3 犬公爵様を初めて見たときのこと
レイラに転機が訪れたのは、冬の寒さが弱まり、次の春が近づいてきた頃だった。
いつものように午前中の洗濯をしていると、川向こうの土手に、大きな黒犬が歩いているのを発見した。
「なっ、なにあれ……」
それは人の身長と同じくらいの体高がある犬だった。
いつぞやの森で見たクマよりも大きい。
それが、鎖につながれて屈強な兵士と歩いている。
「か、可愛い……!」
普通なら恐れおののくところだが、レイラは違っていた。
その美しい毛並み、愛くるしい大きな瞳に魅了され、うっとりとなる。
「ね、ねえ、ちょっとあれ!」
「え? あっ……」
近くにいた通行人たちも、ひそひそと話し合いながら遠巻きにそれを眺めていた。
黒犬は大地を踏みしめながらゆっくりと歩いていたが、やがて何かを見つけると猛然と走りだした。
兵士がバランスを崩し、勢いよく引きずられはじめる。
「うわああああっ!」
兵士の悲壮感あふれる叫びに、レイラはあせる。
いけない。もしこの先に小さな子供でもいたら……。
「待て!!」
そんなときだった。辺りに力強い声が発せられた。
黒犬は川に入る直前で立ち止まる。どうやら、たった今飛び立った水鳥を狙っていたようだ。ゆっくりと声の方向に振り返る。
そこには、上等な服に身を包んだ、ひとりの貴公子が立っていた。
アッシュブラウンの髪を後ろでひとつに束ねた麗しい顔立ちの青年。彼は、静かに黒犬の方を見つめている。
「あれは……ギルフォード様!」
「犬公爵様よ!」
道行く人々が口々に叫ぶ。
ギルフォード・テイマー・シェパード。
噂に聞いていた、ここ一帯を統べる領主様だ。
親の代は早くに引退し、今はこの息子が公爵を名乗っているという。
客たちの話によれば、街の中心部にその居城があるとか。
まだ二十代ということだったが、体を鍛えているのかがっしりとした体格をしていた。
レイラは初めてこの公爵を見た。
「あのお方が犬公爵様。あんなに大きな魔犬……を飼っているのね」
シェパード家は代々犬系のテイマーの能力を持っており、半魔狼や魔犬を従えて王国の戦力の一助となっていた。
あの黒犬も、おそらく魔物の血が入っているのだろう。
でなければあれだけの大きさにはならない。
ギルフォードは黒犬に近づくと、耳元で何事かをつぶやいていた。
すると黒犬は反省したようにパッと伏せをする。
「まったく。こいつはまだ子犬だ。使役の首輪もつけているし、お前には使役の腕輪も装備させている。だというのに……ろくに散歩もできんとは。お前の膂力は飾りか」
「も、申し訳ございません」
兵士はギルフォードに叱られ何度も頭を下げていた。
周囲にいた人々はほっとしつつも、すぐにはっとして顔を見合わせる。
「なあ、今、散歩とか言ったか?」
「ああ、たしかにそう聞こえた。ということは……」
周囲が動揺する気配を察して、ギルフォードが誰にともなく言う。
「これは、新しく迎えた魔犬だ! この地域を警護するために現在訓練している。よって、今後ここはこの魔犬の巡回ルートとなる!」
それを聞いた者たちは一斉に喜んだ。
ある男性が、畏れ多くも公爵に話しかけにいく。
「あのう、失礼いたします犬公爵様。この地域を、『御犬様』が巡回されるというのは本当ですか」
「ああ。この地域は今まで警護の対象から外れていた。だが、この度魔犬の補充をしたため、改めて指定した。訓練がすめばすぐにここへ配属させる」
「おお! ありがとうございます!」
リバーウォークの都市では、現在六匹の「御犬様」と呼ばれる魔犬たちが、警護の任についている。
よって、この黒犬は七匹目の御犬様ということになる。
警護に当たる魔犬の数は、その代の公爵の力によって左右される。
テイマーの力が優れていれば多くの魔犬を、劣っていれば少ない数の魔犬しか使役することができない。
一番優れていた時代の領主は、十匹以上の魔犬を使役していたというが、ギルフォードの親にいたっては五匹が限界だった。
だからこそ、町はずれの民たちは大いに喜んだ。
いつもいつも警護対象は街の中心地が優先されていたから。
この地域にも魔物がたまに出る。
その多くは巡回の兵士や冒険者たちによって退治されていたが、その対処は主に昼間にだけ行われていた。
夜に外に出るのは危険。
それがこの街の、ひいてはこの世界のルールだった。
しかし、御犬様が見回りに来るのであれば、その魔力の残滓が大地に残り、夜でも魔物が出てきにくくなる。
レイラは尊敬のまなざしで公爵を見つめた。
冷静でありながらも、テイマーとしての矜持を心に強く秘めている。
民たちを守ろうと日々努力している姿に、レイラは胸を熱くした。
いつのまにか手が止まっていたらしい。
宿の方からおかみさんの怒号が飛んでくる。
「何をしてるんだい、レイラ! サボってないでさっさと仕事に戻りな!」
「はっ、はい!」
レイラは慌ててシーツを干し終わると、後ろ髪を引かれながら宿に戻った。