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他人が死んだ話。

作者: 零桜

今日も誰かが死んだ。

毎日誰かは産まれて、誰かは死ぬ。

雨が上がるまで、軒下でネットニュースを読んでいた。遠いどこかで、交通事故があって何人かが亡くなったらしい。自分も身の周りには気を付けなくては、と思いながら目を細めてその記事を閉じた。

暑い暑い夏の通り雨はちっとも気温を下げてくれない。それ所か湿気を余計に撒き散らすばかりで、たまたま折り畳み傘を忘れて出かけた私は急所を突かれたような気分だった。

色んな所に私と同じような人がいる、私一人だけではないらしい。私は普段は折り畳み傘をちゃんと鞄に入れてるから。なんでか今日だけ忘れてきてしまっただけで。

忘れかけていた折り畳み傘の在処について、また考えていた時だった。

ずぶ濡れの男性が私と同じ軒下に走り込んできた。

あまりの濡れ様に周りも引いてしまうレベルで、勿論私もギョッとした。

男性は肌に張り付いた橙色の服を引き剥がそうと指で摘んで引っ張って、指を離せばまた引っ付いての繰り返しをしている。当人も困り果てているようで、溜息を吐きながら何度も同じことを繰り返している。不意に男性の視線がこちらに向けられて、ずっと観察していた私は言い逃れもできないぐらいに目が合った。男性は困ったような笑みを浮かべて、

「あの、この店ってタオル売ってますか」

と私に聞いてきた。

急ぎすぎて看板すら見ていなかったのか。どうやらこの辺りの人ではないらしい。やや警戒しながら、思い切って口を開くことにした。

「ここ、本屋ですよ」

「えっ!?」

本屋もまさか本屋であるだけでここまで驚かれたことはないだろう、と頭の遠い所で考えた。

男性は声を上げて目を丸くして、キョロキョロと周りを見回している。しばらく考えた素振りを見せたあと、まだ雨が打ち付ける地面に足を踏み出した。

軒下から出て、店を見上げて、また驚いたような表情を浮かべれば軒下に戻ってくる。

「本当ですね……!」

分かった、多分この人は変わった人だ。天然か馬鹿かのどっちかだ。わざわざ看板なんて雨に打たれてまで確認することだっただろうか。

そんな失礼なことを考えている私に、男性はへにゃ、と人好きが良さそうな笑みを浮かべた。

「……振り向けば分かると思うんですけど」

さっきから考えていた言葉を素直に告げれば、男性はまた「成程!」と大仰に頷いて、勢い良く振り返る。花が咲いたような笑顔を浮かべて「本当だ!」と口にした。この流れさっきと同じだ。

「すみません、見当違いな質問しちゃって」

「……いえ、お気になさらず」

余所行きの笑顔を貼り付け、思わずそうですね、と出かけた言葉を飲み込んだ。

これで会話が終わる、と思った私の考えは浅はかだった。

「しかし雨、止みませんね~もうずっと降ってる気がします」

「まだ十分(じゅっぷん)くらいだと思うんですけど……」

「えっ、本当ですか? 僕の体感だともう一時間は降ってる気がします」

「一時間は流石に……」

「じゃああれかな、僕が雨雲と同じ方向に走ってきてしまったのかあ」

いつまでこの不思議な人と会話をしてなきゃいけないのか。というか走ってきたって何。一時間も雨に打たれながら走ってきたの? ここまで? 突っ込み所が多すぎる。

「……変わった人ですね」

そう零れた自分の声音は疲労感をたっぷりと含んでいた。

「はい! よく言われます!」

私と対極的な男性は、名前を呼ばれた子供のように元気よくそう言って満面の笑みを浮かべた。













そういえばこの通りで不思議な人と出会ったんだった、と乾ききったアスファルトを見て思い出す。

あの人は元気だろうか、なんてただ少し会話しただけの他人に冗談で思いを馳せてみた時だった。

昨日の男性が、猫と共にいる。正確に言うと、猫が男性を連れている。

状況が飲み込めなくて思わず立ち止まり、真剣に考えた。でも明らかにあの男性は猫に連れられている。

「……いや、一体どういう――」

大真面目な顔をしていた男性が、ふと私の方を見た。しまった、もう終わりだ。

「こんにちは! またお会いしましたね!」

ほら、笑顔を浮かべて手をブンブンとこちらに振ってくる。いたたまれなくなって、知り合いでもないのに小さくこっちも手を振り返してしまった。男性はそれが嬉しかったようで、一度目を丸くしてからはにかんだ。連れられていた猫にしゃがみこんでお礼を言い、昨日よりも軽やかにこちらへ走ってくる。

「良かった」

「良かった……?」

「偶然道端であの猫……あ、いや、猫様とお会いしまして」

「はぁ……」

相も変わらず真面目な顔をして微妙に訳の分からない言葉を言う。呆れているとも取られそうな返事をしてしまったのだけど、男性は状況説明に必死なようで、何も言ってこなかった。

「おはようございますとご挨拶して、そうしたらあの猫……様が歩き出しまして」

まあ、そこまではよくあることだろう。いや猫を見掛けたからって一々挨拶――する人はするか。

「これはきっと良い所に連れてってくれるんだ! と思ってあの猫……様に着いてきたら、あなたと会えました」

急に優しい笑みを浮かべられたものだから、思わずびっくりして仰け反りかけたのを堪えた。

「えっ……と」

まず表情に驚いてしまったけれど、それよりもやっぱりよく分からないことを言っていたような。なぜそんな思考に至ったのだろう。

「だから感謝しないと。あの猫、様っには」

「……あの、さっきから普通に猫に様付け忘れかけてるのにわざわざ付け直す必要ありますか……?」

ずっと気になっていたことを聞いてみれば、

「勿論です! あの猫様はこんな良い所に連れてきてくださったんですから!」

とチューリップのような笑顔を咲かせた。

「良い所……って言っても、ここただの商店街ですよ。良い所なんて何も……」

「ありますよ~! 言ったでしょう? あなたと会えたから良かった、って! 俺ずっとあなたに会いたかったんです!」

「……えっと、失礼ですがどこかでお会いしていましたか……?」

「はい! 昨日そこの本屋で会いましたよ?」

「いえそういうことじゃ……え、昨日たまたま会っただけの赤の他人ですよね? 私たち」

私に会いたかった、と思う理由が彼にはないはずなのだ。何か貸した訳でもないし、じゃあ実は知り合いだったのか、と考えたけれどそうでもないらしい。だから心底不思議に思いながら聞いてみたら、本人はあっけらかんとしていた。

「俺あなたのことが好きなんです」

「……は?」

「何か問題が?」

「いやありまくりだと思うんですけど。どこで好きになるんですか」

「昨日俺に優しくしてくださいましたから」

「ただ話し掛けられたから相手してただけなんですけど……」

駄目だ、本当に思考回路が理解できない。

話しただけで優しい、好きですっておかしくないか。

「……ごめんなさい、昨日から思ってたんですけど私あなたの言うことが本当に理解できなくて……もっと詳しく話してくれませんか?」

頭に手をやりながらそう言った。そう言うしかなかった。猫に連れられていたような他人にいきなり告白されて、恋愛経験が豊富だとは言えない私は戸惑っていたのだ。

「詳しく……ですか。簡単なことだと思うんですけど……」

あなたの言っていることが理解できない、なんて結構な文句だと思うのだけど、彼は何も嫌がることはなく、むしろそんな私を不思議がっていた。

「えーっと、昨日あなたが俺とお話してくれました。だからあなたは優しい人です」

「いえあのまずそこから理解できなくて、なんで話しただけで優しい人認定になるんですか?」

なんとか思考を追い付かせたいという気持ちから、無理やり言葉を遮って質問してしまう。それでも彼は怒ることなく、ただきょとんと首を傾げた。

「だって話してくださらない方もいるじゃないですか。だからといって話してくださらない方を優しくないとは思いませんけど、でも気になっている人に話しかけて、その人が返事してくれたら嬉しくて優しい、ってなりませんか?」

「なりませんね……あとその気になっている人、って……? 本当に、昨日初めてお会いしたんですよね……?」

「はい! それは紛うことなき事実です、俺記憶力だけはいいので。気になっている人……は気になっている人ですよ? だってそこに人間がいるんですから、気になるでしょう? この人はどんな人なのかなーとか、なんでここにいるのかなーとか。あ、動物でも無機物でも気になりますけど」

「…………」

理解したいと思ったのが間違いだったかもしれない。

聞けば聞くほど頭がこんがらがってくる。いっそこの人は宇宙人なのかもしれない。私は実験でもされているのだろうか。

「……えっと、つまりそこにいたから気になっただけで、そういう意味……ではないんですね? その、好きって言うのは……」

彼は意味不明な言葉を量産する癖に、相手に対する物分りだけは良いようで、言葉少ななあの説明でも私が何を言いたいのかすぐに理解してくれた。

「えぇ、まあそうですね」

「…………」

いきなり告白されたと思ったら、その好きは人間愛の方でした、と。なんだろうこの展開、一瞬でも勘違いしかけた私が馬鹿だと思うし、そうじゃなくて良かったという安心感もある。もうめちゃくちゃだ。

「じゃ、じゃあ私と会えて良かった……んですかね……?」

「はい!」

「ならこれから昨日みたいにお話でもするんですか……?」

「いえいえ、今日はもう十分(じゅうぶん)です、ありがとうございました」

「は?」

「こう見えても俺、忙しいんです!」

ドヤ、と自信ありげな表情を浮かべれば片手を上げ、「では!」と言い残すだけ言い残して呑気に鼻歌でも歌いながら彼はどこかへ歩いていった。

「…………」

なんなんだろう、本当に。占いでも見でおけば良かった、と思った。まるで台風のような人だった。

二度と会わないことを切実に願いつつ、用事を思い出せば食材を買いにスーパーへと足を急がせた。











「あっ、こんにちは! 待ってましたよ!」

「…………」

それから、私は彼と何度も遭遇した。私の目的地などあの通りで完結していて、なぜか彼が通りで待機していたらしいからだ。

もう疲れるのも疲れてきた気がして、一週間を超えたあたりからとっくのとうに諦めていた。

この日は通りから少し足を伸ばして、私のお気に入りだったカフェに来た。今思えば、なぜ落ち着いたこの場所に喧しいの化身みたいな人を連れ込んだのか自分自身の行動に理解ができないが、その時は彼も流石に、いつもよりは静かにしてくれていた。

「そういえば、どうして昨日は来てくれなかったんですか? 俺ずっと待ってたのに」

突然頬を膨らませて拗ねたように言う彼。

もはや私は友人と喋る時となんら変わりない、他人にしては冷たいテンションで応じていた。

「来てくれなかったって……わざわざ他人の為に家出る訳ないじゃないですか。っていうか本当にいつもあそこにいますね」

意味もなくコーヒーをスプーンで回す。カラン、とスプーンとカップが軽く接触した音が響いた。

「はい、猫が導いてくれた場所なので。あなたと会えた場所でもありますし」

「もう猫は猫になったんですね」

「あっ」

指摘すれば、彼は慌てて「猫様です!」と言い直した。

「お、怒られますかね……」

「祟りとか受けるんじゃないですか?」

「いえ祟りはないと思います」

「……」

話している内に分かったこと。それは彼は私と同じ人間だった。本気で宇宙人か何かかと思っていた私には、そんな当たり前のことですら安心する要素となっていたのだ。だが同時に、言葉が通じない人間ほど怖いものはないとも思い知らされた。あとは、言動は意味不明だけど、ちゃんと理にはかなっている。驚くほどの楽観主義者であるだけで、空気は読むし非科学的なものは否定してくる。だからこっちがファンタジーに合わせてやろうとすると、向こうから現実を見ろと引き戻されてしまうのである。その時だけはなんとも複雑な気持ちになるのだが、まあ決め付けるこっちも悪いのだろう。だからそんな時は、手持ちの飲み物を一口飲む。

――彼には「他人の為にわざわざ家を出たりしない」なんて言ったけれど、流石にあれだけ会ってしまえば、会わない確率の方が低いとは分かっていたのだ。だからあれから用心として、口直しの為の飲み物を持参して出かけるようになった。ついでに言えば折り畳み傘も、あれから一日だって忘れたことはない。少なからず彼から影響は受けていたりするのだ、癪な気もするが。

「あの、ここって紅茶あったりしますか……?」

珍しく、彼が何かに遠慮するようにそう小さく聞いてきた。

「あるにはありますけど……もしかしてコーヒー、苦手でした?」

「いえ、苦手……ではない、んです。紅茶の方が限りなく好きなだけで」

「……苦手だったんですね。すみません、聞きもせず勝手に連れてきてしまって」

「いえいえそんな! あなたのお気に入りの場所に来られて嬉しいです」

「『好き』だから?」

「えぇ」

人間として、ね。

ある程度フィーリングで彼の言葉が何を意味しているのか分かってきたけれど、この人間愛については正直まだ分からない。友人や恋人のことをもっと知りたい、と思うことはあるけれど、すれ違った人のことを知りたいだなんて微塵も思わないから。一々興味を覚えるには人間の数が多すぎる。

「一口貰ってもいいですか?」

「え、嫌です。……何をですか?」

「断ったあとに聞いてくるんですかぁ……? その、あなたのコーヒーを一口貰おうと……」

「コーヒー苦手だって言ってたじゃないですか」

「そうですけど……今飲んだら変わるのかもしれませんし!」

「なら同じの頼むんで、新しいのを飲んでください」

「じゃあいいです、あなたの飲んでいるものが飲みたかったので」

「……それ、普通に気持ち悪いですよ。少なくとも女性には言わない方がいいです」

「えぇっ」

この人は人間相手ならみんなにこうするのだろうか。随分と心に余裕がある人だ。そう思いながら飲んだ一口は、なぜかさっき口に含んだものよりも苦く感じた。











「あなたの得意不得意も大体分かってきました!」

「そうですね……」

なんで今私は公園のベンチに深く腰掛けているのか。それはたまたま通りかかった公園で、彼が子供に絡んでいたからである。声を掛けてみればその子供は全くの他人、自分も一緒に遊んでほしいからそう頼んだとか親が聞いたら発狂レベルの不審行為をしていた。慌ててその場を収めたら彼が膨れてしまって、それからなんでか私が一緒に遊ばされた。鬼ごっことか何十年ぶりだろう。久々の全力で体を使う遊びに疲れ果てて、今。彼は汗をかきながらもやっぱり満開の花火みたいな笑顔でいる。

「あなたは影を見つけるのが得意ですね!」

「下ばっか見て生きてますからね……それを言うなら、あなただって色鬼めちゃくちゃ強かったじゃないですか。七割ぐらい虚空を掴んでましたけど、あれされたら誰だって勝てませんよ」

「ズルはしてませんからね!」

「そうですね……したくてもさせてくれませんでしたからね……」

「でも、最初俺が太陽光を指さした時のあなたの顔、可愛かったです」

「面白くてすみませんね」

「可愛かったんですよ、面白いなんて言ってません」

そうなのか、と普通に思ってしまった。彼の中の可愛いとはそういうことだと勝手に紐付けていたから。くたくたになりながら空を仰ぐ。遠くの方にオレンジ色の欠片が見えた。もうすぐ夕方になりそうだ。一体何時間あぁしていたのだろう。

「……俺、嬉しかったんですよ。初めてあなたから声を掛けてくれたから」

「……声を掛けることは今までもありましたよ?」

「そうじゃなくて、えーと……今までは俺があなたに会いにいってました。でも今日はそうじゃなかった。無視すれば良かったのに、あなたは俺に自分から関わってきてくれました」

いつものどこか子どもっぽさを帯びた言い方とは違う、落ち着いた声音に驚いた。目線を彼に少しやると、真面目な顔にうっすら笑みを浮かべた表情の男性がいた。

「……あなたが下手したら通報一歩手前のことしてたからですよ」

「でも下手したら、俺に巻き込まれて他人のあなたも通報されてたかもしれませんよ?」

「……」

言われてみればそうだ、『他人』なんだから関係ない顔して通り過ぎてれば良かったんだ。

なんで声を掛けたんだろう。そもそもこんな普段来ない公園にまで足を運んだのは、いつもの通りに彼がいなかったから。

「…………」

なんでこういう時だけ黙るのか。いつもなら緑が綺麗ですね、なんて意味もない言葉を吐いているだろうに。嫌でも考えてしまう。

手に何かの感触を感じて、ハッと目線を移せば落ち葉が手の甲を掠めていた。

「なんだ、落ち葉……」

「なんだと思ったんです?」

少し笑いながら彼がたずねてくる。

「……そうですね。人の手だと思いました」

「人の手? 空から?」

「なんでか震えてる人の手かと」

彼が息を飲んだ音が聞こえて、それからはうるさい蝉の鳴き声しか耳に入ってこなくて。時々遠くの方から車の走る音がした、住宅街だからか人の声も。お互いの声はずっと聞こえていないのに。

「……手を」

酷く震えた声が聞こえた。

「手を、握ってもいいですか」

「……どうぞ」

震えた指先が手の甲に触れた感触がした。それから遠慮がちに男の人の手が重ねられて。少し汗ばんでいたのに、不快感なんて微塵も感じなかった。

それから間もなく日が暮れて、ただ積もった落ち葉を見ていた。

「……次、会った時は――」

「あなたのことも教えてください」

「……え?」

「私のことは沢山分かったんでしょう? なら次はあなたのことを教えてください」

「……そうですね、勿論」

「じゃあ、まずは名前を」

「……はは、そうですね、そうでした」

「約束です」

子供のように小指を絡めて口約束をした。大人の口約束なんて守られる気はしないのだけど、この人はこっちの方がいい気がした。

まっすぐに目を見つめてみたら、彼は目を丸くして見つめ返してきた。けれどすぐにふい、と目線を逸らして、瞼を少し伏せる。

「照れてます?」

「照れてないです!」

横に座っているんだから、耳が真っ赤なのはバレバレなんだけど。面白くって少し笑ってしまって、彼は何か言い返そうとしていたけれど、結局微笑むだけで何も言わなかった。

この日初めて、

「じゃあまたお会いしましょう」

と口にした。ずっと「会えるといいですね」とは言われていたけれど、自分から次を望むような言葉を別れ際に言うのはこの時が初めてだった。











耳の奥がうるさい。傘も忘れてびしょ濡れになりながら座り込む私を、奇異の目と好奇の言葉で突き刺す人で溢れていた。

走馬灯のように流れる記憶に吐き気がする。

黄色い境の向こう側では壮年の女性がさっきまでの私と同じように泣き崩れていた。私だけじゃ、ない。

警察官らしき人から声を掛けられた気がした。

力の入らない首を動かせば、その警察官は、

「関係者の方ですか」

と口を動かした。


――嫌な予感に走り出したのは、あの時のように雨の降る中軒下にいる時だった。

「聞いた? あそこの通りの事故の話」

「聞いた聞いた! 凄かったんでしょう?」

「でも言っちゃなんだけど……放っておけば良かったのにね。可哀想だとは思うけど、猫一匹のために命投げ捨てるとか私にはムリ」

そういえば猫に連れられていた男性がいたな、とぼんやり考えて。

「そこのカフェあるじゃん、あそこに俺の彼女が働いてんだけどさ。そこに、あの事故の被害者来たことあるんだって」

「うわ何それ」

「変質者だったって噂もあるらしいし、マジでこえー」

「お前彼女のことちゃんと守れよー?」

事故に遭った人は私のお気に入りのカフェにも来ていたらしい、と知って。

「ねぇ聞いて! そこの事故にあった人、うちの子供が知ってたのよ!」

「えぇ!? どうして!?」

「なんかこの前子供たちが遊んでたらね、自分も一緒に混ぜてくれとかいう変質者に遭遇したらしくて……その人らしいの!」

「変質者だったの!?」

「まぁなるべくしてなったのかしらねぇ……」

――そんな知り合い、私にもいたなって思って。

遠い所で、彼の声がこだまする。

『いつも同じ所に溜まっている猫がいるんです。いえ一匹だけなんですけど。その猫が前俺を助けてくれた猫様で。でもあの猫首輪付けてたんですよね、もしかしてと思って書かれてる住所まで猫とお散歩してたら、女性が泣きながら家から出てきて。飼い猫だったみたいです』

青いブルーシートの前にいた女性は、しゃくりあげながら「うちの子脱走癖があって」と口にしていた。

『いえ、そこまで遠い場所では。ほら、えっと……もう一つの通り、でしたっけ? 俺土地勘がないから分かんないんですけど……』

このあたりの通り、といえばいつものあの通りと事故が起きたこの通りしかない。

『あ、そうですそこです! はい! あそこ、俺のお気に入りの散歩スポットです。まっすぐなのがいいですよね。今度、あなたも一緒にお散歩に行きますか?』

直進通路だったこの通りは、交通事故が起きやすく幾つもの看板が立てられていた。



じゃあまた、と約束した二日後のことだった。



――関係者、という言葉に止まっていた思考が巡り出す。

喉に精一杯の気力を込めて、

「……いえ、他人です……」

と口にした。警察官が首を傾げたのが視界に映った。

あの時交わした自分の小指を見る。雨とも涙とも分からない水滴に打たれ続けていた。

警察官に支えられて人気(ひとけ)のない所に移動させられた私は、通りに置いてきた傘を取りに行くことにした。なんとなく軒下にいたのは、彼に会えるかと思っていたからで。

裏道を使って通りに着いた頃には雨は止んでいた。通り雨だったのだろうか。もう一時間も雨に降られていた気がしたのに。

逆さになってまだ濡れたままの黄色い傘を手に取った。水気を取る前に畳んで鞄の中に強引に詰め込めば、勢いでスマホが鞄から飛び出た。音を立てて落ちたスマホを拾い上げ、画面を確認すれば「地元の記事」なんて題名で通知が入っていた。アプリを開いてみれば、それはさっきの交通事故の記事だった。

速度違反をしていた車が人と猫と衝突した。衝突された人は二十代前半の男性で、強く頭をぶつけたあと病院に運ばれ死亡が確認されたそうだ。猫の方は重症ではあるが、命に別状はないらしい。ネットでは人が猫を庇ったのではないか、と噂され、珍妙な事件として盛り上がっている。

事故なんて毎日どこでも起きている。他人なんて毎日死んでいる。

アプリを閉じてスマホを鞄にしまった。

今日も誰かが死んだ。

今日も、自分と『他人』の人が死んだ。

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