フェイス
脳みそを掻き回されるような痛みで目が覚めた。部屋を満たす饐えた臭いのせいか、丸テーブルに転がる缶チューハイの残骸のせいかはわからない。鉛のようになった体をほぐすように首を動かすと、壁掛けの時計が目についた。七時を回っている。
急いでソファにべっとりと貼りついた体を引き剥がすと、テーブルの下に落ちているスーツに手を伸ばした。
足元に散らばったゴミを蹴りながら、玄関へと進む。異臭を漏らさないように数十センチだけドアを開け、外へ体を滑らせた。すかさず扉を閉め鍵を差し込み回す。
鍵をポケットにしまい、息を吸った。体を犯していた空気はどこかに消え、真新しい酸素が血管を満たす。が、頭の痛みはいまだに居座ったままだった。大輔は痛みをかき消すように、会社へ向かった。
デスクに着き、パソコンを立ち上げていると部長が側に寄ってきてた。
「おはよう、山本くん。今日はこの資料をまとめておいて欲しいな」
彼に渡された紙束の上には黄色い付箋が貼られてた。
<30分後に会議室に来て>
大輔は小さく頷き、付箋を捨てた。
指定された時間まで、仕事を進めようとキーボードを叩いていると、オフィスの隅から視線が注がれていることに気がついた。耳を澄ますと何やら話をしている。
「……ねぇ、よく出社できるわね……本当に……」
一瞥すると彼らは蜘蛛の子を散らすように、自分のディスクは戻っていく。
大輔はため息をつくと体を伸ばした。約束の時間まであと10分も残っているが席を立った。
背中に張り付く視線を感じながら、オフィスの扉を開いた。薄いドアの向こうで流れる安堵の空気に、また、大輔は息を吐いた。
「呼び出して申し訳ないね」
部長は後頭部を掻きながら、大輔の顔を伺っている。大輔は首を振り、用件を尋ねた。
「え、いやぁ、まぁね」
部長の目が忙しなく泳ぐ。頭にある引き出しをひっくり返して、次に口に出す言葉を探しているのだろう。
大輔が黙ったまま部長を見つめていると、覚悟を決めたように部長は口を開いた。
「山本くん、休んでいいんだぞ。だってほら、親戚の子、居なくなっちゃんだろう。いくら親戚って言っても一緒に住んでたら、家族みたいなものだよ、だから——」
……親戚。そうか、健太は親戚……だったな。
大輔は自分が口にした出まかせを思い出した。
半年前、健太とショッピングモールを歩いているところを同僚の女性社員に見られ、昼休みに詰問された。
なぜそこまで他人の人間関係に足を踏み入れようとするのか不思議に思っていたが、たった60分の休みを潰されてはたまらないと、一緒に歩いていた人は親戚で今は訳あって一緒に暮らしている。そう答えた。
すると彼女はつまらなさそうな顔をして、ランチに出かけた。
彼女の表情に不満がなかったわけではないが、無事休憩時間が訪れたことに安心して、健太の作ったしゃけ弁当を食べたのを覚えている。
女性の情報拡散力は、きっとどんなSNSにも劣らないのだろう。彼女に健太のことを話した翌日から、大輔が親戚と暮らしているは周知の事実となった。しかも、夢を追って売れないバンドをしている親戚というおひれまでついて。
大輔は呆れもしたが、特に訂正することはないだろうとそのままで放置していた。
それを今でも信じているとは。
「だからね、山本くん」
力強い声に、思わず耳を傾ける。
「あ、はい」
「明日から一週間休みなさい。有給使って」
部長は言いたいことを言えたようで、満足げに会議室を後にした。
「どうしてこうなったかなぁ」
独り言は紺のタイルカーペットに吸い込まれた。
——健太が失踪した日、部長には同居人が失踪したから、警察から業務中に電話が来るかもしれないと伝えた。
そうしたら今度は1日待たずに、社内にこのことが広まっていた。
あまりの伝達力に驚いていたが、今度も放っておくことした。
最初のうちは、大輔は不幸の渦中にいる可哀想な人間だと皆の目に映っていたようだが、日が経つにつれてその印象は、親族がいなくなったのに休みもしない血も涙もない人間へと変化していた。
それまでは社内でスポットライトを当てられるような立ち位置にいたわけでもないのに。その方が居心地がよかったのに。
仮にもし注目を集めるようになっても、家に帰れば、健太のいる家に帰れば、あいつが噂も汚れも取り除いてくれたのに。
あの日だ。あの日から全部が壊れた。どうしたらよかったんだよ、俺は——
頭の中に渦巻く後悔に耐えかねてうなだれていると、会議室の扉が開いた。以前、狂ったように話を聞こうとしてきた女性社員だった。
「ごめんなさい、次ここ使うので……」
前はしつこいくらいにプライベートに踏み込んできたくせに、今では目も合わせようとしない。
大輔は込み上げてる怒りを堪えて、またあのデスクへと戻った。
「先輩」
一心不乱にキーボードに手を走らせていると、向かいの机の後輩に声をかけられた。
「何」
乾いた声で答えると、後輩は怯むどころかこちら側へ回ってきた。
「今日、飲みに行きましょうよ」
「い……」
いつもならすぐさま出てくる言葉が出てこない。大輔が自分の異変に驚いている間にも、後輩は「行きましょうよ」と繰り返す。
「わかったよ」
ようやく出てきた言葉はそれだった。
自分の頭に何が起きているのか、大輔はさっぱり理解出来なかった。これまで、健太以外の人間とどこかに行くということが苦痛でしかなかったはずなのに。それなのに、断ることができなかった。しかも、健太が失踪したというのに。
寂しさのせいか、後悔のせいか、いくら頭を働かせても納得のいく答えは一つも浮かび上がらなかった。
午後6時。居酒屋には客どころか、店員の気配すらなかったが、後輩は気にする様子もなく1番奥を席に陣取った。
「すいませーん」
空っぽの店内に後輩の声が響く。遅れて、入り口の近くにあるカウンター兼厨房から、店員が出てきた。
「生と串盛り、あと——」
彼は慣れた口調で次々に目当てのもの注文していった。
「先輩は、なんか食べます?」
大輔は頭を振り、訪ねた。
「なんで俺、誘ったの?」
後輩は何の気なしに、「明日から休みって聞いて」と返事をした。
大輔は何も言わずに、おしぼりを開けた。
「それでさぁ、彼女がなんか冷たいんですよぉ」
顔を赤くした後輩はおぼつかない手で、ビールを呷った。それにつられて大輔も、ジョッキを手に取る。
「寂しいの?」
「はぁい」
ほとんど溜息のような返事をして、後輩はまた店員を呼びつけた。
もうかれこれ、1時間は恋愛話を聞かされている。
「どう思いますかぁ、先輩」
程よく回ったアルコールは大輔の固まった理性を解きほぐしていた。
「しっかりと向き合うべきだと思うよ」
「向き合う?」
「冷たくする、怒るっていう表現は合図だよ。もう少しで、キャパ超えますっていう。そういうサインを出してくれた時に、逃げずに向き合わなきゃろくなことにならないよ」
そう、向き合わなきゃ。
大輔は自分の口から出た言葉を噛み締めていた。
自宅の扉を開くと、あの饐えた臭いが鼻の奥にへばりついた。
大輔は口で息を吸いながら、部屋に入っていった。
——向き合う。
1時間前の自分が頭の中で繰り返し囁く。でもどうやって?健太はもういない。戻って来ない。今更決心したって何も変わらない。
頭に渦巻く黒いモヤを振り払うと、水を飲みにキッチンへと向かった。
流しには汚れたままの食器が、泡に包まれるのを待ち侘びている。そして、調味料の置かれているカウンターには健太が愛読していた料理書が。
大輔はそれを何気なく手に取り、ページを開いた。
ページの余白に角ばった、下手くそな字が書かれていた
〈唐揚げは王道。大輔も喜んでた。もう少し塩っぱくても旨い〉
〈シチュー このメニューにはナスとかも入ってたから、真似して冷蔵庫のあまりをぶち込んだら、大輔から無言の抗議を喰らった〉
〈ハンバーグ 初めて大輔に振る舞った料理。あの笑顔で、俺はあいつを好きになったのかも〉
次のページにも、その次のページにも律儀にカクカクした文字は続いている。
大輔は本を持ったまま、寝室に向かった。
鼻をつく臭いは増している。
大輔はクローゼットを開いた。
鈍い音と共に、痛んだ健太が出てきた。大輔は膝を曲げて、健太のおでこを撫でる。
あの時まであった、温もりはもうそこにはない。
大輔は立ち上がり、ポケットから携帯電話を取り出した。
「自首したいんですけど」
<以下、被告の陳述>
僕と、被害者……健太は恋人でした。周りには、親戚と偽っていて。
健太はそれが嫌みたいでした。わざわざ隠す必要なんてないって。でも、僕はそう思えなかった。
僕の会社は多分どんな田舎にも負けないくらいに、噂の伝播が早かった。だから、もし僕が、僕が同性愛者だなんてバレたら……。
健太はそんな時代錯誤な会社はやめちゃえってずっと言ってて。僕は全部流していたんです。
だけどあの日、あの日、健太から言われたんです。これ以上嘘をつき続けるなら、別れよう。普通の人と結婚して、普通の幸せを手に入れてほしい。
別れたくなんてなかったんです。でも、僕は向き合えなかった。
健太から別れ話を切り出された時、健太からの合図だったのに、僕はなんでそんなこと言うんだってカッとなって衝動的に殺害しました。
本当に浅はかで最低な行為だと思っています。減刑は望みません。
それと……。
健太、俺はお前のことが世界で一番大切だよ。生きてる間も、死んでも一人ぼっちさせて本当にごめん。
これが僕にできる唯一の贖罪です。