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4 魔犬が暴走したときのこと

 その日から、レイラは洗濯物を干すのが楽しみになった。


 なぜならちょうどその時間、裏庭からあの犬公爵一行が見れるからだ。

 そのときだけは辛い日常から現実逃避をすることができた。


 毎日見ていると、最初は危なっかしかった兵士と魔犬も、だんだんと散歩が上手になってくるのがわかる。

 犬公爵は、黒犬がなにか粗相をしそうになるたびに近くに行ってしつけていた。

 そのやりとりを見ていると、レイラは心が温かくなる。

 殺伐とした日常の中でのわずかな癒し。レイラは知らず知らずのうちに黒犬たちに目を奪われていった。


(あああ、なんて可愛らしい……。普通の犬よりものすごく大きいけれど、あの毛並み、つぶらな瞳、精悍な顔つき。ああ、素晴らしいわ。またあの生き物に……触れてみたい)


 あの生き物。

 レイラははるか昔の記憶を思い出す。

 まだ母方の祖父が生きていた頃のことだ。


 レイラの祖父のオリバーは、山裾の森の奥深くに住んでいた。

 そこは危険な野生生物や魔獣も棲む場所だったが、祖父は「森の主」に認められていたので、特に害されることなく暮らしていた。

 どのように認められたかはわからない。

 しかし、祖父の家に遊びに行ったとき、レイラは一度だけ「森の主」に会わせてもらうことができた。


 森の主は、森のさらに奥――大きな木のうろの中に棲んでいた。

 牛の十倍はあろうかという大きな純血種の魔狼(フェンリル)。灰銀の体毛と空色の瞳。

 自分の容姿と少しだけ似ているとレイラが思っていると、相手も同様に思っていたようで「カカカ」と笑われた。


「オリバーよ。そなたの子孫はよう私に似ておるな」

「ええ、そうですね」

「すごいっ、しゃべったっ!?」


 思わず口走ってしまったレイラは慌てて口を両手で覆う。

 怒らせたかと思ったが、森の主はぎろりと一瞬にらんできただけだった。


「私は五百年以上は生きている魔狼だ。人語を話すことなど朝飯前。どれ、娘。もっと近くに来て顔を見せよ」


 祖父に促され、レイラは森の主の目の前まで歩いていった。

 大きな空色の瞳が手の届くところにある。

 その瞳にしげしげと見つめられた後、レイラはべろりとひと舐めされた。


「わぷっ」

「ふん。面白い。気に入った。来たついでに加護を授けてやろう」


 ぺろぺろと舐められて、レイラは大いに戸惑う。

 そのうち、顔を摺り寄せてこられたので、おずおずとその毛並みを撫で返したりした。


 あの感触を、もうずっと長いこと忘れていた。

 犬公爵様と一緒にいる御犬様を見ていると、それを思い出す。


 はるか遠い、幸せだった頃のあの記憶。

 あの加護は今も自分にかけられているのだろうか?

 

 魔物や魔獣に遭うことは、これまでで一度もなかった。

 守護があったといえばそうなのだろう。しかし、それで幸せでいられたかというと……違う。

 祖父も、父も、母ももういない。他の血のつながった親族たちも。


 もう一度あの森へ行って、森の主に会いたかった。

 これから辛い思いをする未来しかないなら、どうかあの魔狼に食べてもらいたい。


 レイラは公爵たちから視線を逸らすと、現実に向き合った。


「さあ、さっさと洗濯終わらせよ。それから……」


 その時、きゃあと女性の悲鳴が上がった。

 物干し竿にかけられたシーツの隙間から声の方を見てみる。すると、またあの黒犬が兵士を引きずっていた。今度はすぐに鉄の鎖のリードが外れ、黒犬が完全に解き放たれている。


「ひゃっ! あ、あれは!」


 以前、感じた悪い予想が、現実のものとなっていた。

 黒犬は川を軽く飛び越え、こちら岸にふわりと降り立つ。そして、さきほどから大きな声で泣いている幼児のところへ向かっていた。

 レイラは走り出した。

 なんとしてでもあの男の子を助けなければ。


 親らしき人間は周囲にいない。

 近くの大人たちは暴走している御犬様を恐れて、一目散に避難している。

 レイラだけが幼児の元へ走っていた。

 泣きわめく子の前に立ちふさがり、黒犬と対峙する。


 自分はもうどうなってもいい。

 さっきまで森の主に食べられたいと思っていたのだから。


 今の自分ができる精一杯のことがこれだと、レイラは覚悟した。

 黒犬が目の前に猛然と迫ってくる。

 犬公爵の制止の声が聞こえたが、魔犬の耳には入っていないようだ。幼児の泣き声と、幾人かの大人の悲鳴が重なる。


「……っ」


 最後の最後にはぎゅっと目をつぶってしまったレイラだったが、いっこうに何も起こらないのでそっと目を開けてみた。

 すると、黒犬がきょとんとした顔で自分を見下ろしている。

 そして、あの森の主と同じようにべろりとレイラの顔をひとなめしてきた。


「わぷっ」


 レイラは慌てて服の袖で顔をぬぐう。

 黒犬は嬉しそうにレイラの周りを飛び跳ねていた。


「ど、どうなってるの……?」


 幼児の母親が泣きながらやってきて、お礼を何度も言いながら立ち去っていく。

 レイラは呆気にとられた。

 自分は何もしていない。ただ、幼児の前に突っ立っていただけだ。

 ぼうっとしていると、橋を渡って兵士と公爵がやってきた。


「……ックス、そこで待て!」


 名を呼ばれたであろう黒犬がすぐに伏せをする。

 兵士が黒犬の鎖を持ったのを確認すると、犬公爵ことギルフォードがレイラにようやく話しかけてきた。


「君、済まなかったな。怪我はないか」

「は、はい……」

「本当に怪我はないか。もしあったら我が城で手当てをしよう」

「ええと。いえ、大丈夫です!」


 犬は飼い主に似るというが、この黒犬と公爵もよく似ていた。

 近くで見たギルフォードは、遠くから見るよりもさらに迫力があった。

 黒犬の精悍さを割り増しにしたような容貌で、その眼光の鋭さにドキリとする。

 公爵の碧色の瞳にはレイラの驚いた顔が映っていた。


「本当に済まなかったな。訓練中だったとはいえ、民に怖い思いをさせてしまった。だが、君のおかげで最悪の事態は回避できた。ありがとう。礼を言う」


 そう言って深々と頭を下げるギルフォードに、レイラは恐れ多すぎると強く首を振った。


「いえ、そんな、めっそうもございません! わたしが勝手にしたことですので。どうかそのように頭を下げられるなど、お止めください」

「いや、君が足止めをしてくれなければあの子は大怪我を負っていたかもしれない。助かった。一応名を聞いておきたい。ええと……」

「あ、わたしは……あそこの宿屋で働いております、レイラと申します」


 レイラは裏庭の先にある宿屋を目で指し示した。

 ギルフォードは深くうなづく。


「ふむ。なるほどレイラか。私はギルフォード・テイマー・シェパードという。この町の領主だ」

「はい、それは存じ上げております。あの、すみません。わたし本当に余計なことをしてしまいました。なにとぞ、なにとぞご勘弁を……」

「余計なこと? とんでもない。本当に感謝している。何かお礼をせねばな。困っていることはないか? 些細なことでもいい。言えば最大限、力になろう」


 ギルフォードはレイラの目線に合わせるよう屈み込むと、そう言って優しく微笑んだ。


(あ……)


 鋭い顔つきが一瞬にして和らぐ。

 その表情に、レイラはなぜか一気に胸が苦しくなった。


(な、なにこれ?)


 それは産まれて初めての感覚だった。

 そもそも、こんなに優しい言葉を人からかけてもらえたのは久しぶりだった。もう何年もこんな人間らしい対応をされていない。

 お客さんたちはあくまでも、自分を宿屋の使用人として接してきた。

 でも、この方は……。

 あくまでも一人の人間として向き合ってくれているように感じる。


 かすかに残る、幼い頃の両親との思い出。

 森の奥にいた祖父との記憶。


 レイラはふるふると首を振ると、顔を上げた。

 そしてダメ元で、あることを言う。

 

「あの、む、無理でしたらどうぞお断りになってください。でももし、可能なのでしたら……その御犬様に、触れさせてもらってもよろしいでしょうか」

「なに?」


 レイラは少し離れたところにいる黒犬を見つめた。

 黒犬は、兵士の横でしっぽを振りながら大人しく待っている。


「君は……魔犬が怖くないのか?」

「はい。幼い頃に一度、大きな犬を触ったことがありまして。でも今はそんな機会もまったくなくなってしまって。ですからどうか、一度だけ。お願いいたします!」


 ギルフォードは一瞬考え込んだが、すぐに満面の笑みになった。


「わかった。それが君への礼になると言うのなら、望むとおりにしよう。おい、アレックス!」

「!」


 ギルフォードに呼ばれた黒犬は、兵士を引きずりながらまた一目散に走り寄ってきた。近くまで来ると、ギルフォードはその魔犬の首を抱きかかえて、耳元でささやく。


「よし、これでいい。一定の間だけ君に従順になる魔法をかけておいた。これで万が一にも噛みつかれることはない。さあ、触っていいぞ」

「ありがとうございます!」


 レイラは自分でも気づかないうちに自然と笑顔になっていた。

 黒犬の名が、まさか父と同じ名だとは……。奇妙な縁に、レイラはまた涙が出そうになる。


「アレックス、っていうのねあなた。ごめんなさい、あの、少しだけ触らせて? ……あ、すごい、ふわふわだわ!」


 そっと黒犬の首元に手を伸ばすと、レイラはその手触りにうっとりとした。

 撫でるたびにアレックスも心地よさげにする。


「ふふふ、良い毛並みだろう。この魔犬は私のここ最近の自慢でな。フェンリルの血が四分の一入っているクォーターで……」

「ああ、よしよし。あなたほんと可愛いわあ~」


 レイラは犬を撫でるのに夢中で、公爵の話を半分も聞けていなかった。しかし、ギルフォードはレイラが幸せそうにしているのを見てそれ以上何も言わない。

 そして、あっというまに時間が流れた。


「レイラ、レイラ! どこにいるんだい! レイラ!」

「あっ……いけない!」


 しばらくすると、怒りに満ちたおかみさんの声が宿屋から聞こえてきた。

 レイラは真っ青になり、ギルフォードから一歩下がる。


「ご、ごめんなさい。犬公爵様。わたし、もう戻りませんと」


 振り返ると宿屋の窓からおかみさんが覗いていた。おかみさんはレイラを見つけるなり眉間に深いシワを寄せる。


「まったくどこをほっつき歩いているんだい! 次の仕事がつっかえてるよ! さっさとおし!」

「は、はい、今行きます!」


 女主人はレイラのそばにいる公爵に気付くと、愛想笑いをしてすぐに引っ込んでいった。

 レイラは黒犬から名残惜しそうに手を離し、深々と頭を下げる。


「あの、御犬様を触らせていただきまして、本当にありがとうございました。しばしの幸福を得られました。過分なご褒美を頂きましたのに、もうこの場を失礼することをお許しください。では……」


 そう言って行こうとしたのだが、なぜか公爵に引き止められた。


「待ってくれ、レイラ」

「え?」

「君はその、これからあの宿屋に戻るのか?」

「え、はい……」

「ここは、君の家か」

「いいえ。事情があって、働きながらここに住まわせてもらっています」

「働きながら? それはどのくらいの時期からだ?」

「七歳の時からですので……もう八年ほどです」

「八年!?」


 公爵様は怪訝な表情を浮かべると、すぐにレイラの手を取った。


「もしかして君は……奴隷、なのか? 人身売買の利用は戦時中、または戦後の一時的な期間にだけ行われていた。それ以降は法律で禁じられたはずだ。それなのに……まだ水面下で利用しつづけている者がいたというのか。レイラ、君さえ良ければどうだろう。これからは、私の城で働かないか?」

「えっ?」


 突然の申し出にレイラは目を丸くする。


「え、あのっ、それってどういう……」

「私は常日頃から、魔犬に対して拒絶感がなく、なおかつ勇敢に対応できる者を探している。兵士たちは見ての通り、腕に自信があっても、魔犬たちとどうも相性が悪くてな……。それに、今君の勤めているところは待遇があまり良くはなさそうだ。うちならいつでも君の好きな『大きな犬』に触れるし、給金もたくさん払うぞ。どうだ、悪い話ではなかろう」

「で、でも私なんかがその……」

「自信を持て。君にはその価値がある。だからぜひ、私の城に来てほしい」

「やっ、宿屋の主が……その……急に言われましても。あのっ、か、考えさせてくださいっ!」


 ぐいぐいと迫りくるギルフォードに、レイラは逃げるようにしてその場を立ち去った。

 手を振り払い、わき目もふらず宿の中に逃げ込む。

 とても魅力的なお話だった。でも、レイラはそうそう簡単にこの宿を離れられない。


「レイラ……。さっきはあそこで何を話してたんだい?」


 裏口のすぐ裏におかみさんが立っており、レイラはぎくりとした。

 しどろもどろになりながら、なんとか今あったことを説明する。


「ふん。余計なことを。いいかい、レイラ。お前さんはこれから息子のジェフと夫婦になる予定なんだ。それ以外のことなんて一ミリたりとも考えるんじゃないよ。もしお前がいなくなったら、この宿はどうなるんだい? 人手が足りなくなってあっという間に立ち行かなくなっちまう。わかったら、都合のいい夢は早く忘れるんだ。いいね?」

「はい……」

「もし万が一、犬公爵様がやってきても適当な理由を並べて追い返してやる!」


 鼻息を荒くして、おかみさんは厨房へと戻っていく。

 レイラはさきほどの黒犬の手触りをもう一度思い出そうとしたが、もう二度と得られないのだとわかるとひどく落ち込んだ。

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