0 始まり
「はぁっ――はぁ、はぁッッ!!」
霧が立ち込める森の中。木々の間を縫うように走り、化物の目をくらまそうと試みる者が一人。彼女は足裏を血だらけにし、泥まみれになりながら、死に物狂いで逃げ続けていた。
化物の名は『狂鹿』ここ半月、この森で野性動物を食い荒らしている、死してもなお狩り続ける屍だ。
肉が腐り落ち、骨が見えようとも、奴は生き物を追いかける。何度も何度も木にぶつかって、距離が開いたとしても、臭いで、音で、振動で、追いかける。狙った獲物は逃さない。その身が動きを止めるまで。
(無理無理無理――あの化け物の首を取るか、逃げ切るか、なんてどちらも出来ない。無理難題すぎるよ母さん!!)
この状況は彼女の親によって作り出されたものだ。死と隣り合わせな場所へ送り込んで強くするために。彼女はやり方が間違っているんじゃないかと、化け物に殺されける度に思う。
―今も、あの時だって。
骨が折れて、血反吐を吐いて、反撃はおろか逃げることさえできず、ただ蹂躙されるのを眺め続けるなんて、そんなの――
思考に気を取られていたせいか、木の根に引っ掛かり転んでしまった。咄嗟についた掌に擦り傷が出来る。だがそんなことはどうでも良かった。あの化物に追い付かれる――殺される!!
急いで立ち上がろうとしたノイレの横腹に、凄まじい衝撃が走る。少し転んだだけ、それなのに奴が追い付いたのだ。鈍く響いた音と同時に口から血が吐き出される。飛ばされた体は宙を舞い、木にぶつかった。
(痛い痛い、絶対折れた。今度こそ、死ぬ)
何度見たか分からない、霞む視界、徐々に暗くなり行く景色。息が吸いにくくなり、気を失う最後、地面の枝が折れる高い音と、化物の荒い鼻息が聞こえた。
「―――イレ、ノイレ、起きなさい!」
母さんの声で意識は浮上する。考えるよりも先に体が動き、母さんに向けて姿勢を正す。脇腹が悲鳴を上げるが、庇う素振りを見せてはいけない。
痛がるなど、竜人ではない。そう教わった。
「あんな無様に突き飛ばされて恥ずかしくないの。だだの鹿じゃない。反撃もせず逃げ惑って、孤狼の時もそうだったわね。あのときだって――」
何年も前から分かっていることを蒸し返して叱るのが得意な母さん。嫌だ、と思っているが、同時に事実だからこそ心が痛む。
ノイレが産まれてこなきゃよかったのよ。
ノイレが竜神様に愛されれば弱くなかったのに。
ノイレのせいで私たちが後ろ指さされるのよ。
母さんの言葉はまるで毒針のように強力で、鋭い。刺さったときは僅かな痛み。だけどふとした瞬間に思い出すと、毒が心を蝕んでいく。
どれもこれも全て僕が弱いせいだ。竜神様に愛されなかったために、鱗を持てなかった僕のせい。
自己嫌悪に陥り俯くノイレに、母のエーレントは大きなため息をつく。
「はぁーー。聞いてるの?……まあいいわ。一ヶ月後成人の儀があるからしっかりと治しておきなさい。じゃないと私たちが出来損ないを生んだってまた言われるじゃない」
「……分かってます。母さん」
エーレントは不機嫌そうに大きな足音をたてながら部屋を出ていった。一人、ポツンと部屋に取り残された。
緊張した体をバタリと横向きに倒す。
(あと一ヶ月で成人の儀…。失敗したらと思うとゾッとする)
何でわざわざ弱い人を見つけ出して追い出すんだろうか…。
何故このような行事が出来たのか、それはノイレたちの種族というものに関係している。
種族の種類は主に人族、獣人族、妖精族、魔族、竜族、神族の六つ。より細かく分けると百は優に越えている。
ノイレたちは竜族と呼ばれる種族だ。先祖代々から力を求めて、神族を除いて、最強と言われるまで力をつけた種族。竜族は他種族の血が混じるのを避けるため、危険な山の高地に住んでいる。
だから弱いものを素早く見つけ、鍛練させて生き残れるようにするのが本来の目的だったのだが、時の流れは残酷なまでに内容を大きく変えさせた。『弱い人を見つけ出し、追放する』と。
それが今の“成人の儀”なのだ。
(それにしても憂鬱だ。何で失敗したらここから追い出されるんだろう)
天井を見つめながら、思考を巡らせた。どうにかして村から追い出されないようにしないと……
当日。今にも雨が降りだしそうな曇天。失敗したらと考えてしまうせいでキリキリと痛む腹を押さえながら、儀式の場所へ向かう。
その場所に、既に大勢集まっているようで、さっさと終わらせるだの、一番でかい奴狩ってやるだの、余裕を顔に浮かべて談笑していた。
ノイレはその輪から外れの木の下で、羨望の目を向けていた。ありもしない妄想を頭に浮かべながら、執着を滲ませながら。
「…どうして僕だけが」
突如、話していた竜人の一人がこちらに視線を送る。ノイレは慌てて木に身を隠し、何とかやり過ごそうとするが、足音が三人分近づいてくるのが聞こえる。
視線の主がやって来たのだ。
二人の取り巻きを引き連れた、緑色の鱗をした竜人が木の幹から顔をのぞかせる。その人は、酷く下卑た笑みを浮かべながら。
「お前、久しぶりだなぁ? 相変わらず辛気くせぇ顔」
聞き覚えのある、人を嘲笑う声。見つかりたくなかった、声も聞きたくなかった、顔も何もかも見たくなかった、彼がここに。
全身が震え、呼吸が乱れる。そして、背中が炙られたように痛みだす。二度と消えない痕に残る、一生忘れることのない、最悪で、悪夢のような記憶が脳裏を焦がす。
彼は、逆らうことの出来ない人を貶して蔑んで虐めて、悦に入る性根の腐った最低な人だ。だから彼は嫌い、大嫌いなんだ。
だからといって無視は出来ない。彼に逆らえばどうなるか、それは自身の背中が、トラウマと恐怖を持って僕に訴えかけていた。
「……な、何かご用ですか、ヴァイス様」
引くつく喉を無理矢理絞った返事を、元から聞く予定は無かったのか、ヴァイスは上機嫌に芝居じみた声で話し始める。
「竜神の捨て子が見れるのがこれで最後になるとは、少々つまらなくなりそうだと思ってな。だからお前が死ぬ前にもう一度あの顔を見たい」
後ずさったのを、ヴァイスの獰猛な目がそれを逃さない。
ヴァイスがノイレの手首を掴む。ノイレはその手を必死に振りほどこうと暴れるが、状況は変わらない。寧ろ爪が腕に食い込んだだけだ。
「っ止めてください、お願いします」
「一瞬だけでもいいんだ、ほら、こっち向け」
腰が抜け地面にへたりこむ。顔を背けていたが、顔を強引に引っ張られ、目が合う。金色の濁った瞳がノイレを覗き込む。
その目に映る僕は、酷く怯えていて、見覚えのある姿をしていた。震えて、涙を溢した、幼い子ども。
これは、昔の―――「違う! 僕は……わたしは、こんなの知らない、こんな、嫌だ、違う」
「違わないさ、さあ思い出せ。そして歪んだ顔を俺に」
あの時と同じように、彼は炎を口に溜めた。燃え盛る赤が轟々と肌を焼く。
地獄が肉薄する。瞬間、悪夢が脳を支配する。
熱く痛く、のた打ち回るノイレに届いた嘲笑う耳障りな声。泣いて謝って懇願しても止めてくれなかった、寧ろその度に喜んでいた悪魔の姿。
熱くて、熱くて、痛い。自分の皮膚が焼かれてく。痛い。嫌だ。
「あ、あぁぁ、いや、ごめんなさい許してください、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
勝手に目から涙が溢れる。ヴァイスの前で見せたくないのに、喜ばせたくないのに。
ノイレのトラウマを無理矢理ほじくり返して、満足したヴァイスは後ろの取り巻きに得意気に語っていく。そして取り巻きはヴァイスをおだてあげ、自らが気に入られるよう媚びへつらうのだ。
周りの人はただ、それを談笑しながら眺めているだけ。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、もう止めてください、許してください……」
壊れた機械のように謝るノイレにヴァイスは手を伸ばし、何かをしようとしたその瞬間、空気がピンと張り詰めた。
竜族の長が出てきたのだ。周りの人はしん、と水を打ったように静まり返る。
ヴァイスが族長に気付き、急いで手首を離す。族長の姿が見られた際は、必ず族長に向き合い敬意を見せなければならないのだ。
手首を離されたノイレは少し正気を取り戻し、逃げるように彼から離れる。
ヴァイスでさえ敬意を払っている族長の名は、リデラル。烈火の如く紅い鱗、力強く生える角、鱗と同じ紅い瞳。堂々としたその態度には強者の風格が滲み出す。
彼は注意が向いていることを確認すると、一つ咳払いをし、呼びかけた。
「皆はもう準備が出来ているだろう、成人の儀がこれから始まる」
静粛な雰囲気の中、息を飲む音が聞こえる。僕もその内の一人だった。
「儀式とは皆聞かされている通り、狩猟だ。この一帯には印をつけた凶暴な魔物を用意してある。その中の一匹を殺し、首を取ってこい。それが成人の証だ。もし、取ってこられなかったら――」
族長は目を細め、皆を睨む。
「ここから追放する。話は以上だ。皆が証を持ってくることを期待している」
族長は退場し、入れ替わりに武器を持った人たちが出てきた。ノイレたちは貸された武器で狩りをしなければならない。
…ついに始まる。その事実が重りとなって肩にのし掛かる。絶対出来ない、怪我では済まない、誰も助けてはくれない。だけど――
「……認めて、もらうんだ」
せめてよかったな、と頑張ったな、と言ってもらえればそれだけでいいんだ。ノイレは武器の中で無難な長剣を手に取り、森の奥へと足を進めたのだった。
読んでくださり、ありがとうございます。
突然ですが、小話をします。
ヴァイスは昔やんちゃな子供、近所でよくいる悪ガキでした。横にいた二人の取り巻きは、昔は本当の意味での友達でした。今は違うのです。