1 暗い空、後に雨
見ていただきありがとうございます。
枝を折り、落ち葉を踏みしめ、草を掻き分けながらノイレは進んでいく。耳を澄ませ、当たりを見回し、血の臭いを嗅ぎ分ける。早く早く獲物を狩らないと。
儀式の動物は目印があるようで、耳に黄色の札がつけられているそうだ。ノイレは獲物を見つけるため、耳を澄まし、目を光らせる。木に、地面に、草むらに、痕跡を逃してしまわぬよう。
ふと窪んだ土が目に入る。自分の足の倍近くあるそれは、人間のそれではない。
(足跡……これは四足獣か。東側に行ったみたいだ…)
手がかりが見つかったことに安堵し、足跡を追っていく。大分新しいものだからすぐに見つかるだろう。頬を叩いて気合いを入れ直したノイレは、血眼になって獲物を追った。
「はぁ、はぁ――足跡だけが残ってる。速すぎるのか」
獲物は影すら見せてくれなかった。獲物はおろか、一匹の動物すらいない。足跡は確かに続いているはずなのに。立ち尽くすノイレに湿った風が吹き付ける。
空は暗い灰色だ。天候が悪くなる前に早く見つけないと。一向に姿を現さない獲物は、苛立ち、もどかしさ、焦り、そして不安をノイレの心に溜めさせていった。
新たな獲物の手がかり、それに姿さえつかめずに足跡だけを頼りに進んでいく。終わりの見えない作業だ。しかも、心配していた雨が降ってきた。これでは痕跡が消えてしまう。ノイレはペースをぐん、と上げた。
こちらの事情など知りもしない、非情な雨は、段々勢いを増していく。徐々に水溜まりが出来始め、足跡がどんどん水に侵食される。こうなれば、獲物の首を取ってくるなんて失敗に終わるだろう。
泥水を靴やズボンに跳ねさせながら、ノイレは走る。獲物の足跡を追って、辿り着いたのは――
「っ! 危な…」
蹴飛ばした小石が跳ねながら加速し、木にぶつかる。
そこは、あまりにも急すぎる坂だった。断崖絶壁という言葉が似合いそうな程に。降りれなくはない坂、だけど絶対にどこかしら怪我をする。
(ここまで来たのに諦める…? だけどこんな山奥で怪我をしたら誰かが助けてくれる保証は無い。かなりの遠回りになるが迂回しよう)
踵を返した瞬間―――ずるり、と地面が、いや自分が後ろへ滑っていくのを感じた。ほんの少しの浮遊感と、後ろが見えない恐怖。咄嗟に体を丸めて怪我を最小限に抑えようと試みる。
木々の枝に落ち、そこから地面に落下し坂を転げ落ちる。奇跡的に岩に当たらずに下まで落ちたかと思うと、木に背中からぶつかった。この肺から空気が抜ける感じ…どこか、で、苦しい。
咳き込み、呼吸を整えて、辺りを確認してみる。
(落ちたところが見えない…大分下の方まで来てしまったようだ)
あれほどの坂を転げ落ちたのに、幸いどこも大きな怪我をしていない。立ち上がり、どこか雨宿りする場所を探そうとしたその時、ぶわっと鳥肌がたつ。
おぞましい、殺気のようなどす黒い気配。もしや獲物かと思ったノイレは木を背にしゃがみ、辺りを見回す。何も変わったところはないし、雨のせいで音も臭いも分からない。目だけが頼りだ。
様子を窺うこと数分。安全であると判断して、行動を再開する。獲物よりも汚れた服をどうにかしたい。それに寒い。洞穴でも小さい穴でもいいから、あってほしい。
鬱陶しい雨粒を拭いながら、雨宿りできる場所を探す。早く見つけなきゃ風邪引く。見つかれ、見つかれ。竜神の捨て子、そう言われ続けてもなお、僕は神に祈ってしまった。
僕を哀れに思ったのか、願いは神に届いたようだ。歩いて数分のところに奥行きのある洞穴があった。中には、昔ここに来た誰かが置いていった木々が有ったので、それを使うことにした。火を吹いて焚き火にする。
竜族は火を吹ける器官を持っているが、昔に比べれば威力は落ちているらしい。……ヴァイスのように、自由自在に操ることが可能なのだ。
(暖かい、服も洗って乾かしておこう)
川が見当たらないので、服をどしゃ降りの雨で洗うことにする。雨水は汚いと自分でも思うが、泥や葉っぱがついたままは流石に無理だ。それなら雨水で洗う方がましである。
焚き火に当てながら服を乾かす。意外と水分が飛び、着ても気持ち悪いと思わないほど乾いた。どうせまた濡れるだろうが気にしない。こういうのは気持ちの問題なんだ。
ぱちぱちと木々が鳴り、火の粉が舞い上がっては宙に消えていく。ゆらゆらと燃える炎は、ノイレの心の中の焦燥感を忘れさせ、温かさも相まって眠気を誘う。
(このまま寝てしまおうか……)
雨が止まないと僕は行動がとれない。それに、豪雨が降る中で獲物を見つけられる可能性は、ゼロに等しい。それなら雨が上がった後に探す方が賢明だろう。わざわざ危険を冒す必要はない。
……と自分を正当化していく。早く見つけた方がいいのに、手がかりが消える前に探すべきなのに、儀式を成功させないといけないのに。どこか獲物を倒すのを諦めている僕がいる。村から追放されたい訳じゃないはずなのに。
――本当にそう思っているのだろうか
一瞬熱さを忘れた。否定しようとするも、考えだしたら止まることが出来なかった。
母さんたちには罵声を浴びせられ、村の人にも嫌悪を剥き出しにされて、ヴァイスには暇潰しに背中を焼かれた。思い出せば出すほど、村がいい場所には思えない。
――でも、儀式を成功させれば変わるかもしれない
本当に?
母さんたちは僕が弱いことも嫌がっているし、僕が竜神の捨て子だから遠ざけているのもある。僕が儀式を成功させても、結局何も変わらないかもしれない。
「……もう考えるのはやめよう。明日はとにかく一匹狩る。大丈夫、狩ればなんとかなる。大丈夫」
矛盾と不安でぐちゃぐちゃな心が、宙に消えて行く火の粉のように無くなればいいのに。
心地よい雨の音に、丁度よい暖かさのある火がノイレの意識を微睡みへと落とさせた。
読んでくださりありがとうございます。
ノイレはすっごい後ろ向きな子です。安心させたい。