が裂けそうなほど、にっこりと。

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