壊れたオルゴール
「お前が傍に来ると、辛くて壊れてしまいそうだ。二度と顔を見せるな!!」
そう言い放つのは、私の婚約者のレオナール皇太子殿下。
泣いてはいけない……
私はそっと下を向き、張り裂けそうな胸と痛む手首を押さえながら部屋を出た。
公爵令嬢である私と殿下は、子供の頃から許嫁に定められ、15歳で正式に婚約した。
彼の気持ちが愛だったのか情だったのか……今となっては分からないが、互いを想い、この国の未来を二人で描いていた。
婚姻まで後一年という17歳の年、彼は突然重い脳の病に倒れた。治療も虚しく昏睡状態に陥った彼に、医師は新薬を使うことを提案した。
「この薬は脳腫瘍を縮める効果に優れています。但し副作用が非常に強く、記憶を失ったり、最悪廃人となってしまわれることも」
彼のご両親である皇帝陛下ご夫妻、そして未来の皇太子妃である私の意見は一致した。
どんなリスクを負っても、絶対に彼を失いたくない。
この鼓動と温もりを、絶対に失う訳にはいかないのだと。
(神様……どうか、殿下をお戻し下さい。無事にお戻し下さるなら、私のことをお忘れになっても構いませんから)
神は私の願いを聞き入れ……目覚めた彼は、私の記憶だけを失っていた。
元々神経質で、特定の人間しか寄せ付けない彼は、見知らぬ私を酷く拒絶する様になる。
「……知らない女を部屋に入れるな」
毎日会えば私を思い出すかもしれないという陛下のご配慮で、私は毎日彼の部屋へ通った。
だが、彼を苛々させるだけで、全く思い出す気配は見られない。
以前とは別人の様になってしまった彼。優しく見つめてくれた目は氷の様に、口からは刃の様な鋭い言葉が、容赦なく私を切りつけた。
私を可愛がって下さっていた両陛下も、息子の変化に嘆き悲しみ……
そのお顔を見る度に、私の存在が皆を苦しめているという罪悪感に苛まれた。
病気は治り、後遺症も残らなかった。ただ私の記憶が消えただけ……
喜ばしいことなのに、望んだことなのに、毎日が堪らなく苦しかった。
私は殿下を、こんなにも愛していたのだわ……
──ある日、決定的な事件が起きた。
殿下のお部屋の前へ立つと、中から僅かに呻き声が聞こえる。
「殿下!」
勢いよく扉を開けると、ベッドの上で頭を押さえ、丸くなっている殿下の姿があった。
私は慌てて傍に駆け寄る。
「殿下!大丈夫ですか!?」
「来るな……傍に来るな……」
「……え?」
「来るなと言っているんだ!!」
さっきまで呻いたとは思えぬ程強い力で、私を押し退ける。
床に倒れた私を見る彼の目は、いつもの冷たさとは違い、恐怖に怯えている様に見えた。
「穏やかに……穏やかに眠りたいんだ。なのにお前がいつも手を伸ばして、俺を引きずり出そうとする。目覚めると頭が痛くて……割れそうに痛くて……」
震え出す殿下。
「婚約者か何だか知らないが、お前は俺にとっては悪魔だ!!」
彼はベッドサイドに置かれたある物を掴み、私に投げ付けた。
それは……婚約した年、二人で選んだ思い出のオルゴール。
陶器で出来た白い鳥の番が、肩を寄せ合いながらくるくると回る。
『こんな夫婦になりたいね、アンジュ』
そう言って微笑んでくれた彼の顔が、今では遥か遠くに霞む。
オルゴールは咄嗟に頭を庇った私の手首に当たり、中睦まじかった鳥の番は、バラバラに離れて壊れた。
殿下は、はあはあと息を切らせながら言う。
「……お前が傍に来ると、辛くて壊れてしまいそうだ。二度と顔を見せるな!!」
これ以上私と会えば、殿下の御心は壊れてしまう……
侍女に支えられ部屋を離れると、私は崩れ落ち、出なくなるまで涙を流し続けた。
数日後、私は両陛下に婚約破棄を申し入れ……泣く泣く受理された。
民心の混乱を避ける為、殿下のご病気は外部には伏せられていた。
その為、急に婚約が解消された私は、何か訳ありだとの噂が広まり、なかなか次の縁談に恵まれなかった。
そんな中、私の元へ届いたのが、とある伯爵家との縁談話。
自分より20歳も年上であり、おまけに寡夫であった。
格下の伯爵家が、初婚の公爵令嬢にこの様な申し入れをするなど何事かと父は怒り狂ったが、私はほっとしていた。
これでやっと、彼から離れられるかもしれない。
彼と同じ様に、私も彼を忘れられるかもしれない……
最後まで反対する父を宥めながら、私は有り難くその話をお受けした。
嫁ぎ先は首都から遠く離れた辺境の地。
もう、当分戻ることはないだろう。
出立の日、朝日にそびえ立つ、懐かしい宮殿を眺める。
重い陶器が当たり、後遺症が残った右手に、私は神経を集中させる。
ゆっくり開いた手の平には、あの日離れた鳥の番の片割れ。
左手でそっと撫で、唇を寄せた。
どうか……どうか貴方が幸せになりますように。
抜ける様な青空には、白い鳥達が哀しく舞っていた。
◇
目を開け、最初に飛び込んできたのは一人の見知らぬ女だった。
両親に侍従、侍女まで。他の顔は全て覚えているのに、彼女のことだけは分からない。
婚約者だと聞かされても、何一つ記憶がないのだから信じようがなかった。
拒否しても、父上の命で毎日彼女はやって来る。
そして彼女が帰った後は……決まって悪夢と頭痛に魘された。
音もない、暗い闇の中、穏やかに眠ろうと目を閉じる。
すると眩しい光が差し込み、何かが自分をそこから無理矢理連れ出そうとする。
止めろと踠き目覚めた後は、激しい頭痛に襲われる。そんな毎日だった。
──あの日の夢は違った。
いつも通り、止めろと踠くも全く逃れられない。とうとう上まで引き上げられると、一気に光に飲み込まれる。
そこに居たのは……あの女だった。
そこで悪夢は終わるも、今までとは比較にならない強烈な頭痛が自分を襲う。
「……殿下!大丈夫ですか!?」
この女……この女が自分を苦しめている。
夢でも、現実でも、どこまでも。
「……お前は俺にとっては悪魔だ!!」
床に倒れた彼女にベッドサイドの何かを投げつける。
それは鈍い音を立てて彼女の手首に当たり……バラバラに壊れた。
泣くこともせず、侍女と共に部屋を後にする細い背中。
あれから彼女は、自分の命令通り、二度と自分の前に現れなくなった。
彼女と共に悪夢は去った。穏やかな闇を引き裂く眩しい光もない。だが目覚めた後は、頭痛の代わりに、芯から冷え込む様な孤独感に襲われた。
まるで空が泣いている様に、冷たい雨が振り続いた日。
窶れた母上が、自分の元へやって来た。
「……これは貴方が持っていなさい」
震える声で差し出されたのは、小さな小さな箱。
開けるとそこには、陶器の鳥が一羽居た。
どこかで見た様な……ツキンと頭が痛む。
あの女に関する物か?俺は慌てて蓋を閉めた。
その夜だった。
闇の中に居ると、久しぶりにあの光が差し込み、自分を持ち上げる。
踠こうとするも……それが温かく心地よいことに気付き、大人しく冷たい身体を委ねてみる。
恐る恐る目を開けると……
そこには小さな少女が立ち、優しい笑みを浮かべていた。
「…………ジュ……アンジュ!!」
彼女との記憶のページが、一気に捲れる。
……そう、あの頃も闇の中に居た。
有能な皇太子だった兄上を病で失い、自分が皇太子に即位した9歳の時。
『出来ない……僕には出来ないよ……』
不安とプレッシャーに押し潰され、自分の殻に閉じ籠ると、そこには穏やかで冷たい闇が広がっていた。
『私はアンジュです。お友だちになりましょう?』
温かい手を差し伸べられ、それを取ると、そこには見たこともない愛しい景色が広がっていた。
愛していた……あんなに愛していたのに……
はっと目を覚ませば、眩しい朝日が濡れた頬を照らす。
俺は起き上がると、小箱から鳥の片割れを取り出し、強く握り締める。
寝巻き姿のまま、靴も履かず裸足で部屋を飛び出した。
「殿下!」
兵の制止も振り切り、一目散に向かうのは……
遠くに愛しい後ろ姿が見える。
彼女が馬車に足をかけた瞬間、全ての力を振り絞り叫んだ。
「アンジュ!!!」
──温かな光の中、君は振り向いた。
お読み下さりありがとうございました。