5 宿屋から救い出されたときのこと
翌日。
大きな馬車がレイラのいる宿屋の前に停まった。
それは犬公爵専用の馬車だった。黒塗りに金の装飾が眩しい。四頭立ての馬車だ。
その後部座席のドアが開くと、中から上等な服を着た美丈夫が現れる。
「さて。どう説得すべきかな」
「犬公爵様。ここは、私にお任せください」
ギルフォードに続いて現れたのは、頭に白髪の混じった初老の男だった。
黒一色のスーツを身に着けているが執事ではない。
彼はギルバートの父親の友人で、名をノア・ハドソンといった。
「ノア。では頼む。私はどうしてもあの娘を手に入れたいのだ」
「承知いたしました。犬公爵様」
宿屋の扉を乱暴に開け放ち、ノアが中に入る。
「……いらっしゃませ」
受付にはやる気のない目で訪問者を見る、宿屋の主がいた。
「おひとり様で? 何泊のご予定か」
「私は宿泊に来たのではない。ここで働かせている、レイラという娘について問いただしにきた」
「レイラ、ですか?」
宿屋の主は土気色の顔を上げると、手元のベルをチンチンと鳴らした。
すると奥から主の妻が現れる。
「思っていたよりお早いご到着だ」
「おや、どうやらそのようだねえ」
「ここでレイラという娘が働いているはずだ。彼女を今すぐここへ連れてきてもらいたい」
仁王立ちする二人に向かって、ノアは淡々と告げる。
しかし片眉をあげた宿屋の妻は、鼻で笑った。
「ハッ。どんな要件なのか、まずはきちんとお伺いしてからじゃないとねえ。レイラはわたしたちの大事な子供なんだよ。本当の子である息子と同じくらい大切な、ね。おいそれとどこの馬の骨ともいえないやつには会わせらんないよ」
「ああなるほど『養子』だったな。書面上は。そうかそうか。私がちゃんと名乗らなかったのが悪かったな。私は、こういう者だ」
ノアはスーツの内ポケットから名刺入れを取り出すと、そこから一枚の紙を出して受付カウンターの上に置いた。
「なんだ? ノア・ハドソン? リバーウォーク市法務局最高責任者……!?」
「ああ、だから、ここで働かせてるレイラのことを調べなきゃならなくなったんだ。さあ、あの子はどこだ。いったいいつ、どこで、いくらで買った? 内容によってはお前たちを逮捕しなきゃならなくなる」
「なんだって!」
宿屋の妻が一気に青ざめる。
「あ、あんた、言ってやんなよ。八年前、あの子はちゃんとした伝手で引き取ったんだって」
「そ、そうだ。戦争で親を亡くしたばかりの身寄りのない子を、わざわざうちで引き取ってやったんだ。しゃ、社会貢献ってやつさ。それに実の息子だって働いてる。レイラだけ家の仕事を手伝わないわけにはいかないだろうが。それこそ、さ、差別だ」
「そうかね。それで? どこからだ。どこで手に入れた?」
「それは……」
「調べなんて、すぐつくんだ。下手な嘘は止すんだな」
「嘘じゃない!」
受付でノアと宿屋の夫婦がやりあっている間、犬公爵ことギルフォードはひそかに裏庭に回っていた。そこには予想通り、レイラがいた。
レイラはたらいに井戸の水をくみ上げ、汚れたシーツをごしごしと洗濯板で洗っている。
「おはよう、レイラ」
「えっ?」
ギルフォードが声をかけるとレイラは飛び上がるようにして驚いた。
「えっ、い、犬公爵様!? ど、どうしてここに」
「君を迎えにきた」
「えっ!」
「まだ私に対しての返事はもらえていないが……いい加減、我慢がならなくなってな」
「まだ一日しか経ってないですよ。あの、いったいどういうことなんでしょう。なぜ犬公爵様が……」
混乱の極みにいるであろうレイラに、ギルフォードは優しく語りかける。
「君はここで、子供の頃からずっと働かされてきたと言っていたな? それは、ここの主人たちが違法なことをしつづけていたということでもある。私は君も助けたいが、領主として民たちの不正も正さねばならんのだ」
「そんな。だって……」
「今、君は、いままで誰も通報してくれなかったのにと思ったな? 誰もこのことに気付きもしなかった、知らないふりをされてきたのにと」
「あ……」
公爵の言う通りだった。
七歳の頃から、レイラの生活は何も変化してこなかった。
泊まりに来る客たちは何かおかしいと気付いていたに違いない。奴隷は、養子としてもらわれてきたとしても、ひどくこき使われるのが常だからだ。
それなのに、八年間ずっと……レイラの生活は変わらなかった。
大人たちはずっとこの不正を知っていたにもかかわらず、いらぬ面倒事から目を背けつづけてきたのだ。
中には勇気を出して指摘した者もいたかもしれない。
しかしそれも、宿屋の主人が「レイラは養子だ。家庭内のことに部外者が口を突っ込むな」と言えばそれで終わりだったろう。
だから、今までレイラは誰にも救われることがなかった。
毎日クタクタになるまで働かされて。
これからも、いいように扱われて。
それが、レイラの人生のすべてだった。
けれど。
「犬公爵様はわたしを、今の現状から……助けてくださるのですか? 誰も、助けてくれなかったのに。あなたは……あなたは……」
震える声でレイラが問いかけてくる。
あかぎれだらけの手が、泡立てた水の中で硬く握りしめられていた。
「ああ。そうしたいと思っている」
「でも! でもわたしには、行く場所が無くて……だから……」
じわりと目に涙が浮かぶ。
そんなレイラを安心させるように、ギルフォードは微笑んだ。
「そうだな。だから昨日、私の城で働かないかと君に提案した。ここよりはよい暮らしを約束しよう。給金もたくさん払う。それが貯まり、出て行きたくなったらどこへなりと行ってもいい。だから、今は――」
「犬公爵様」
「行きたい場所が決まるまででもいい。それまで我が城で私や魔犬たちの力になってくれないか。お互いにとって、これはいい話だと思うのだが?」
「でも、どうやってです? わたしがいなくなったらこの宿は……。宿屋の主人がそれを許すとは思えません」
すると突然、鋭い笛の音が辺りに響き渡った。
周囲を見渡せば、いつのまにか裏庭にぞろぞろと警官たちが集まっている。
「えっ、えっ!?」
「どうやらやつらに罪を認めさせたらしいな」
突入、という合図とともに、警官たちが裏口の戸を破って宿の中になだれ込んでいく。
表の通りでも、同じような騒がしさが発生しているようだった。
「犬公爵様、これは?」
「私の知り合いが、協力してくれていてね。調査させたら、君を奴隷として買った証拠は簡単にそろったよ。あとは宿屋の主たちがそれを認めるだけだったのだが……どうやら片がついたようだな。息子も共犯ということで全員お縄だ」
「なんて、こと……」
レイラは立ち上がると、ギルフォードが引き止めるのも構わずに宿の中に駆け込んでいった。
受付に行くと、長年レイラを苦しめてきた三人が警官たちに手錠をかけられている。
「おお、レイラ。まさかこんな風に恩を仇で返されるとはな」
「まったくだよ! 犬公爵様に気に入られたからって、こんな仕打ち……この恨み、覚えておいで!」
宿屋の夫婦が唾を吐きかけながらレイラに罵声をあびせる。
息子も、片足を貧乏ゆすりしながらわめきだした。
「なんてこった! なんてこった! ああ~、もったいねえことをしたなあ……。こんなことならお前にもっと早く手をつけとくべきだったぜ。オイ、言っておくがなレイラ、お前はどう頑張っても犬公爵様に見合う器じゃねえんだよ! みなしごの、クソカス女が! 俺で、我慢しとけばよかったのによ!」
それぞれに捨て台詞を吐いて、宿屋の家族は連行されていった。
レイラは玄関前の床にへたりこむ。
「ああ、わたし……」
あまりにも色々なことが起こり、レイラは憔悴しているようだった。
ギルフォードが声をかけようとすると、黒スーツを着た初老の男ノアがその前にしゃがみこむ。
「どうも、お嬢さん。リバーウォーク市法務局最高責任者のノアと申します。レイラさん、で合ってますかな? 私は犬公爵様から『通報を受けて』ここへ駆け付けた者です」
「犬公爵様に?」
「ええ。宿屋の三人にはこれからしかるべき処分が下されるでしょう。そうしら、しばらくここへは戻れません。このあと、あなたがここで宿を続けようが、産まれた村へ帰ろうが、私は関知いたしませんが、どうされますか?」
「ええと……」
「まあ、あとはあちらのお方とお話しください」
そう言うと、革靴の音を響かせてノアが去っていく。
ギルフォードはノアを見送り、レイラの側に行った。
「レイラ。さっきはああ言ったが、私も今後の君に関してなんら強制することはない。落ち着くまで、あらゆる手段を用いて力を貸そう」
「犬公爵様……どうしてそこまでわたしに」
「昨日のことがやはり大きいな」
「え?」
ギルフォードはレイラに手を差し伸べる。
レイラはその手を取り、ふらふらと立ち上がった。
「君は私の使役している魔犬に対して、毅然と立ち向かっていた。多くの民は訓練されているとわかっていても、魔犬たちの近くには絶対に寄ろうとしない。心の底ではどうしても怖いと思ってしまうからな。私も初めはそうだった……」
「犬公爵様も?」
「ああ。だがテイマーとして修行を重ねるうちに、徐々に魔犬たちと対等に接せられるようになった。恐怖も克服できた。しかし、君の場合は……」
ギルフォードの碧い瞳が、レイラにまっすぐ向けられる。
「君は最初から……何の技術も持っていないはずなのに、アレックスに対してあんな行動をとっていた。とれてしまっていた。そしてアレックスも君に対して一切危害を加えなかった。これは、驚くべきことだ。私は君に尊敬の念すら抱いた。君という人間を、私はもっと知りたい。だから……」
「犬公爵様」
ギルフォードの真剣な訴えに、レイラはいまだ返事を迷っているようだった。
宿屋の家族たちからも、おそらく同じように求められていただろう。
ただそれは、単なる労働力としてだけだ。
彼らの期待に応えても、常に「当たり前」という態度をとられていただろうし、感謝の気持ちさえ持たれていなかったはずだ。
ギルフォードの提案も、もしかしたらレイラにとっては同じことなのかもしれない。
働く場所が変わるだけ。
しかし、宿屋の連中と違っているのは、ギルフォードは一切無理強いをしていないということだ。
断ってもいいし、無視したっていい。
「どうしたいか」はあくまでレイラに決めてもらう。
ギルフォードは静かにレイラからの答えを待っていた。
しばらくして、レイラは顔を上げた。
そして、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます、犬公爵様。そこまでおっしゃっていただけるなんて、身に余る光栄です。わたしは本当の父も母も、とっくに亡くなっております。幼い頃に売られ、ずっとここで働いてまいりました。たいした学もなく、読み書きなども一般の人間より劣っています。正直期待外れかと思われます。ですので……ですので……」
ああ、断られるのだろうな、とギルフォードは覚悟した。
だが、仕方ない。無理に引き抜いてもきっと満足な協力は得られないだろう。それならば、彼女には今度こそ自分の人生をまっすぐに生きてもらいたい。
そう思っていたのだが。
「……でも、それでも」
「ん?」
うつむいたままのレイラが涙声でつぶやく。
「それでも、わたしを……必要と、してくださるのですか?」
「レイラ……」
まさかと、ギルフォードはレイラを見つめる。
「わたしで、いいのでしょうか」
その言葉に、ギルフォードは諦めていた気持ちを一気に蘇らせた。
小さなレイラの肩に両手を置き、顔を上げさせる。
「ああ、もちろんだとも! 足りないものがあれば都度与える。不満があればいつでも聞こう。だから……だからどうか、私の元に来てくれ。レイラ!」
力強くそう言い放つギルフォードに、レイラはその空色の目から大粒の涙をこぼした。
「はい。わたしで、よろしければ」