6 隣に座りたい
またこの街に陽が昇る。朝が2回来れば桐島先輩に会える。いつしか私は、朝を心待ちにするようになっていた。
「隣に座りたい」と勇気を出して書いてから、今日は初めて会う運命の日。落ち着かない心を持て余し、私はいつもの位置に陣取って、先輩が乗って来るのをじっと待つ。
(平常心……平常心……)
私は呪文のように心のうちで呟いた。周りの目がなければ、「人」という字を3回書いて舐めてしまいたいくらいだ。早鐘をうつ胸の音が、ドクンドクンと生々しく頭に響く。
通学中の読書タイムのはずなのに、今日ばかりは紙の上を目が滑り、内容なんて全然頭に入ってこなかった。
プシュー
扉が開く音がして、私は身体を固くする。ああ、時は満ちれり。先輩がどこに座るか、その結果を知るのが少し怖い。
ドキドキドキドキ
顔を上げられない私の前を、黒い足が通りすぎる。そして一瞬の間。
ドカッ!
座席が弾む気配がした。私は期待を込めて左隣に視線を向ける。
そこに鎮座していらっしゃるのは、紛うことなき先輩さまだ。
(せ、先輩が……私の隣に……)
ああ、緊張しすぎて頭が回らない。落ち着かないと。まずは挨拶をしなければ。
「あの……、おはようございます。先輩」
「おはよ」
ちらりと見上げれぱ、短く挨拶してくれた先輩と至近距離で目が合った。私の鼓動がドキリと跳ねて、意識しすぎた左半身が熱を帯びる。
あ、でも、至近距離と言ってもボックスティッシュ1箱分くらいは間が空いている。でもでも、私と先輩にとっては奇跡の距離感だから、そこはどうか温かく見守って、八百万の神たちよ。
どうしよう。とりあえず会話した方がいいのかな。今、手に持っている本はどうしよう。とりあえずしまおうかな。
私が次の行動を決められずにあたふたしていると、先輩から話しかけてくれた。
「いつもどんな本、読んでいるんだ?」
そうか、先輩も読書が趣味だと交換日記に書いてあったっけ。私の読んでる本のタイトルが気になるのかもしれない。私は徐に手元にあった小説に視線を落とす。
「こ、これは……!」
ダメだ! これは亜未ちゃんに押しつけられた恋愛のハウツー本だ。この本にはありとあらゆるモテテクが書かれていて、亜未ちゃんからは必ず読んで感想を聞かせろと言われている。
私はそそくさと本を隠した。絶対に先輩には見せたくない。
先輩からの優しいボールを投げ捨てた私は、次の話のネタを必死で探す。ああ、そうだ。お礼をしなければ。挨拶とお礼は人間関係における潤滑油だ。これでいこう。
「あの……先輩っ!」
「なんだ?」
私は呼吸を整える。そして耳を貸してくれるようにジェスチャーする。先輩が躊躇いがちに顔を寄せた。
「隣に座ってくれて……ありがとうございます」
私が心を込めて言ったとき、先輩の顔が光の勢いで私から離れてしまった。あれ? 私、何か引かれること言ったかな……。
しょんぼりして日記を受けとった私は、いつもの駅で電車を下りた。
でも次の日からボックスティッシュ1箱分の距離が、ポケットティッシュ1個分に縮まった。たぶん嫌われてはいないみたい。
良かった……。