第七話 不可視のひずみ
王宮の朝はそれほど悪いものではなかった。
その後、ベルディナの誘いで食事をとったディレイアは王宮の食事といってもやはり味の濃い料理ばかりだということに愕然としつつも、その中でも繊細な奥ゆかしさを感じ少しこの国の料理を見直した。
夜も遅く、汗と酒の匂い(リュックに染みついた蒸留酒の匂いだ)でかなりの悪臭を漂わせるディレイアを湯殿に引っ張っていったベルディナは、出たら中庭に来いといって去っていった。
湯殿は広くて綺麗で、何よりも豪華だった。元来風呂にはいることがキライではないディレイアもついついはしゃいで長湯をしてしまい、寒空の下で待つベルディナに随分と叱られた。
「女じゃねぇんだ。風呂ってのは手早く済ませるようにしろ!」
多分に誤解を含む言い方だったが、ディレイは無言で肯き、用意されていた寝間着のまま部屋へと案内され見たこともないようなふかふかなベッドにだいぶすると同時に気絶するかのような勢いで夢の世界へと旅だった。
柔らかな雲に抱かれている感触の夢を堪能するあまりディレイアは寝坊をしてしまった。
とりあえず、朝食をもらおうと昨晩案内された食堂に足を運んだディレイアだったが、その姿のせいで食堂に居た人間全員の注目を浴びてしまった彼女にとっては、その脇で手を振るベルディナが思わず救いの神に見えてしまったのもしかたのないことといえる。
「よく寝られたか?」
朝食に相応しい簡素な料理を頬張りながらベルディナはディレイアの表情を覗き込んだ。
「寝坊するぐらいよく眠れたよ。あんなベッドは初めて」
ふかふかの毛布どころか豪華な天蓋さえも設えられたそのベッドはまるで王族の姫君が使うものとも感じられた。
「一応あそこは客室なんだが、国賓の従者を泊めるためのもんだから少し質素なんだよ。まあ、気に入って貰えてなによりだ」
あれで質素何だったら街の宿屋の部屋なんて犬小屋にもならないじゃないかと思いつつ、ディレイアはここに住む人たちにとっては犬小屋の方がましだというんだろうなと気がつき、少し暗い気分になった。
「何だ? 国賓の部屋で眠りたかったか? それはさすがの俺でも無理だぞ」
ベルディナはそういいながらちぎったパンをスープに浸してそれを口に運んだ。
「んー、ちょっとね。王宮と下町にどれだけ差があるのかって考えてたとこ」
ベルディナの真似をしたということではないが、ディレイアもパンをちぎってそれをスープに浸して食べた。
とてもおいしい。
何よりも朝食ということで味付けを薄い目にしてあるのが、今までなじみの深い感じに思えてディレイアは目を細めた。ただ、何日かこの国の料理を口にしていると、何というか、少しだけ物足りないような気もしてくるのが不思議なものだ。
「王宮と下町の差か。それこそ、天と地ほどの去って奴だな。まあ、あんまり深く考えない方が良いぜ。精神衛生上良くない」
卵とじにされたハムの焼き物を口に運びながらベルディナは朝であることにかかわらず傍らに置いてあったワインをグラスにつぐとグイッとそれを飲み干してしまった。
この国には朝の飲酒が奨励されているのだろうか。よく確かめてみると、それはベルディナだけではなく他の者達も思い思いに食事に興じつつ、ワインを片手に談笑をしているようだった。
「そんなに飲んでいいの?」
既に三杯目に入りつつあるベルディナを止めるようにディレイアはそう話しかけると、ベルディナは「お前は何を言っているんだ」といわんばかりにきょとんとした眼差しを浮かべた。
「ワインは一日の原動力だろう? これが無くてどうやって今日を生きていける?」
それは世間の常識なのかも知れない。基本的に朝食をこういう場所でとらない(正確には取れるだけの金がない)ディレイアは未成年であることも関わり、朝から酒を飲む習慣に出会ったことがなかったのだ。
いや、それは王宮だからこその習慣なのかも知れない。ディレイアはそう思い直し、今度街に出た時、朝食堂にいってみようと決意を固め、今は判断を保留にすることとした。
朝食も食べ終わり、そろそろ人もまばらになってきたところでベルディナは食後の珈琲を飲みながら、
「さてと、この後のことだが」
といって話をし始めた。
結局彼はあの後、ワインを一ボトル全て空にしてしまい心配するディレイアをよそに至極平然とした様子だった。
(最初に会った時もそうだったけど、この人はとんでもなくお酒に強いんだな)
とディレイアは思いつつ彼の話に耳を傾けた。
「いろいろ物要りだ。これから城下町に出て買い物をする。お前の荷物を見させてもらったが……」
そこでベルディナは言葉を切り、怪訝そうな目でディレイアを見た。
食後の牛乳で咽を潤わしていたディレイアはそんな彼の目に小首をかしげた。
「お前、あんなゴミを持って旅をしてたのか?」
その言い方に、ディレイアは飲んでいた牛乳を吹き出しそうになった。
「ち、違うよ! あれは、落ちた時にああなったの」
それを思い出してディレイアはふさぎ込みそうになった。事故とはいえ、お気に入りもあった荷物の殆どが使い物にならなくなってしまったのだ。これから買いそろえなければならないと思うと少し陰鬱な気分になってしまう。
「まあ、だろうな。ほれ」
なに冗談を真に受けているんだとベルディナは思いつつ、その足下に隠しておいたものを机の上に置きディレイアに前に差し出した。
「えっと、これは?」
さっきから随分と足下が邪魔だなと思っていたそれらは、ベルディナが用意したものらしかった。
何か細長い棒のようなものと、真新しいリュックサック。中にはまだ使われていない道具が良く整理されて収められており、それを見る限りどうやらついこの間までディレイアが使っていた物と殆ど変わらないものが入れられているようだった。
「それがお前の荷物で、こっちが新しい剣だ。前のがらくたとは違ってミスリルのしっかりとした奴にしておいた」
細長い棒に見えたそれは、よく見るとしっかりとした柄と見事な鍔、そして簡素ながら品のいい装飾が施された剣だった。鞘を抜かなくても分かる。これは、ディレイアが今まで持ってきた剣など単なるがらくたに見えてるほど洗練された剣だ。
「あの……」
ディレイアは言葉を無くした。
「他に必要なもんは後で買いに行く。特に着るもんは自分で選べよ。ガキの服なんて、ここではそろえられないからな」
そんなディレイアにかまわず、ベルディナは珈琲をすすりながら話を続ける。
「あ、あの!」
それを遮るようで気が引けたが、ディレイアはどうしてもいわなくてはならないことがあった。
「あん?」
話の腰を折られたベルディナは少し不機嫌そうな表情でディレイアを睨むが、ディレイアはそれにかまわず頭を下げた。
「あ、ありがとう。ベルディナ。とっても嬉しいよ」
ベルディナは、なんだそんなことかと視線を外すと、
「ああ、感謝しな」
と素っ気なく言って席を立った。
「行くぞ、準備しな」
椅子の背もたれにかけてあった灰色のローブを身に纏うい、ベルディナはディレイアを待たずに食堂を出ようとした。
「ま、まって」
ディレイアは慌ててリュックを背負うと、新しい剣を腰に結わえ、急いでベルディナを追いかけた。
朝は少し風が冷たかったが、それでもさんさんと照りつける太陽に次第に暖められていく空気に、やはり初夏の陽気を感じさせられた。
ディレイアはこれからの自分の未来に少しだけ希望を見いだすと、息を切らせてかけだしていった。
城下の町並みは、王国で起こった大事件のことなど何処に吹く風というほどに平穏を保っていた。
「情報封鎖は完璧に機能しているようだな」
とうそぶくベルディナをおいながらディレイアは初めてじっくりと見る町並みに目を奪われていた。
確かに、この町はスリンピア王国の王都と比べれば幾何か質素な町並みの様相を示している。だが、そこに住まう人々を見ると確かにここが世界に名だたる国家であると納得させられることも多くあった。
何より人が生き生きしている。スリンピア王国は人が多い分、どこか町並みによそよそしさが漂う感じがしていた。しかし、朝霧が晴れると共に徐々にその姿を示す町並みはどこか雄壮としていた。
そして、朝も早くから街の至る所に建てられた工房の煙突からは既に煙が立ち上っており、炭が焼ける匂いが徐々にその濃度を上げていっている。
良質のミスリルをハンマーで打ち付ける軽快な音は、まるで町並みを旅する吟遊詩人の琴の音のように家々と溶け込み膨らんでいくようだ。
ディレイアは、腰にぶら下がるミスリルの剣をそっと握りしめた。
ベルディナはそんなディレイアを振り向くことなくどんどん先へと進んでいく。ディレイアはそんな彼において行かれないように歩調を強めるが、ついつい目が向いてしまう工房の様子にその足も遅れ気味のようだった。
そのため、ベルディナが一つの店の前で立ち止まっても今度はその背中にダイブすることはなかった。
「ここ?」
ディレイアは店を開けてまだ間もないその店を見上げた。
「ああ、ここなら大概のものは揃う」
クランツの雑貨やと記されたその看板の隅には比較的大きな文字で『王宮御用達』とかかれてあった。
確かにこれなら信頼できそうだ。その店が王国の建国とほぼ同数の歴史を持つことにも驚いたが、何よりも驚いたのはその店構えが全く気取ったものではなく、例え庶民でも足を運びやすいよう門戸が開かれている点だった。
「良さそうな店だね」
ディレイアのそのつぶやきに、ベルディナは「当たり前だ」と答え、さっさと入り口をくぐっていってしまった。
ディレイアもそれに続き特に抵抗感もなくその入り口に足を運んだ。
しかし、足を運びやすいのはどうやら門構えだけのようだった。
店の中の品物をいろいろ見て回ったディレイアはそこにかかれた値札を見て、次第に居心地が悪くなっていった。
「何でただの食器が五ソートもするんだよ……」
様々に並べられた食器類の棚の中でも最も安いものを見繕ってもその値札にかかれた金額には溜息しか思いつかなかった。
今更鉱山の日当の金額を思い出してみても、この食器を買うためにその収入の半分以上を払わなければならないとは何か間違っていると彼女には思えてしかたがない。
王宮御用達も伊達ではないということか。例え、金は全て王国から出されるといわれても日頃から身についた貧乏性がそれをはね除けてしかたがない。
「さっさと決めちまえよ。時間がねぇっていってんだろう?」
そんなディレイアに業を煮やしたのか、ベルディナはその頭をこついだ。
「だって、みんな高いんだもの」
身を縮めて棚を見上げるディレイアはいつもより小さく見えた。
「まったくお前は。こんなもん、適当に選らんじまえばいいんだよ。ほれ、ナイフとフォークはこれでいいだろう」
ベルディナは棚の中から適当にそれらをつかみ取るとまともに値札も確かめずにそれを籠に放り込んだ。
「ご、五十ソート? 駄目駄目! こんなの怖くてつかえない」
壊れるものでもないくせにディレイアはそれをおそるおそる籠からつまみ上げると元あった場所に丁寧に戻し、一息ついた。
「なるほど、むしろ持ってると安心出来ねぇってことか」
ベルディナはようやく合点がいったといわんばかりに腕を組んで、大げさに首を縦に振った。
「このお店高いよ。何でお皿だけで一ソートもするの? 破産しちゃう」
破産という言葉にあまりにも実感がこもっており、既にディレイアのまぶたには僅かに涙が見え始めていた。
(こいつ、よく泣くな。涙腺弱すぎだっての。まあ、ガキじゃしかたねぇな)
ベルディナは少し哀れに思いつつも店の中を見回して溜息をついた。
「俺にとっては安もんしか置いてねぇように見えるがな」
普段大きな金を動かしていることと、彼が王宮からもらっている給金が多すぎるせいか、それともそもそも彼には金銭感覚というものが欠如しているのだろうか。ベルディナはどう考えても高い買い物をしているようには思えなかった。
「それは、ベルディナが普段贅沢してるからだよ」
憎々しげに見つめるディレイアの視線を受け流しつつ、ベルディナはひとまず考えを変えることとした。
「それは言えてるな。だったら店を変えるか。親方から聞いた店なら何とかなるだろう」
彼の知る数少ない庶民の感覚なら、ディレイの納得できるものも手にはいるかも知れない。
「そうして!」
まるで藁をも掴む溺れ人のような表情で懇願するディレイアはベルディナの袖を引っ張って外へ出ようと誘った。
「その前に……、おい、店長。この宝石を一〇個づつくれ」
ベルディナはそんなディレイアをとりあえず制しながら、その側に置かれた眩い光を放つ棚から幾つかのものをつかみ取ると、店長を呼び出した。
ディレイアはその手の中にあるものをみて卒倒しそうな感覚に襲われた。彼の手の上には、ガーネット、トパーズ、エメラルドといった三種類の宝石が置かれている。
ディレイアはその一つ一つの値段を確認し、口から魂が抜ける感覚を経験することとなる。
「それ、一つ二〇〇ソートもするよ?」
三種類が十個ずつ、一つが二〇〇ソート、つまり合計で六〇〇〇ソート。計算に疎いディレイアでもそればかりは一瞬で頭の中を駆けめぐった。
「安いだろう?」
ニヤッと笑うベルディナに、ディレイアは言い返す気力さえも奪われ、ただ人形のようにカクカクと頭を振るわせた。
「……ウン、ソウダネ……」
ディレイアは今、あの世とこの世を分ける渓谷の吊り橋を眺めていた。
実際の支払いは金貨を払うのではなく、請求書を王宮へと送る書面にサインをするだけのものだった。後から考えると、彼がこの店を選んだのも『王宮御用達』であるからなのだなとディレイアは気がついた。
それから安い店屋を探してそこの品物に納得したディレイアだったが、ベルディナは、
「細かい持ち合わせがねぇんだ、とってくるからちょっと待ってな」
といって、店にディレイア一人を残して元来た道を引き返していった。おそらく、王宮にある金庫か、銀行に行ったのだろうとディレイアは想像した。
そうなると少し時間がかかると思い、雑貨屋の隣にある服屋で先に着る物を買っておこうと思い店を後にした。
ひとまず、昨晩ベルディナがいっていた厚手のコートと、よれよれになった上着に丈夫で長持ちするズボンを二着。そして、なるべく風通しがよく、大事な部分を変に擦り付けない上下の下着。一応、何かのために作業用の軍手を一セットと、靴下を三足ほどそろえたが、全部会わせてもディレイアの手持ちだけで買えそうだった。
(お金は後でベルディナからもらえばいいや)
と考えながら、カウンターでにこやかな笑みを浮かべる女の店員にそれらを全て渡した。
「お買い物? 偉いね」
どうやら、この国の人間はみんなディレイアを子供扱いしなければ気が済まない様子だった。ディレイアは少し不機嫌になりつつも、坊やとか小僧とか言われないだけましだと思いながら会計を待った。
「あれ? これは、女の子用よ? ボク?」
店員の手が、一番下に重ねてあった下着類に伸びた時、ディレイアはやっぱりかと思い仕方なく事情を話すこととした。
「大丈夫ですからそれも勘定に入れておいてください。ボクは一応女の子です」
ディレイアはこれを言うのが嫌だった。これを言うと、『こんな小さな女の子が旅を?』という眼差しをもらうからだ。特に、仕事斡旋所の職員にこれを知られてはならない。もしも知られてはおそらく、どんな仕事でも回してもらえなくなるかも知れないからだ。
(男だとか女だとか。ボクはボクなのにどうしてこんなに扱いが違うんだろう?)
この世の不条理に嫌気が差し始めたディレイアは店員の不躾な視線を受け流しつつ、無言で金を払って外に出た。
どうやらベルディナはまだ来ていないようだった。
ディレイアは少しホッとして、買ったものを乱雑にリュックに詰め込むと本来の目的である雑貨屋に足を運んだ。
ようやく全てのものを買いそろえた頃には、ボルドーミサの先兵も守蛇の門の彼方に沈もうとする太陽の朱にすっかりと身を染めていた。
「何でこんなに時間がかかった」
ベルディナの奢りでディレイアが泊まっていた宿屋の食堂で夕食をとった後、ベルディナはそう嘆きながら王宮へと引き返していく。
ディレイアは今晩はその宿屋で泊まってもよかったが、ベルディナは金の無駄だと言ってそれを却下した。ディレイアは、ベルディナも少しは庶民の金銭感覚を学んだのかと安堵した。
その店で鉱山で別れたロベルトが顔を見せていたのは嬉しい誤算でもあった。ロベルトは居なくなってしまったディレイアを心配してずっと食事が咽を通らなかったらしいが、元気な顔を見せるディレイアを見て無愛想ながらも喜び、その側に座るベルディナを見て萎縮していた。
しかし、ベルディナの人当たりの良さを見て徐々にその緊張を解きほぐしていき、最後には笑顔で彼と談笑をしていた。
さすがにどうしてディレイアとベルディナが一緒にいるのかを知らせるわけにはいかなかったので、実は知り合いだったんだということでお茶を濁した。
実際、ベルディナとディレイアはそれまでも知り合いだったのだが、ディレイアがベルディナの正体を知ったのはそれよりもかなり後のことであるから、少しディレイアは罪悪感を覚えた。
「気にするな。あれでよかったんだ」
と言うベルディナの言葉にもっともだとは思うが、どうしても胸に引っかかりを覚えてしかたがない。
まるで、ばれていない悪戯を隠す子供のように、その違和感はベッドに横になって寝付くまで続くこととなった。
ディレイアは徐々に白んでいく意識の中、どうして自分がここにいるのか分からなくなり、そっと母の名を呟いた。
「今日は、お母さんの夢が見たいな」
まるで幼子のように呟く彼女の願いは聞き届けられることはなかった。
一応補足までに、本編では世界観を崩す恐れがあり記載できなかったのですが、この世界の通貨であるソートは、一ソートだいたい一〇〇〇円ぐらいとお考えください。
つまり、ディレイアの日当がおおよそ一〇ソートで一〇〇〇〇円ぐらい(結構割のいい仕事ですね)。
それに対して、ベルディナが大人買いした宝石類は、六〇〇〇ソートつまり六〇〇万円(!!!)。ベルディナの金銭感覚の欠落ぶりがよく分かりますね。だいたいこの値段、ベルディナにとっては何でもない金額らしいです。
ちなみに、ソートの下にはソイトという単位があり、一ソートはおよそ一〇〇〇ソイトというレートになっています。