表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

作者: MOMO

夜だった。そりゃあ夜だから真っ暗だけど、街は明るかった。

私はそれがとてつもなくいやだったし、すごく汚いものに感じた。

もしかしたらその街がめちゃくちゃにうるさくて、ごみだらけでほんとうに汚くて、ラブホテルや、夜のお店や、そういうところで人を騙してお金を手に入れている人たちがたくさいんいて、そのせいで夜通し明るかった、からかもしれない。


私は夜が好きだった。

本当に真っ暗で、虫の声すら聞こえないくらいの夜が好きだった。

海の音すら聞こえない、本当の真っ暗が好きだった。

その真っ暗な夜の中で、離れてはいるけど、少し歩けば父と母、そしておばあちゃんがいる、その夜がとても好きだったし、どきどきしたのだ。


おばあちゃんが認知症になったのは、私が中学1年のときだった。おばあちゃんは80歳をこえていた。おばあちゃんは少しずつおかしくなった。だんだん私をどろぼう扱いするようになり、持ってもいないダイヤやルビーの宝石を必死に守るようになった。いつも宝石が入った袋を手放さなかった。黒い袋だった。赤や、緑、青、白、いろんな色で花の刺繍がしてあった。


「ももちゃん」

優しい声でそう私を呼ぶおばあちゃんが好きで、昔別々に暮らしていたころは週末になると必ずおばあちゃんのところへ泊まりに行った。


私はいわゆるおばあちゃんにとっての初孫で、おばあちゃんは私をとてもかわいがってくれた。近所に住む親戚のおばさんとおじさんには子どもがいなかった。

私が怒られているとおばあちゃんはいつもかばってくれていたし、おばあちゃんが私を怒ることなんて一度もなかった。


それなのに。おばあちゃんは私に怒鳴った。


この、どろぼう猫!!

お前なんかしんじまえ!

返せ!ばかやろう!!


おばあちゃんは私に怒鳴ることもあれば、昔のように優しくしてくれるときもあった。でもそれは本当の昔のおばあちゃんに戻ったわけではなく、ふりだった。後々知ったことだけれどおばあちゃんはいつだって私を宝石どろぼうと信じて疑わなくって(宝石なんて持っていないくせに)、優しくしていたのは私を油断させる演技だったそうだ。最初は宝石どろぼうと怒鳴っているときだけが認知症の症状が出ていると思っていた。でも違ったのだ。


おばあちゃんが優しい昔のおばあちゃんに戻ることなんて、なかったのだ。これから先も、ずっと、ずっと、ないのだ。


怒鳴られながら、おばあちゃんとお母さんが毎晩顔のしわに塗りたくっているアロエのクリームを缶ごと投げつけられながら、私はいつか出て行ってやる、いつか施設に入れてやる、いつか、ぶん殴ってやると思っていた。


いつか、いつか戻ってよ、おばあちゃん。


おばあちゃんはお父さんのお母さんで、おじいちゃんは私が生まれる前に病気で死んだ。いつも優しいおばあちゃん。お母さんともびっくりするくらい仲が良くて、いつも寝る前におそろいのアロエのクリームを塗っていた。よくふたりで台所に立ち、ふきの煮物や、紫いものてんぷらを作ってくれた。


「ももちゃんがもう少し大きくなったら、お料理やお裁縫を教えてあげるから」

小さいころはよくそう言われていて、小学校中学年ごろから少しずつお母さんとおばあちゃんに色々なことを教えてもらっていた。私はおばあちゃんが大好きで、誇らしかった。いつも優しくて、私の味方になってくれて、お小遣いをくれるおばあちゃん。絶対に怒らないおばあちゃん。料理が上手なおばあちゃん。


夏、寝苦しい夜なんかはおばあちゃんとござを持って海へ行った。

砂浜には下りないでコンクリートにござを敷いて寝ころんだ。おばあちゃんはおばあさんなのに夜更かしが好きだった。大みそかに私が眠そうにしているなか、さあももちゃん、神社に行きましょう。車の中で、初日の出も見ましょうね、なんて言っていた。


おばあちゃん。優しくて、いつだって私の味方でいてくれたおばあちゃん。


私はお父さんやお母さんに、お願いだからおばあちゃんを施設に入れてくれと頼み込んだ。いつかおばあちゃんをぶん殴ってしまうと思ったから。何より、あの優しいおばあちゃんに暴言を吐かれるのが、クリームのふたを投げつけられるのがつらかった。だけどおばあちゃんは施設に入れられなかった。どこの施設も満員で、空きを待っている状態だった。おばあちゃんよりも認知症の症状が重い人や、病気で体が麻痺している人、そんな人たちが優先される。おばあちゃんは認知症と高血圧以外は至って健康なので、いつ入れるかわからないというのがお父さんのいつも決まった答えだった。

お母さんもお父さんも、おばあちゃんは認知症なんだから、というのが口癖になっていた。その言葉は私の体全体に広がっていって、どんどんどんどん奥深くまで入っていって、とれなくなった。それは絨毯についてとれなくなったコーヒーのシミみたいだった。落とそうと思って擦れば擦るほどしみこんでいった。じわじわと私のからだに言葉がしみこみ、私をどんどんおかしく、壊していった。


街灯のない町の、海の底の本当の真っ暗よりも真っ暗な日々だった。

もう何十回目になるおばあちゃんからの宝石どろぼう!と、アロエクリームのふたが私のからだにどかんとぶつかった。ぱあんと、はじけた。


気が付けば私は電車に乗って遠くの夜の街にいた。

ネオンがぴかぴか光っていて、ごみがたくさん落ちていて、派手な服を着たけばい化粧の女や目つきの悪い男たちがたくさんいた。めちゃくちゃに明るくて、めちゃくちゃに汚い街だと思った。


私の手には、おばあちゃんを殴った感触がはっきり残っていた。


言葉は何も出なかった。ただ、右手で、ばちん、や、ばしん、よりは、どん。といった音がしたように、殴った。

おばあちゃんは大きな音を立ててしりもちをつき、私はその音ではっとした。

だれかあ、だれかあああ。

ものすごく大きな声だった。近所中に聞こえていたはずだ。耳の奥が痛くなる、きいいん、となるようなとてつもない大声でおばあちゃんは泣き叫んだ。

ころされる、ころされるう―――

こいつ、本当にころしてやろうか。


そう思ったとき、ぴりりりり、と電話が鳴った。家の固定電話だった。警察だと思った。今のおばあちゃんの大声を聞いた誰かが警察に通報して、だから警察が家にかけてきたんだ。お父さんは仕事で、お母さんはどこかに出かけていた。

おばあちゃんはまだ叫んでいて、私は制服のまま、外に駆け出していた。

警察は、追ってこなかった。


黒いスーツを着た目つきの悪い男たちや派手なけばい女たちは私の方をちらりと見るだけですぐに何もなかったようになった。道を歩くサラリーマンに声をかけていた。

お兄さん、キャバクラ、どうっすか。安くしますよ。カワイイコたくさんいますよ。

なんて下品な人たちだろうと思った。けばい女たちも同じようなものだった。

おばあちゃんがよく言っていた。夜の街は、怖いから、行っちゃだめよ。もし行ってしまっても、知らない人に話しかけられたらすぐに逃げるのよ。おばあちゃんの顔は真剣だった。

おばあちゃん、誰も話しかけてこないよ。だけど、ここは夜なのにうるさいよ。ぎらぎら明るくて、人がたくさんいて、もやもやした何かが空気の中に混ざっている。本当の真っ暗も、海の音も、おばあちゃん、お父さん、お母さんがいるという安心感もどこにもなかった。きっともうお母さんもお父さんも帰ってきてて、おばあちゃんの取り乱した様子にびっくりするだろう。おばあちゃんはきっと、宝石どろぼうに殴られたんだとわめくだろうし、お母さんは泣き出すかもしれない。お父さんは落ち着いていながらも怒っていて、私を探しに来ると思う。もしかしたら、おばあちゃんを施設に入れてくれるかもしれない。いや、施設に入れられるのは、私の方かもしれない。


優しいおばあちゃんが、恋しかった。


「おばあちゃん」

はあい、なあに、って言って。返事をして。こっちを向いて、笑って、ももちゃん、って呼んで。海に連れて行って。優しいおばあちゃんに戻って。どろぼうなんて言わないで。おばあちゃん。おばあちゃん。おばあちゃん。


「おばあちゃん!!」

派手な男や女たちがぎょっとするのがわかった。何だこのやろう、と思った。お前らがおばあちゃんをおかしくしたのかとも思った。


許せなかった。優しいおばあちゃんを奪った認知症っていう病気も、ありもしない宝石も、助けてくれないお父さんもお母さんも、おばあちゃんを入れてくれない施設も、夜なのに明るいこの街も、ここにいる派手な男や女たちも、私に怒鳴って、クリームを投げつけて、必死に黒い袋を抱きしめるおばあちゃんも、


おばあちゃんを殴った自分も、許せなかった。


「おばあちゃん!おばあちゃん!おばあちゃん!おばあちゃん!」


必死だった。私が小さいころ転んだり意地悪されたりしたとき、大声で泣けばおばあちゃんが飛んできてくれていた。いつだって私の味方で、私を助けてくれた。おばあちゃん、夜の街に来てしまったよ。ここは本当の真っ暗じゃなくてぎらぎらぴかぴかしていて派手な人たちがたくさんいる。海もない。お父さんもお母さんも助けてくれないよ。おばあちゃん。おばあちゃん、助けて。









気が付けば、家にいた。

あの派手な人たちなのか、誰なのかわからないけど半狂乱に顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしておばあちゃんを呼ぶ私はそれは異常だったんだろう、警察を呼んだらしい。私は保護されて、お父さんとお母さんが迎えに来て、その間おばあちゃんは親戚のおばさんが見てくれていたようだった。家で、親戚のおばさんに肩を抱かれていた。おばさんも、お母さんも泣いていた。とんでもないことをしてしまった、と思った。

お父さんにはたたかれるだろうし、お母さんは泣いているし、きっと私は暴行の罪で、でも未成年だから逮捕はされないだろうから少年院に入れられるかもしれない。いや、もしかしたら暴行では済まなかったのではないだろうか。おばあちゃんの姿が見えなかった。いつもみたいに部屋にいるかもしれないけど。お父さんもいない。もしかしたらあの後打ちどころが悪くておばあちゃんは死んでしまっていて、私はいなくなっていて、誰かが叫び声を聞いて警察に言って…

娘が殺人犯だなんて。おばあちゃんをころしたなんて。頭が真っ白になるどころか、白くなって霧になって消えてしまいたいくらいだ。



「ももちゃん、ごめんね」

くすん、と鼻を鳴らしおばさんが言う。


「ももちゃんがこんなに苦しんでたなんて…おばさん仕事が忙しくって兄さんたちにお母さんのこと任せっきりで、まさかお母さんがももちゃんにそんなつらく当たってたなんて思いもしなかったの。お母さん、ももちゃんのことすごく大事にしてたから。初孫だって」


どういうことだろう。思考がついていかなくて、下げたままの頭を上げることが出来ない。「もも」

お母さんの声がする。おばさんが私の肩を抱いていて、その隣にお母さんも座っていた。

「もも…ごめんね。お母さんたち、ももをちゃんと守ってあげればよかったね」


顔を上げる。やっぱりおばさんとお母さんは泣いていて、目の周りは真っ赤で充血もしていて、鼻をすんすん鳴らして、悲しそうだった。私、おばあちゃんをころしちゃったの?


「おばあちゃんはね、何にもけがしてないよ」


きん、と何かが心に刺さってすとんと落ちてじわじわしみこんでいった。コーヒーのシミみたいに厄介なものではなくて、絨毯に透明の水が落ちて繊維が水分を吸いこんでいくようだった。拭けば乾くし、色もつかない。すぐに消えてしまう、安堵感。


怒られることも、たたかれることも、少年院に入れられることも嫌だ。怖い。でも、しみこんだ水はたしかにあって、おばあちゃんは生きている、けがなんてしてないんだ。


ぼろぼろとよどみなく涙が流れてきて、わんわん声を上げて泣いた。お母さんが一瞬驚いた顔をして、おばさんをとびこえて私を抱きしめてきた。痛くて苦しいくらいで、おばあちゃんを殴ったことや、もう治ることのないとわかっている認知症のおばあちゃんを受け入れられなかったことを、元のおばあちゃんに戻ってほしいと願ってしまったことを責められた気がして、もっともっと、大声で泣いてしまった。


おばあちゃんごめんなさい。殴ってごめんなさい。受け入れられなくてごめんなさい。元のおばあちゃんに戻ってなんて思ってごめんなさい。


がちゃん。と音がした。

テーブルの花瓶が落ちていた。絨毯に花瓶の中の水がしみこんでいた。

ばしんばしんと音がする。おばあちゃんがお母さんをたたいていた。


「お母さん何するの。やめて」

「何してるんだ。やめなさい」


おばさんがお母さんと私をかばうようにして、お父さんが後ろからおばあちゃんを抱え込んだ。おばあちゃんは鬼みたいな顔をしていた。宝石どろぼうと言っていたときよりも、もっと恐ろしい顔だった。私のことを怒っているんだ。


「ももちゃんを泣かせたのは誰だ!私の孫に何したんだ!」


おばあちゃんはさっきの私みたいに、夜なのに明るい街で叫んでた私みたいに、叫んでいた。お父さんの手を振りほどいて、おばあちゃんが私のところへ駆け寄ってきた。

しわしわでがさがさの、到底宝石なんて似合わない手で私の頬を撫でる。


「ももちゃん怖かっただろう。こんなに泣いてかわいそうに。大丈夫だよ。もうおばあちゃんがついてるからね」


おばあちゃんも、泣いていた。しわしわのシミだらけのかさかさの皮膚にたくさんたくさん、涙がたれていて滑稽だった。

おばあちゃんはたまに優しくなる。これも「宝石どろぼう」の私を油断させる罠かもしれない。


「おばあちゃん!」


罠でも、数分後にまた怒鳴られても、クリームのふたを投げつけられても髪の毛を引っ張られてもよかった。おばあちゃんに抱きついて、おばあちゃんの服にしみこんだにおいをかいで、わんわん泣いた。かわいそうに、かわいそうにと言うおばあちゃんの優しい声が心地よかったし、これがいつまでも続かないことも、もしかしたら今夜限りの奇跡かもしれないこともわかっていた。


でも私は本当に恋しかったのだ。明るい街で、自分が殴り飛ばしたおばあちゃんに助けを乞うくらいには。






数か月後にようやく施設に空きが出来て、おばあちゃんは老人ホームに入所することが出来た。あの後おばあちゃんに抱きつきながらいつの間にか眠っていて、朝起きたら「宝石どろぼう!」とお味噌汁を投げられた。

あの日からおばあちゃんが優しくなることはやっぱりなかったし、罠すらなくなってしまったけど、お父さんとお母さんがそのたびにいさめるようになったり、たまに私はおばさんの家に泊まったりしておばあちゃんと離れる時間が出来たりした。


お父さんもお母さんもあの日のことを話すことはなくて、ただ、「ごめんね」と言うばかりだった。誰も私のことを責めなかった。おばあちゃん以外は。宝石なんて、盗んでないけど。おばあちゃんが施設に入るまでの数か月間、お父さんもお母さんも誰も、「認知症なんだから」を言わなくなり、私のシミは薄れていった。あのとき恋しかった記憶も、おばあちゃんに抱きしめられた感覚も、するする抜け落ちていってもうすぐ消えてしまう気がする。


おばあちゃん。


このきれいな記憶は、おばあちゃんみたいに私も忘れてしまうのだろうか。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ