後編
たった一週間の間に、エドヴァルドと聖女ヘレーナの噂は更に広がっていった。
中にはお似合いの二人だと、本当に結ばれているのは二人なのではないかと囁く声もある。
アクセリナは自室で一人、報告書に目を通しながら唇を噛んでいた。
聖女の護衛となるまでは、彼は一週間に一度必ず挨拶に来てくれた。それが約半年前、新しい聖女の護衛騎士に選ばれてからその頻度は大きく減った。
まず、自分の意思では来ない。聖女に関しての報告だけを上げに来る。けれどそれは護衛騎士に選ばれたのだから仕方のないことだと思えた。選んだのは自身の父親、現国王である。アクセリナの婚約者として更なる力をつけよという意図で決まったものだ。
だから先日エドヴァルドが、「あなたの好きなものを持って訪ねてきます」と言ってくれたときは本当に嬉しかった。
仕事を理由にではなく、あなたに会いに行きます、と言ってくれているような気がして。
エドヴァルドを信じている。聖女とのことなど噂に過ぎない。確かに親しいのかもしれないが、それは聖女と護衛騎士という関係だからであって、やましい意味ではないはずだ。彼が愛しているのは自分であって、ヘレーナではない。
(そうであってくれ……)
アクセリナは報告書をくしゃりと握りしめ、目を瞑る。
彼女にとってエドヴァルドは、初恋の人だった。初めは見た目に、そしてその誠実な心と優しさに惹かれた。婚約を受け入れてくれたと報告を受けたときは、夜眠れぬほどに嬉しくてヴィルフェルムに笑われた。彼が自分を想ってくれているのだと知って、これまでにない胸の疼きを感じたのを覚えている。
『あなたの婚約者になるべく、オレはもっと努力を重ねなければ』
『アクセリナ様、あなたに相応しい男になりたい』
『お慕いしています、アクセリナ様』
そんな言葉を聞いたのは、いつが最後だっただろうか。最近は業務的な言葉しか聞いていない。
聖女がどうであったか。瘴気の具合がどうであったか。護衛騎士としての報告しか、聞いていなかった。
エドヴァルドが自分のために、自分に相応しい男になるために修行を積むことに問題はない。けれどその「修行」は、いつになれば終わるのだろうか。彼はどうなることが、「相応しい」と思っているのだろうか。
あと何日? 何週間? 何ヶ月? ……何年?
本当は、結婚したくないために言い訳をしているのではないのか。聖女との噂は本当で、心変わりをしてしまったのではないか。
ずきずきと心が痛む。息が詰まって、呼吸が上手く出来なかった。目頭が熱くなって、眉間を指でぎゅっと摘む。この程度で泣くわけにはいかない。王たるもの、恋愛にうつつを抜かしている場合ではない。
静かに扉を叩く音が聞こえて、アクセリナは顔を上げる。振り返らず、「何だ」と尋ねた。
「アクセリナ様。オレです。エドヴァルドです」
鼓動が強く鳴って、堪えたものがまた込み上げてくる。慌ててそれを呑み込み首を振ると、ゆっくりと深呼吸をした。
「入っていいぞ」
「――失礼いたします」
求めていた男の姿に、アクセリナの表情は自然と緩んだ。その顔に一瞬驚いた様子を見せたエドヴァルドは、うろうろと視線を泳がせて部屋の中へ入ってくる。扉が閉まる音が聞こえて、直後に静寂。切り出したのは、アクセリナだった。
「今日は報告の日だったな。兄上は別件で不在のため、私が聞こう」
「はい、では……」
いつものように、事務的な報告。アクセリナは落ち着いた表情でその声に耳を傾け、時折相槌を打った。
「……以上で報告は終了です。……それで、あの、アクセリナ様。お話ししたいことがあるのですが、よろしいでしょうか」
「何だ? 言ってみろ」
エドヴァルドは少し戸惑った様子で口ごもると、数秒間を置いて、小さな声で言った。
「こ、……婚約の、解消は……可能でしょうか」
一瞬、アクセリナの呼吸が止まった。なに、と紡いだ声が聞こえたのかはわからない。エドヴァルドは言葉を続けた。
「オレはまだ、あなたの隣に並び立つに相応しい男になれていません。まだまだ様々な力が足りないのです。戦闘の経験も、この街以外の国のこと、他国のこと、まだまだ学ぶべきことが沢山あります。……あなたから結婚の申し入れがあったときは本当に嬉しかった、お慕いするあなたに選ばれたのだと浮かれていました。けれどあなたを知るうちに、自分の未熟さを嫌というほど思い知りました。このままではオレは、あなたを支えることが出来ない」
アクセリナは呆然と、エドヴァルドを見つめていた。エドヴァルドの言葉を理解することを、頭が拒んでいた。
「だから、……オレは聖女様と共に、もっと広い範囲で街を、国を守りたいと思います。きっとあなたは、オレがあなたの婚約者だからこの街を離れることを望んでいないのだと思います、だから一度、婚約を解消して……」
一気に語り、顔を上げたエドヴァルドは思わず言葉を止めた。
アクセリナの顔から、表情が消えていたのだ。
「回りくどい、ことを」
「え、……あ、アクセリナ様……」
「はっきり言えば良かろう。聖女ヘレーナに心変わりしたのだと。私と婚約を続けることは出来ないと」
エドヴァルドは目を見開き、慌てて首を振った。
「違います、そんなことは!」
「お前とヘレーナの噂、私が知らないと思っていたか。街の見回りと称して、二人でカフェに入ることもあったそうだな。他の護衛騎士は外に置いて、二人きりで」
「それは、聖女様が大人数は迷惑だと……」
「ヘレーナはお前の腕に手を絡ませて歩いているそうじゃないか。まるで恋人同士だと、平民の中では評判だぞ」
「あ、あの方は長時間歩くと疲れてしまうと仰るので、支えが必要だと……」
「ははっ」
乾いた笑いが漏れた。
「今まですまなかったな。王女との婚約は、さぞ窮屈だったことだろう」
「! ち、ちがっ、違います、アクセリナ様!」
「何が違うと言うのだ!!」
報告された状況に、全て相違がないことを認めている。それだけでもう充分だった。
充分、アクセリナの心を傷つけていた。
疑心が確信に変わるほどに。
「噂を聞いても、兄上に何を言われようとも、お前を信じるつもりだった。信じていたかった。だがもう良い、よくわかった。婚約はすぐに解消しよう。それで良いな」
「アクセリナ様、オレはただ……!」
「良いな?」
今のアクセリナには何を言っても信じてもらえない――エドヴァルドはそう察して、口を閉じた。相変わらずアクセリナの表情はなく、ただ怒っているのだろうということしかわからない。
こく、と小さく頷いたエドヴァルドは改めて胸元に手を当ててアクセリナに礼をすると、切なげに眉を寄せて告げた。
「アクセリナ様、オレはあなたをお慕いしております。その心に変わりはありません。……ですが今は少し、あなたから離れようと思います」
あなたに本当に相応しい男になるために。
その想いだけは信じて欲しいと、エドヴァルドは切に願った。
「好きにするがいい。私に止める権利はない」
「……はい。失礼します」
再度深く頭を下げて、エドヴァルドは静かに部屋を後にした。
アクセリナはその場に座り込み、ぼんやりと宙を見つめる。
彼となら共に国を支えて行けると思っていた。そうでありたかった。だがきっと実際は、そうではなかったのだ。ただ無意味に彼を縛り付けて、自由を奪っていただけ。
確かに想い合っていた。恋心はあった。だけれどそれはもう、過去の話なのだろう。
王女であるから、王となるのだから、こんなことで心を壊していられない。たった一人に心を動かされてはならない。
だが涙は勝手に溢れてきた。ぼろぼろと大粒の涙が溢れて、喉が引きつった音を漏らす。
「うっ……うぅ、……っ」
エドヴァルドの笑顔が、遠くなる。眉を下げて笑う顔、嬉しそうに瞳を細める様、愛しげに見つめてくる眼差し――何もかもが。
慕っているのならなぜ婚約を解消しなければならない? 慕っているのならなぜ離れて行く?
それは本当の想いなのか。だったらそれは、自分とは違う感情なのではないか。
ならばもう、よい。
アクセリナはその日、国王である父親にエドヴァルドとの婚約解消を告げた。場に居合わせた兄ヴィルフェルムは驚いた顔をしていたが、どこか安堵にも似た表情を見せて頷いた。
そして翌日、彼女は手紙を出した。
届け先は、フレイ国。ディーノ・ウーナステラ。
*****
「アクセリナちゃんから手紙とか、本気で驚いたんだけど! っていうか『黙って顔を出せ』ってなんだよ、出しに来たけどさ!」
手紙が届いてから、一週間。
客間に通されていたディーノは、アクセリナの姿を見るなり嬉しそうにそう言った。アクセリナの傍には侍女の他にヴィルフェルムもおり、いつものように軽い調子で「ど~も~」などと挨拶する。
アクセリナはくっ、と喉を鳴らして笑うと、ディーノの隣の空いた椅子にすとんと腰を落ち着ける。その向かいにはヴィルフェルムが腰を下ろした。
「で、何の話なの結局。もしかして結婚の話?」
「……そうだ」
「えー!? もしかしてもうすんの?! 何でだよ早くない? 結婚式の招待状だったらいらないかんね! 兄貴の方に出して、兄貴の方に!」
「違う。少し落ち着け」
「ヤダって、アクセリナが僕と結婚する話じゃないと聞きたくない!」
「その話だ」
「アクセリナがお嫁に来る話じゃないと……ん? え? 今、なんて」
「私とお前が結婚するという話だ」
はっきりと告げたアクセリナに、ディーノはぱちぱちと大きく瞬きをして、それから勢い良く立ち上がる。がたんっ、と椅子が倒れ、侍女の一人がすぐにそれを直す。
「え……何で!?」
「何でとは何だ。あれだけしつこく求婚しておきながら」
「アクセリナちゃんこそ何度も断ってたじゃん! 婚約者がいるからってさぁ!」
「婚約は解消した」
「へ」
「解消した」
「うそ」
突然のことに動揺を隠せないディーノは、喜びよりもまず困惑が先走っているようで。アクセリナはふぅと息をついて、口を開いた。
「失恋したのだ、私は。だからお前のところに嫁いでも良いと思っている」
失恋、の言葉に、ディーノの眉がぴくりと動く。アクセリナに向き直りじっとその目を見つめて、ふぅん、と呟いた。
「なるほどねー。そういうことか」
「あぁ。お前のことを好きになったわけではない。……が、特に嫌っているわけでもない。やかましい男だとは思うが」
目を伏せて、自嘲めいた笑みを浮かべる。
「自棄になっている自覚はある。だからそのうち目が覚めるかもしない。……ゆえにこれが、最後の機会だ」
「傷心につけこんでの結婚かぁ。僕そういうの、躊躇しないけどいい?」
「あぁ。精々私を利用しろ。お前の考えていることに、私が必要なのだろう?」
「そう。はっきり言ってこっちの国的にも利がある話だよ。絶対損はさせない」
ディーノはアクセリナにそう言ったあと、ヴィルフェルムにも顔を向けてにやりと笑う。ヴィルフェルムは瞳を細めて口角を上げると、アクセリナを一瞥した。
「つまりこの婚姻は政略的にも良いものであると断言出来るのだな?」
「政略的にも僕の個人的な感情的にも、それからアクセリナにとっても良いもの。……だと思う!」
ヴィルフェルムは顎に手を当てて、改めてディーノの姿を見た。
ふざけているが、お調子者だが、中々どうして心の内を見せない。彼の本音はどこにあるのか、何が目的なのか……ただのふざけた第二王子というわけではないことは確かだった。
だが今のアクセリナにとっては、それがいいのかもしれない。
傷心につけこむ形になるが、何より彼女自身がそれを望んでいる。
アクセリナからエドヴァルドの話を聞いたとき、驚きはしなかった。予想していた通りというか、彼は結局覚悟を決めることが出来なかったのだと。聖女ヘレーナに何かを吹き込まれたのかもしれないが、それにしても婚約解消という道を選ぶのは間違いだった。
『兄上。私はどうも、王には向かないようだ』
悲しげにそう笑う妹は、それでも王族としての心を忘れてはいなかった。
『ならばせめてこの国の王女として、兄上の役に立ちましょう。――ディーノとの結婚を、受け入れようと思います』
フレイ国との繋がりは、決して無くしてはならないものだ。今まさに力を持ちつつある国に嫁ぐことで、自ら人質となることで絆を強固なものにする。アクセリナの決意を、ヴィルフェルムは受け入れた。
「よーし、そうと決まれば早速父上たちに報告に行かないと! こっちにはいつ来る? せっかくだから婚約パーティーとかしたいよねぇ!」
「準備が出来次第だな。婚約パーティーなどする必要があるか? 発表するだけで充分だと思うが」
「えー! 僕の婚約者です! って見せびらかしたいじゃん!」
念願だったしさぁ~! と緩んだ顔のまま言うディーノに、ヴィルフェルムは彼が、本当にアクセリナを求めていたのだと察する。本音こそわからないが、それだけは事実であると感じた。……どう見ても、浮かれているためだ。
「好きにしろ。今ならまだお前に従ってやる」
「やったね! ――ねぇ、アクセリナ」
ふ、と、ゆるゆるに緩みっぱなしであった表情が引き締められ、深い色の瞳が真っ直ぐにアクセリナを見つめる。ディーノは彼女の手を取ると、真摯な眼差しを向けて言った。
「僕、目一杯つけこむから。絶対僕のこと好きになってもらうから、覚悟してね」
「……やってみるがいい。やれるものならな」
「そうこなくちゃ」
にか、と嬉しそうに笑みを深めたディーノは、強くアクセリナの手を握りしめ、それからぱっとその手を離した。
「それから! アクセリナとヴィルフェルムお義兄様にだから言うけど、僕国王の座、狙ってるんで!」
よろしく! と軽い調子でウィンクしたディーノに、兄妹は顔を見合わせて同時にディーノを見やった。
彼は第二王子のため、フレッグ国と制度の違うフレイ国では第二王位継承者だ。このままでいけば第一王子が次期国王であるが、なんと彼はその国王の座を狙っているのだと言う。
あぁそうか、と、ヴィルフェルムは納得した。
先程彼が言っていた。この結婚はアクセリナにとってもいいものだと。
彼女が国王になるべく培ってきた様々な知識能力は、ディーノの大きな助けになる。そしていつかディーノが国王となりアクセリナが王妃となれば、フレッグ国との繋がりはより強いものになるだろう。
アクセリナが国を離れることを決めた今、次期国王はヴィルフェルムにほぼ確定だ。国の、兄の助けになる――それが今の、アクセリナの望みだ。
「危険も伴うだろうし、まー色々面倒なこともあると思うけど、僕とアクセリナだったら大丈夫でしょ」
「私は大丈夫だろうが、お前はどうだろうな」
「酷い! 支えてよ夫を!」
アクセリナはふっと笑った。その瞳にはもう、失恋の悲しみはない。彼女の芯はやはり、王族であった。
「良いだろう。やるからには徹底的にだ。必ず王となれ、ディーノ」
「任せてよ。僕期待に応える質だから」
不敵に微笑み合う二人は、なんだかんだで似合いなのではないかとヴィルフェルムは思う。アクセリナに睨まれることが予想されるため、口には出さなかったが。
ただ今はアクセリナの兄のヴィルフェルムとして、妹の幸せを願っていた。
今後叶うなら、目を腫らして感情を殺した妹の顔を見ないで済むように。
国王だとしても王族だとしても、痛む心は持ち合わせているのだから。
*****
アクセリナに婚約解消を告げてから、一ヶ月が経過していた。
あのあとすぐに王家から見回り範囲を広げる許可が下り、エドヴァルドは聖女ヘレーナ、それから他の数人の護衛騎士と共に各地の見回りをしていた。城のある街に戻るのは随分と久しぶりで、エドヴァルドは少しばかり緊張していた。
城に行かない限りはアクセリナに会うことはないだろうが、すぐ近くにアクセリナがいると思うだけで胸が締め付けられる。
あんなふうな別れ方をして本当に良かったのか、エドヴァルドは未だ答えが出せない。
その日の街は、いつもより賑やかだった。あちこちに装飾が施され、音楽も聞こえている。
「――何でしょうか?」
「さぁ……何か祝い事でもあったんでしょうか」
王子ヴィルフェルムの婚約者が決まりでもしたのだろうか。
基本、聖女と護衛騎士たちへの連絡は、火急のものでない限り街に戻ってきたときにされる。例えば聖女の力が及ばず魔物が出現してしまったというときや、王族に不幸があったとき、或いは王子王女の誕生など、そういった場合にのみ早馬が出される。
婚約者の決定などは、急ぎの用でもないため連絡は来ない。誕生日や成人式と言った場合も然りだ。
「あ、おーい! エドヴァルド卿! 戻ってきてたんだな!」
呼んだのは、エドヴァルドの知り合いの貴族だった。何人かがお祝いモードで集まっており、聖女の姿に頬を赤らめて挨拶する。
「やぁ、久しぶり。これは一体何の催しだ?」
「え? いや、っていうかお前、いつのまに婚約解消しちまってたんだよ! 俺たち全然知らねぇでさぁ! 急に今日、王女様が隣国の第二王子と婚約が決まったって聞いて、驚いてんだよ!」
え、と、エドヴァルドの表情が固まる。隣でヘレーナが、まぁ、と声を上げた。
「婚約だなんて、まさか。だって王女殿下は、エドヴァルド様を想っておられるはずですのに」
「まぁ、王女ですからねぇ。色々と事情があったんでしょう」
ヘレーナはすぐにエドヴァルドに身体を向けて、その腕にそっと触れた。
「エドヴァルド様、気を落とさないでくださいませね。お可哀そうに、王女殿下はきっと、政略結婚の道具に……」
はっとして、エドヴァルドはヘレーナの腕を振り払った。
そして青い顔のまま、慌てて走り出した。
「もう手遅れですのに」
その呟きに気づいたものは、誰も居なかった。
人混みをかき分けて、一心不乱に走る。
どうして、なぜ。
待っていてくれるのではなかったのか。自分が相応しい男になるまで、待っていてくれるのではなかったのか。
いくらか走って城の近くまで来ると、見慣れた姿が視界に入った。護衛をつれたヴィルフェルムが、今まさに城の中へ戻ろうとしていた。
「ヴィルフェルム様っ!」
エドヴァルドの声に、ヴィルフェルムは立ち止まる。その姿を認めると、僅かに顔を顰めた。
「エドヴァルド卿。いつ戻ってきたのだ?」
「ついさっきです、あの、街で、っ……アクセリナ様が、……こ、婚約した、と……」
敬礼も忘れ、息も絶え絶えに尋ねる。否定してほしかった。何の話だと笑ってほしかった。
「あぁ、そうだ。アクセリナはフレイ国の第二王子、ディーノ・ウーナステラと婚約した。もう間もなく、あちらの国に向かうことになる」
エドヴァルドの頭の中が真っ白になった。
指先が一気に冷え、小刻みに震える。息が詰まり、唇は酷く乾いていた。
「……ど、……どうして……」
「あちらからずっと結婚の打診があった。今までは婚約していたために断っていたが、きみとの婚約がなくなったからね。フレイ国の要求を受け入れたというまでだよ」
淡々と言葉を紡ぐヴィルフェルムに、エドヴァルドの鼓動は速くなるばかりだった。
ヴィルフェルムとアクセリナはよく似た兄妹だった。その表情は、エドヴァルドが最後に見たアクセリナの表情と同じだった。
「待っていてくれると思ったのだろうな」
「!」
「妹はずっと待っていたよ。婚約してから三年。結婚が延期になってから一年。きみが覚悟を決めるのを、ずっと待っていた。短いと思うかい? そうかもしれないね。でも実際あの子は、いつまででも待つつもりだったんだよ。きみと聖女の噂を聞くまでは」
「それは誤解です! オレとヘレーナ様の間には何もありません!」
「うん、そうかもしれない。実際きみの心はアクセリナにあるのかもしれない。……でも、エドヴァルド卿。妹は一度も、きみとデートをしたことがなかったんだ。二人きりでカフェに入ることも、寄り添って歩くこともなかったんだ」
ひゅ、と、エドヴァルドの喉が鳴る。ヴィルフェルムの言葉はまだ続いた。
「そんな噂を聞いても尚、アクセリナはきみを信じると言っていた。……なのにどうしてきみは妹に、婚約解消を告げたんだ?」
「そ、れは……こ、婚約者、のままだと、……彼女に相応しい、男になれないと思って……だから……いずれまた、プロポーズを、と……」
「それをアクセリナに伝えたのか?」
エドヴァルドは首を横に振る。
「……あのとき、は……何を話しても、信じてもらえないと、思って……」
「そしてそのまま聖女と街を出たわけか。……なぁ、エドヴァルド卿。いくら人を信じても、疑心は生まれてしまうものだ。妹はその疑心と必死に戦っていた。聖女との噂が出た直後の婚約解消は悪手でしかない。きみに対する疑心はその時点で、確信に変わってしまったんだ」
アクセリナと同じ、ヘーゼルアイがエドヴァルドを見つめる。その瞳に浮かぶ感情は、同情と憐れみだった。
「きみがすぐに妹を尋ねてそのことを話していれば、状況は変わったかもしれない。ただあの子の心はすぐに切り替わった。それがディーノ第二王子との婚約だ。きみはあの子がずっと待っていてくれるものと思っていたけど、……愛があればそうかもしれないけれど……アクセリナは王女なんだ。たった一人のために心を砕き続けるわけには行かないんだ」
「お、オレは、……ただ……あのひとに相応しい男になりたくて……」
「――そうは、なれなかった。或いは、決断が遅すぎた」
ヴィルフェルムが懸念していたことの一つ。もしくはそれが全てだったのかもしれない。
優柔不断な心は、民を迷わせる。流されやすい心は、王族たりえない。
「きみの優しさは美点だ。だけれど国王の隣に立つには脆い。ただ、聖女のことに関しては僕らの父が決めたことだから、それについては謝らせてほしい。きみに強くなって欲しくて与えた護衛騎士という仕事だったはずが、こんなことになってしまうなんて」
エドヴァルドはもう、放心状態だった。
どうすればよかったのか、何が正解だったのか、なぜこんな結果になってしまったのか。
本当は全てわかっている。
ただ自信を持てばよかった。覚悟を決めればよかった。
例え実力が釣り合わなくとも、何があっても彼女の傍で、彼女を支え続けるのだという強い意志があれば良かった。
「……アクセリナが国王を志していなければ……いや、何を言っても今更だ。もうあの子の心は、決まってしまったから」
エドヴァルドはその場に膝をついて、項垂れる。明るい音楽が聞こえてくる中、彼の心はどこまでも暗かった。
どれだけ後悔しようが、絶望しようが、彼女の隣に立つことはもう叶わない。その権利を手放したのは自分自身だ。
アクセリナという存在が余りに遠いものに思えて、自分は釣り合わないのだと思い込んで。そのくせ、彼女は待っていてくれるのだと思っていた。時間は無限ではないというのに。
エドヴァルドはその後、聖女の護衛騎士を自ら辞め、姿を消した。
だけれどそのことを、アクセリナは知る由もない。
彼女の心はすでに、ディーノを国王にすることに向けられていた。