39 (先輩視点) 花と杏2
杏の吐息が首筋にかかり、力では勝てるはずなのに、なぜか身体が動かなかった。
俺はふと真っ暗になった空を仰ぐ。物置か何かわからない、窓のない建物の陰に2人きり。薄らぼんやりとした橙色の遠い光。目の前には身体を密着させ、俺を誘惑する杏。
視線を落とせば、見てはいけないものが容易に見えてしまいそうだった。
俺が青臭い苦悩に目を瞑った刹那。
「ダメー!!!」
「「!」」
側面から何かが飛び付いたような衝撃を受けて、身体が揺らいだ。それから小さくて柔らかい感触がして、甘い香りがふわりと舞う。
「花?」
「先輩!」
しがみついてプルプルと震える花は、それでもとても勇敢だった。当然杏からしてみれば面白くない訳で、夜叉のような顔で舌打ちをする。
「チ。今さら何よ、あんた? お呼びじゃないんだけど」
「……先輩。この人と付き合ってるって本当ですか?」
意外にも花は杏を無視した。
「付き合っていない」
だから俺はすぐに答える。
それにしても、こうして上目遣いで見つめられると、脳天が沸騰しそうなくらい熱くなって仕方がない。同じ事を杏にされたときは、心は微動だにしなかったのに……。
「良かった……」
可愛らしく綻ぶ笑顔に目を奪われて、そしてふと我に返る。あのキスシーンが脳内で再生を繰り返していた。
「でも花は……」
「私も! 飯尾くんとは付き合ってないですっ!」
食い気味に被せられた大きな声。けれど俺が反応するよりも先に杏が叫んだ。
「さっきキスしてたじゃない!」
「していませんっ!」
杏が青筋を立てて、俺から花を引き剥がそうとする。しかし彼女はしがみついて離れなかった。
「ちょっとくっつき過ぎよ! それに私たちは聞いたのよ。あんた、遠距離恋愛の彼氏がいるんでしょ?」
「な、なんですか、その話? 彼氏がいたことなんて、1度もないんですけど……」
花の声が上擦ったのを、杏は見逃さなかった。
「あらら、この子とんだウソつきじゃない?」
杏はまた不気味な笑みを口元に刻む。花の腕が動揺で緩んだ。
「だって私たち、緑町駅の本屋で聞いたのよ? ね、逞?」
俺は本屋での会話と、またあのキスシーンを思い出していた。遠距離恋愛の彼氏とは別れたとしても、その存在自体を否定するのは不自然だったし、あの衝撃的な場面をなかったことにはできなかった。
一体何が本当で何が嘘なのか、よくわからない。
誰かすべての答えを教えてくれたら良いのに。そんなあり得ないことを考えるくらい、俺は真実を見失いかけていた。




